第19話 なりたかったもの

 はふう、と息を吐いたひよりは、テーブルにこつんと額を乗せた。


 「茶でも淹れましょうか」


 そう言いながら青磁が隣に座る。

 霧生と薫は、互いの手をしっかり握りながら帰って行った。傷口は石蕗が「俺は医者じゃない」とぶつぶつ言いながら、治してやっていた。その石蕗も、さすがに眠いと言って自分の神社に引っ込んでいる。


 だからここには二人だけだ。雀がちゅんちゅんと鳴く可愛らしい声が聞こえている。


 「……舌、渡しちゃって良かったんですか」

 「ほんとうはとても嫌でした。――ですが、置いて行かないで、と泣いている娘を救いたかったんです。そうしたら自分も救われる気がして」

 「薫さんが、今回は置いて行かれずに済んだのは、青磁さんのおかげですね」


 青磁は無理やり笑みを浮かべて見せた。あそこまで舌ができていたのならば、あと少しで舌を手に入れられていたのかもしれない。

 ならば、これ以上この話には触れない方がいいかもしれない。そう思いながらも、ひよりはつい尋ねてしまう。


「また、縁切り屋、やりますか」


 青磁はちらりと主を見た。不安げな顔でこちらを見ている。

 

 「私は、やってほしいです。青磁さん」

 「……ええ、続けますよ。お前の作ったものを食べたいと言ったのは嘘じゃありませんからね」

 「そう、ですか」

 「ああ、言い忘れていましたが。塩むすびもそうですが、私はあなたの作った、たけのこご飯というものを食べてみたいです」

 「ああ、最初に作ったやつですね」

 「私はね、井戸から出てきたばかりのときは、縁切り屋を再開する気なんてなかったんです。けれど、お前があんまりにも嬉しそうにあれを出してくるから――あの顔が、あんまりにも七生にそっくりだったから――もう一度、挑戦したくなったんだ」


 ひよりは、青磁の震えている手をそっと握り締める。

 そうして、あの文箱を取り出した。


 「七生さんは、青磁さんの次の主に手紙を残していました。私が二人の出会いを知ることができたのも、この手紙のおかげです」

 「……」

 「この二通目の手紙は、七生さんが術を込めているから、七生さんと話せます」


 青磁ははっとした様子で文箱を見る。ひよりは静かに文箱を開け、ぼろぼろになった手紙をそっと取り出した。


 「私がだいぶ読んじゃったから、七生さんと話せるのはほんの少しなんですけど」


 そう言って手紙を青磁に差し出す。

 青磁は震える指先でその手紙を受け取る。はく、はくと何度も息を仕損じてから、ようやくぱっと手紙を開いた。







 「青磁」


 ああ、どれほどその声で呼ばれたかったことだろう。

 真っ暗な空間。懐かしい術の気配。青磁は振り返る。

 にこにこと笑っている七生がいる。


 「ななお」

 「お前の次の主はいい人だ。何しろ鏡の巫女でもあることだし、誠実さは折り紙付きだ。あの清らかな人を、きちんと守ってあげなくちゃいけないよ」


 七生の声はかすれている。もう手紙に込められた術が残り僅かなのだろう。

 聞きたいことはたくさんあった。どうして自分を置いていったのか。なぜ一緒に死なせてくれなかったのか。


 「……」


 でもきっと、それは無駄な会話になる。

 終わったことだ。過去の話だ。

 七生は死んで、もういない。


 だから、前を向こうと青磁は思った。

 未来の話を、しようと思ったのだ。


 「……私は、今も縁切り屋をやっています。舌を得るために、はさみと、ひよりと。これからも続けます」

 「そこは先にひよりさんの名前を挙げなくちゃ」

 「ああ……。あれはどんくさいですから、あまり頼りにならない」

 「仮にも主だろう、お前の」


 苦笑する七生。青磁は一瞬黙って、それから、無理やり微笑みを作った。


 「はい。私の主です」

 「……辛い思いをさせたね。私はもう、死んでこの世に何の影響も残せない身だけれども――いや、だからこそ、お前のために祈っているよ」


 どうかお前が、生きていてよかったと思えることがあるように。生きる喜びを味わえるように。

 七生の姿が掠れてゆく。青磁は思わず手を伸ばし、その残滓を指でかき集める。

 けれど所詮は亡霊だ。七生は消える。消えながら、かつての主は呟いた。


 「青磁。――俺の青磁」


 口元を戦慄かせ、青磁が頷く。


 「はい。はい、私は、あなたの――」






 テーブルに雫が落ちる。

 青磁は泣いていた。涙を隠すことなく、ただ一点を見つめて。

 その手に七生の手紙はない。消えてしまった。七生の最後の術が終わったのだ。

 ひよりはそうっと手を伸ばし、青磁の冷え切った指先を握り締めた。


「青磁さん」


 青磁は目の前の少女を見つめる。どんくさそうで、抜けていて、けれど神鏡を持つことのできる彼の主。

 そう、主だ。式神を式神たらしめる存在。絶対的に仰ぐべき神のような――。

 青磁は涙を拭って、ふっと皮肉っぽく笑う。


「ま、お前はただの食いしん坊か」

「あー、またそういうこと言う。ほんとは少しいいこと思ったんじゃないんですかー?」  

「思っていませんよ、鏡の巫女様」

「あ、それ、恥ずかしいのでやめてくださいね」

「どうして。今回の勝利の立役者でしょう」

「だって鏡の巫女って、要するに、とんでもない間抜けな人ってことでしょう?」


 青磁は答えない。


 ――鏡の巫女は、その名が後世に伝わっていない存在だ。

 ただ、神鏡を持ち、人々の心を慰撫し、荒廃した都の復興に尽力した。

 意地悪な言い方をしてしまえば、何にもしていないのだ。陰陽師らしい功績は何もなく、伝えるべき武勇伝も語り継ぐべき威容もなく、ただそこにあるのは。


 困っている存在に差し出される手だけだ。


「いいえ、間抜けなんかじゃありませんよ」


 青磁は知っている。鏡の巫女だなんだと言う前から、自分の主が、困った存在に手を差し伸べられずにはいられなかったことを。

 たとえ人間だろうと式神だろうと、ひよりは助けたいと言う。喜びを分かち合いたいと言う。その掛値ない優しさが、鏡の巫女である所以なのだろう。


「ただ、損得勘定ができないほどお人よし、というだけです」

「ううーっ、それ、ほとんど同義では……!?」


 青磁は何も言わないでいる。真実は時として残酷なものだからだ。

 それに、その前に確認しておきたいことがある。


「お前、陰陽師になるんですか」

「え? 考えてなかったですけど、でも、皆のためになるなら、もっと勉強が必要かなとは思ってます」


 言いながらひよりは苦笑いした。


「五百旗頭さんには才能がないって言われちゃったので……。でも、青磁さんの足を引っ張らない程度には、訓練しようと思います」

「……別に才能がないとは思いませんけど」

「え? ほ、ほんとですか」

「はい。お前なら陰陽師、なれるんじゃないですか」

「……わあー! 今、結構感動しました! 泣きそう」

「泣くな。お前、一回泣くと後引くタイプなんですから」


 泣くなと言われると余計泣いてしまいそうになる。ひよりはこれ以上からかわれる前にと、席を立った。

 すると青磁が片手をあげて、それを制した。

 開け放した部屋に一陣の風が吹き抜ける。爽やかな、初夏の香りさえ含んだそれを、二人で吸い込む。


「――お客様が来たようです」

「縁切り屋の、ですか?」

「他に何がある。お前はお茶を淹れてきなさい。さっさと仕事を再開して、舌を手に入れなければならないんですから」


 そう言いながら、玄関に出迎えに向かう青磁。彼とは反対方向の台所方面に向けて、ひよりはとことこと歩いてゆく。

 そうして茶葉の缶を取り出しながら、少し切なげに微笑んだ。

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