第18話 ただ、あるがまま
屋根の上に立つ青磁は、どんどん空に広がる暗雲を見上げている。東の空には既に朝日が昇っているはずなのに、その気配が全く感じられない。墨を塗りこめたような真っ黒な天が、そのままこちらに落ちてきそうだ。
八岐大蛇に挑む須佐之男命はこんな気持ちだっただろうかと思いながら、下の石蕗に向かって叫んだ。
「お前の神社の方にも来ていますよ!」
「そりゃあ頂けないな! ここら一帯に結界を張ったが、さあてどこまでもつか」
屋根の上までふわりとやって来た石蕗の、鋭い犬歯がぎらりと光る。
彼が元々唐獅子の精霊であったことを知る者は少ない。青磁はその僅かな例外に属する存在であり、だから遠慮なく顔をしかめる。
「あまり下品な真似はするなよ」
「それは了承しかねる。たまには荒ぶることもしなければ、土地神を名乗れまい!」
ごおう、とここら一帯を揺るがすほどの咆哮が轟いた。石蕗は長い尾を持つ獅子へとその姿を変え、果敢に暗雲へと向かってゆく。彼の咆哮は雷を纏った風となり、その雲を遠方へと押しやってゆく。
「……そう言えば、あれが獅子の姿を取るところは初めて見ましたね。話には聞いたことがあったけれど」
七色に輝く尾、黄金色の美しさを振りまくたてがみ。吉祥を身に着けた土地神の、力いっぱいの咆哮に、背骨がぶるりと震えた。
下から霧生も上がってくる。首の辺りに、薄っすらと白い鱗が生えそろっているのが見えた。彼もまた、川の神としての力を振り絞って、あの暗雲に対抗しようとしている。
「あの五百旗頭とかいう狐は、帰って行ったぞ。口惜しいが、あの大物が出てしまえば大戦争は免れまいからな」
「仕方がありません。店でひよりを守ってもらった方がいい。あなたの花嫁御寮はいかがしています?」
「下で握り飯を握っている」
「私たちは食事をしないことを、彼女は知らないのですか?」
「知っている。だから自分の分の握り飯を握っているだけだ。あいつはあの呪いに自分の腕一つで挑む気でいるぞ」
「あなたの花嫁はたくましいこと」
「やらんぞ」
「いりませんよ」
まあ、怯えて泣かれるよりはいいが。
霧生の周囲に水の粒が浮かび上がり、徐々に大きくなってゆく。
「さあ、私は土地神の援護をしてこよう。そなたはここを頼む」
「分かりました」
雷が鳴り響く。石蕗が、毛布に突っ込む猫よろしく、暗雲の中に飛び込んでは、かき散らしてまた出てくるのが見えた。
霧生の放つ大粒の水もそれを援護する。水がぶつかった部分の暗雲は、ぱっと飛び散って消えてしまうのだが、しばらくするとまた復活してしまう。二柱の神の派手な攻撃に比べて、相手の被害はそこまで大きくないようだった。
「……吹っ掛けられた喧嘩で、こちらが消耗するというのも業腹ですね。できればこの暗雲の源を潰したいところではある」
この暗雲全体が本体、というわけではないだろう。この暗雲を操っている「中央」があるはずだ。青磁は目を凝らして暗雲を見つめる。
「右寄りのあそこが少し怪しいか」
懐からいつもの縁切りばさみを取り出し、ぐるんと回す。身の丈ほどに大きくなったはさみは、興奮したように何度も鈴の音を鳴らした。
「あれとこの世を結ぶ縁――。それを切り落とすだけの力があればよかったのですがね。それは神の領域か」
ふ、と微かに笑った青磁は、はさみを構えて軽く屋根を蹴った。
悪意は不定形だ。
それは決まった形を持たない。だからこそ、どんな鋳型にもはめられるし、どんな鋳型にもなじまない。大気に薄く広がりつつあるその呪いは、一つの丸い玉から発せられているものだった。
剥離糾。悪意の凝縮されたもの。
たった一つの家を潰すため、この世に生み出された悪夢。
しかしそれを邪魔する者たちがいる。ちょろちょろと目障りな神たち。神といっても格落ちの、精霊に近い存在だ。小さい虫も同然の、憐憫の情を垂れるべきいきもの。
剥離糾はため息をつく。あえかなため息は、けれど暴風となって、地上を襲った。
「ぐっ……!」
石蕗の体が地面にしたたか打ち付けられる。地面に大きな穴が開くのを見て、薫がぎょっとしたように窓辺に駆け寄った。
「あーあー、人間は引っ込んでなさいって」
「薫、だめだ! 絶対に出てくるな!」
石蕗の側に降り立った霧生が、獅子の体に絡みつく黒いもやを、両手で払いのける。だが払っても払っても、そのもやは執拗に石蕗を狙う。
払っていた霧生の指先にも、もやがとろりとしな垂れかかった、その時。
しゃきん、とはさみの小気味いい音。
青磁のはさみがもやを断ち切り、石蕗と霧生を自由にする。断ち切られたもやは、のろのろと撤退し、暗雲の方へ戻ってゆく。
「君のはさみはそんなことまでできるのか?」
「今日は特別です。それより霧生、東側の暗雲に本体が隠れていそうです。吹き払えますか」
「可能だが、本体が隠れているというのはまことか!」
「私のこの鈴は、悪いものによく反応するのですが、東側ではうるさいほどに鳴り響きました。そっちにこの暗雲の本体が――核があるに違いないです。あまり近づけなかったので、詳細な位置までは分かっていないのですが……」
「構わない。長い戦いは避けるべきだ、すぐに決めよう」
「石蕗は援護を頼みます」
唐獅子は頷いてふわりと宙に舞い上がる。
霧生はその身を大蛇に変え、同じく空中に浮かび上がった。優雅にとぐろを巻き、濡れた鱗を光らせて佇むさまは、やはり川の神の貫禄がある。
霧生の周りに風の流れが生まれる。それはやがて竜巻となり、霧生の生み出す水を吸い上げて、巨大な渦潮へと姿を変えた。霧生の目がいっそう輝きを増した瞬間、その渦潮は暗雲の東側めがけて放たれる。
「いけるか……!」
渦潮はうねりをあげて、黒雲を巻き込んでゆく。巻き取られた暗雲はどんどん薄くなっていって、ただの雨雲のように見えてくる。
青磁は目を凝らして、剥離糾の本体を探す。未だ暗雲のベールに身を隠している本体は、すぐ手の届く場所にありそうだった。
霧生の鱗が七色に輝き始める。渦潮はその威力を増し、完全に東側の暗雲を消し去ってしまった。
――そうして、東側に禍々しい気を放つ玉が浮かび上がる。
人が手のひらで持てる程度の大きさだ。けれど、その玉が放つおぞましさはすさまじいものがある。
「あれだ、あれを攻撃して――」
「待て青磁、来るぞ!」
ぐにゃりと歪む剥離糾。
玉の形を捨てたその呪いは、水銀のようにどろりと溶けて、それから。
鋭い銀の槍となって、無防備に浮かんでいる霧生の腹を貫いたのだった。
オパール色の鱗が弾け飛び、真っ赤な血が迸る。力を失った霧生は大蛇の形を取ることができず、人の姿となって地面に落ちてゆく。
青磁ははさみを投げ捨ててその体を受け止める。地面に横たわった霧生の体から、どろどろと流れる血は即ち、生命力。
神とて死と無縁ではない。体に蓄えた力がなくなれば――消える。
悲鳴を上げて飛び出してきた薫が、霧生の体を抱きしめ、揺さぶる。その大きな瞳が、怒りを湛えて暗雲を睨み上げた。
「この……ッ、この野郎っ! 私が絶対に、お前を、殺してやる……!」
「次来るぞ、青磁!」
「分かっています!」
剥離糾がまたぐにゃりと姿を変え、あの水銀のような槍で攻撃してくる。青磁のはさみでさえも、受け止めるのがやっとで、ろくな抵抗ができない。受け止め損ねた水銀が地面に落ちた瞬間、そこに生えていた草が一瞬で枯れてしまった。
「俺の土地を……! このクソ陰陽師め、侮るのも大概にしろ!」
石蕗がそう叫んで、剥離糾へと向かおうとした、その瞬間。
「うわあ、玄関がどろどろだ」
のんきなあの声が、石蕗のやる気をぐっと削ぐ。
いや、そんな場合ではない。
庭の方に現れたひよりは、いつものぽやっとした表情で、ぺこりと頭を下げた。
「ひより!? なぜここに、五百旗頭さんにはお前を守るよう言っておいたのに……!」
「ありゃ、あれが剥離糾ですね。意地悪な形してる……って、霧生さん!?」
ひよりは慌てて霧生の元へ駆け寄る。薫が必死に止血しているのを見、部屋に駆け戻るとたくさんのタオルを持ってきて、薫に渡した。ひよりらしからぬ俊敏な動きだ。
青磁はいらいらと、
「だからなぜお前がここにいるのです!」
「この鏡を使うためです」
ひよりは小脇にかかえた風呂敷をちょっと見せた。すると石蕗が、微かに尾を振って、
「そりゃあ……しかし、なぜひよりがそれを持てる?」
「え、その声は、石蕗さんですか? うわあ、たてがみかっこいいですね」
「こんな状態でものんき者なのは君の美徳だな。うん、ありがとう。君も調子が戻ったようで何より」
そう言った瞬間、ひよりの持った風呂敷がぶるぶるっと震えた。まるで暴れ猫を抱えているかのようだ。
ひよりはひきつった笑みを浮かべる。
「まだ、本調子ではないんですが……」
その様子を訝しげに見ているのは、剥離糾だ。
あの間の抜けた小娘が、青磁の新しい主であることは知っている。
だが手にしているものは何だ? あれはあまりにも、あの小娘に似つかわしくない。
よく分からないものは早めに処分しよう。
剥離糾はそう判断し、次の照準をひよりに向けた。
「……ッ」
ぞわり、と背中の産毛が総毛立つ。青磁は剥離糾の方を見る。
また水銀の槍を放とうとしている。目標はひよりだ。だって一番とろいから、狙いやすい。
「ひより……ッ!」
青磁のはさみは間に合わない。誰もが最悪の事態を想像する。あの水銀の槍が、ひよりの柔らかな肉を貫く様を。その光景を。
剥離糾は槍を放つ。その穂先は過たずひよりの心臓を狙う。
恐怖にすくむ体を、金色の声が静かに貫く。
――恨むな。吼えるな。他者に牙を剥くな。それは獣の領分なれば。
――ただ、在れ。
鏡をしっかりと抱える。心を軽く保つ。
何も考えずに、ただ空気を切り裂く、槍の形をした悪意を視界に捉える。
きぃいんという甲高い音が響く。
ひよりが構えた鏡の表面が、水銀の攻撃をどろりと飲み込み、そうして――。
跳ね返した。
ひよりの鏡から水銀の槍が放たれる。それは呆気に取られていた剥離糾の、すぐ側を掠めて飛んで行った。
呆然とするのは青磁だ。掠れた声で、
「い……今のは」
「うわあ、成功して良かったですね」
「成功して良かった!? じゃあ、お前、失敗する可能性もあったってことですか!?」
青磁が血相を変えて尋ねると、ひよりは気まずそうにこくんと頷く。
「馬鹿かお前は! いや馬鹿だ、間抜けだ、ほんもののアホだ、どうして自分の命を危険にさらす!」
「青磁さんを守るためです」
青磁の顔に怒りが走る。
その陶器のような頬を赤く染め、青磁はぎゅうっとはさみを握り締めた。
「愚かな。式神を守るために命を懸ける主はいない!」
「ここにいます。それに、七生さんもです」
言い切ったひよりは、そのまま青磁に背中を向ける。
「本調子じゃないんです。邪魔しないで下さい、青磁さん」
「なっ」
「次来るぞ、ひより!」
石蕗の言葉通り、剥離糾がまた姿を変える。
ひよりは鏡を構え、目を伏せ、ぶつぶつと何か呟きだした。
「……とじて……こを……つば……」
青磁は耳をそばだてる。五百旗頭の元で、ひよりの陰陽師としての才能が開花したという可能性もなくはない。まあそれは石蕗が女嫌いになるくらいありえないことだが。
「カツはきつね色になったら一度油から上げて、しばらくしたらもう一度高温で揚げる。卵は緩めにといて、しょうゆは少し多めに入れる」
「……は?」
「白身部分がぷるぷるするように、火はあまり入れずにさっと仕上げる。三つ葉はちょっと火が通ってた方が好きだから、最初の方から入れてくったりさせる」
ひよりが呟いているのは、かつ丼の作り方だった。
呆気にとられすぎた青磁は、ひよりがまたしても剥離糾の攻撃を跳ね返したことに気づかずにいた。
「……お前、それ、なんですか」
「かつ丼の作り方です」
「いや聞いていれば分かります。なぜ、この場で、かつ丼の作り方をぶつぶつ呟いているのですか?」
「未熟だからに決まってるでしょう! 食べ物のことを考えてる間だけが無心になれるんです。“鏡の巫女”に一番近くなれるの。そうじゃないと、この鏡を持つこともできない……!」
そう言ったひよりの顔が歪む。鏡を掴んでいる彼女の手が、じゅうと焦げたような音を立てている。
「こ、こうなっちゃうんです! この鏡、霧生さんの力を帯びて、神鏡になってるみたいで……! ぼーっとしてる時の私じゃないと、持っていられないの」
「そんな無茶を」
「無茶じゃない。私は、青磁さんと、皆を守ります。絶対に。そのためにここに来たんだから」
ひよりは青磁をきろりと睨みつける。痛みに脂汗をかきながら、それでもそこに立っている、青磁の主。
この世でただ一人、神鏡を持つことのできる陰陽師。
「剥離糾のエネルギーはほとんど無尽蔵だって聞きました。だったらいちいち相手をするんじゃなくて、相手の攻撃をいなして、跳ね返した方がいい。そうでしょ?」
「理にかなってる。青磁、君はひよりの援護をしろ。その鏡も百発百中というわけではなさそうだしな」
「はいっ!」
ひよりはまた集中し始めた。青磁はしばらくその小さな背中を見つめていたが、ややあってその後ろに立つ。
「私が舌を得たら、一番初めに何を作ってくれますか? その作り方を唱えていなさい」
「……青磁さん」
「私の口から伝えられず、申し訳ありませんでした。舌がなくて、味わうことができないのだと、最初に言えばよかったのですが」
「ううん。私も、泣いちゃってごめんなさい。青磁さんの願いを叶えるお手伝いするって言ったの、嘘じゃないんですよ」
「分かっています。……で? お前は私に何を作ってくれるのです?」
「絶対、おにぎりです! 最初は小さな塩むすびにします。三角でもいいけど、俵型でもいいかも」
剥離糾が不気味に蠕動する。青磁とひよりが近くにいる、今が一掃する好機だ。
鏡は確かに厄介だが、人間が持てる程度の鏡など大したものではない。まさか神鏡ではないだろう。ならばこの無尽蔵な力で溶かし尽くしてしまえばいい。
主従もろとも、水銀に溺れる。なかなか麗しい光景だ。
「一つか二つは塩むすびを食べてもらって、次はどうしようかなあ。おかかとか、美味しいかもしれないです。付け合わせは、きゅうりの糠漬けとお吸い物かな」
「お吸い物……なら、お麩というのを入れて下さい。食べてみたいです」
「ありゃ、通ですね」
「七生が、あれだけは何回食べてもよく分からん、と言っていたので」
「じゃあお麩で。三つ葉もちょこっと入れましょう。きっと美味しいです」
剥離糾は、ひよりと青磁めがけて、水銀の塊を放つ。大木ほどの太さもあるその攻撃を、ひよりは静かな目で見ている。
怖くないと言えば嘘になる。人間の悪意を煮詰めたようなその術式が、この世に存在すること自体が既に恐ろしい。
でも。
――我らの役目は退魔にあらず。拒絶にあらず。
――良きも悪しきもみな全て同一に化す、円環の鈴なりこそが我らが宿業。
鏡が水銀を受け止めた。ひよりは不思議と鏡を持っている気がしなかった。持っているというよりは、自分の意志とは別のところで、鏡がひよりの思うままに動いてくれている――そんな気がした。
ひよりの頭には、一つの光景が浮かんでいる。
舌を取り戻した青磁が、七生に見守られて塩むすびを頬張っているところだ。
米の香りと、塩の刺激に驚きながらも、幸せそうに笑っている姿だ。
ありえない話だからこそ、どうしても夢見てしまう光景。ひよりはそれを優しく受け止め、胸にしまった。
青磁は信じられない光景を見ている。
今まで何にもできないような顔をして、何にもできずにいたひよりが、あれほどの攻撃を受け止めている。鏡はびくともせず、ひよりの意のままに動いている。
あれはもはや神鏡の域にまで達している。青磁が知る限りでも、神鏡を操ってのけた陰陽師は、歴代に一人しかいない。
安倍晴明の弟子だったという、名もなき陰陽師。恐らくは女の。
――鏡の巫女。
御伽噺ほどに現実味の無かった存在だった。
それが今、目の前の自分の主なのだと気づくのに少し時間が必要だった。
「跳ね返したぞ!」
石蕗が興奮混じりに叫ぶ。ひよりがつと顔を上げれば、そこには美しい軌跡を描きながら、剥離糾の核を貫く水銀が見えた。
まるでジャムを床に落とした時のような音がして、剥離糾が砕けた。
暗雲が急激に収束し、辺りに朝日の光が戻ってくる。水銀によって溶かされた建物や植物はそのままだが、土地神である石蕗であれば、癒すことができるだろう。
だから問題は――。
「あの化物はやっつけたよ! ……霧生? 霧生! 嫌だよ起きて、何か言って……!」
薫の悲痛な叫びに、その場の全員が我に返る。石蕗は人間の姿に戻り、青磁は自分のはさみをしまった。
ひよりは鏡をそっと縁側に置くと、短い呼吸をしている霧生の側に立った。たくさんあったはずのタオルは全て血まみれで、出血の酷いことが伺える。
「ど、どうにかできないんでしょうか。五百旗頭さんが何か薬を持っているとか?」
「生命力が抜けてしまってるんだ。人間で言うなら、輸血をしなけりゃいけない状態だが」
「私の! 私のを使って!」
詰め寄る薫に、石蕗が苦々しい表情を浮かべる。
「人間の生命力は、神にとっては雀の涙ほどしかない。君がどれだけ血や生命力を注いでも、彼の助けにはなるまい」
「そんな……! いやだ、霧生、いやだよ」
薫は泣きそうな顔で霧生の体を揺さぶる。紙のように白い顔をしている霧生は、唇を何度か動かすものの、もはや言葉を紡ぐことさえできなくなっている。
消滅がすぐそこまで迫っていた。
「霧生、置いてかないで、ねえ……! 前も私を置いていってしまったのに、どうしてまた置いていくの……!」
気丈な薫の頬を幾筋もの涙が伝い、霧生の手にほたほたと落ちた。
置いていかないで。
その言葉が青磁の頭の中で反響する。それは何度も、何度も叫んだ言葉だった。
どうして自分を置いていくのか。なぜ連れていってくれないのか。
また、一人にするのか。
「――」
青磁はしばらく自分の手のひらを見ていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「どきなさい、小娘」
「……最後くらい、一緒にいさせて」
「最後にする気なんですか? いいからどきなさい、今なら助けられる」
がばっと顔を上げた薫は、大きな目を驚きと期待に見開いている。
「ほんとう? ほんとうに助けられるの?」
「私は舌を得るために、たくさんの札を集めてきました。人間のお前たちに分かるように言うなら、ポイントをためてきたのです」
そう言って青磁は口を開け、半分ほど生えた舌を見せる。
「これ即ち生命力なり。――これを霧生に譲ります」
ひよりは一瞬目を見開いたが、何も言わなかった。
あれほど舌を作るまで、どれほど縁切りをしてきたのだろう。糸切りばさみと共に、どれだけの荒事を潜り抜けてきたのだろう。
七生の食べるものを味わいたい、その一心で集めてきた札を、霧生のために渡すという。
「……青磁さん。どれだけお礼を言ったらいいか、私分からない」
「別にお前のためにしてるわけじゃないんです。――これは、あの日置いていかれた私を救っているだけのことだ」
あの日救えなかったものを、今日救うのだ。
言うなり青磁は霧生の側に屈みこみ、唇に指を触れた。
そうして口の中から、真っ赤な光を取り出す。
暖かく、少し錆び付いた味のしそうな、その光。懐かしさを覚えるようなその赤を、霧生の体は猛然と呑み込んだ。まるで乳を求める赤ん坊のように。
「……」
霧生の目が薄っすらと開く。顔色も良くなってきた。
「……薫?」
「霧生!」
薫は霧生をきつく抱きしめて離さない。霧生もまた、腕の中に転がり込んできた奇跡を、しっかりと捕まえている。
青磁は何も言わず、東の空を見つめている。
いつの間にか、空はすっかり澄み渡っていた。
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