第17話 鏡曰く
「剥離糾……」
「ああ。俺の調べでは、あれは確かに土御門の術式だ」
五百旗頭は頭から雫を垂らしながら、青磁の淹れた茶を飲んでいる。獣らしく身震いして水を飛ばす老爺に、部屋の隅で寝転がっていた石蕗が、抗議の呻き声を上げた。
既に空は白み始めている。明け方特有の、胸が切なくなるような紫と橙のグラデーションが、空の低いところを覆っていた。
――その一時間ほど前、ずぶ濡れになって野見山家に現れた五百旗頭は、とんでもない話を手土産に持って来ていた。
「三時間ほど、東京近辺にいる俺の眷属の話を聞いて回っていた。百とかいう猫又の言う通り、黒くて淀んだ野犬のような何かがあちこちにいるらしい。今は気力を集め、呪いを練り上げている段階だが……。そいつがどんどんこちらに近づいてきている。加速していやがる」
「近づいてる? 玉木薫の家に、でしょうか」
「いや、この家にだ」
「……七生は土御門家と仲が良くなかった、とは聞いていましたが、呪いをぶつけられるほどのことはしていません」
「単純に虫の居所が悪かったんだろうよ。玉木薫にかこつけて、目障りな雀をぶちのめそうってんだろう」
「そうは問屋が卸さないわよっ!」
横の客間からパジャマ姿で現れたのは、薫だ。
その後ろでは眠たげに目を瞬かせている霧生もいる。
「狐のおじいさん! 私は玉木薫と申します!」
お、おう」
「元はと言えば私に売られた喧嘩です。私が買い叩いて、ぶっ潰して、二度と同じことを考えないようにしてやります! なのでおじいさんも、協力お願い致します!」
「ばっ……。こ、小娘、お前は誰に口をきいていると思っているんですか!」
青磁が慌てて薫をいさめるが、五百旗頭はまるで気にした様子がない。むしろ、くつくつと面白そうに笑っている。
「こりゃあいい。協力を依頼する相手が分かってるじゃないか」
「おじいさん、めちゃくちゃ強そうですから!」
「水神の花嫁にそう言われて、悪い気はしないね。しかしここは俺の出る幕じゃあない。老いぼれとは言え、かつては名を馳せた妖狐が相手に出たとあっちゃ、土御門をもっと刺激しかねないからな」
しょぼんと肩を落とす薫。だが、と五百旗頭は不敵に笑う。
「秘密兵器はちゃんと残してある。――切り札は最後まで取っておくのが、大人のたしなみってもんだろう?」
「切り札でもなんでも良いけど、爺さん」
いつの間にか起き上がっていた石蕗が、鼻の上に皺を寄せて窓の外を睨みつけている。
霧生も素早く立ち上がり、薫を守るようにして立った。
「呪いはもうすぐそこまで来ているようだ」
暗雲がすぐ見える場所で立ち込めている。やけに低いその黒雲は、真っ白な布に落とした染みのように、明け方の空にじわじわと広がりつつあった。
*
「ひええ……なんかここ、ミイラとかある……」
よちよちと弦狼堂の道を歩くひよりは、足元の物にいちいち驚いてはつまずき、悲鳴を上げては転びかけていた。道はなかなか一本道にはならないが、寧を連れてここへ飛び込んできたときのような、手の付けられない迷路にはなっていなかった。
ひよりはあるものを探していた。
薫を狙う式神を退治したときに使った、あの鏡だ。使った後は弦狼堂に返却したので、ここにあるはずなのだが。
鏡を使って何ができるかは分からない。けれど今のひよりが持てる唯一の武器といったらそれくらいのもので、だから何がなんでも探し出すしかないのだ。
「鏡やーい……」
しかし、どこにあるかが分からない。五百旗頭が戻ってくるのを待って聞けばよかったと思いかけたが、そんな弱気を払拭するように首を振る。
これはただの直感だが――自分で探さなければいけない気がした。
それに恐らく、今ひよりは試されている。
根拠はない。けれど何となくそう感じていた。
「ちょっとは巫女っぽくなってきたかも? なーんて」
笑いながら前へ前へと進む。少し開けた場所に出たので、深呼吸をして小休止する。
「……んん?」
彼女の視界の端に、きらりと光るものがある。鏡か、と思いかけてその棚に近づいてみるが、それはどうやら刃物のようだった。持ち手に鈴がついている。
「これ、青磁さんの持ってる糸切りばさみに似てるなあ」
「そりゃあそうだ。アタシはその片割れだからね」
「う……っわ」
糸切りばさみが喋った。
ひよりが思わずそう呟くと、はさみはふふんと笑った。
「付喪神ってやつさァ。ま、年月さえ経ちゃあ、鍬でも鋤でもいっぱしの付喪神になるだろうけど。んで? あんたなんでこんなとこにいんのサ」
「鏡を! 探してまして!」
「鏡ィ? あー……なーる。あんた、近いもんね」
「い、今でも、近いですか」
「近い近い。顔もさ、満月みたいにまァるいし」
「顔だけですか!」
丸顔、結構気にしてるのに。そう言うとはさみはけたけた笑った。
「いいねいいねェ。からかいがいのある子は好きだよ。でもさ、あんた鏡んとこ行ってどうすんのさ? あいつすっげェいけ好かないやつだぜ」
「いけ好かない?」
「元々高くおとまりになられてる方だったけどサ、最近水神の気を受けたのなんだのって、天狗になってんだよねェ。あんた、あいつのいい玩具になっちまうよ」
「そ、その鏡に会いたいんです!」
「そうお? んじゃ案内しちゃる。こう見えてアタシもさ、元・縁結びの糸切りばさみだかんね! ここで会ったのも何かの縁、だろ!」
願ってもない申し出に、ひよりは喜んでそのはさみを手のひらに載せ、彼女の指示通りに歩き始めた。
この糸切りばさみの話によると、昔野見山家の陰陽師が、妻の針仕事のために作った糸切りばさみは二丁あったのだという。だが一丁は誰かに譲られ、一丁だけが――青磁の中にいるはさみだけが、野見山家に残った。
「どうして二丁も作ったんでしょう?」
「奥さんがさ、粗忽モンだったんだよ。すーぐ物なくしちまうの。だから念のために二丁打ったんだってよ」
「ちょっと他人事じゃないかも……。うち、爪切り五個くらいありますもん……」
「無駄遣い!」
「うーっ……言い訳のしようもありません……」
「ま、そういうわけでさ、二丁打ったんだけど、うっかりどっちにも権能が宿っちまって。あっちは縁切り、アタシは縁結び」
「え、じゃああなたの方が良くないですか」
いやぁ、縁結びっつっても、所詮は付喪の権能さ。大したことはできねえの、そんなちっぽけな能力を後生大事に持ってたってしょうがねェからさ、アタシは自分の権能をあっちに譲ったんだ。そんで、色々人手を渡り歩いて、今ここにいるってェわけ」
「なるほど……。だから青磁さんは縁切り屋ができるんですね」
小関姉妹の式神の縁を切った後に、また繋いでいたことを思い出す。あれはこのはさみの権能によるものだったのだろう。
「あ、でも、どうしてはさみさんは青磁さんのことを知ってるんでしょう?」
「そりゃ、あっちとアタシは繋がってるからねェ。あっちが雀の精霊を取り込んで、青磁って式神になって。そいであいつらは、ある願いを叶えるために縁切りをしてるんだ」
「あ……舌を得る、ってやつですね」
「知ってんのか。んじゃ話は早ェや。縁切りと縁結びの権能を持つアタシの片割れは、青磁の願いを叶える代わりに、縁切りをすることで人々を幸せにせよ、と命じた」
「ポイントですね!」
「そうそう。アタシらは札って呼んでたけどさ、その札が溜まれば、青磁の願いは叶えられ、片割れははさみであることを辞められる」
「辞められる……? 青磁さんの糸切りばさみは、もうはさみとして生きるのが嫌ってことなんですか?」
「うんにゃ、はさみよりも上の……刀剣になりてェのさ、あいつは」
「刀、かっこいいですもんね」
「アッハ! まあね。でもさ、刀は人を斬るもんだ。一応、まがりなりにも平和ってことになってるこのご時世で、刀なんて必要かね?」
「うーん……。必要ないかもしれないですけど、でも、かっこいいものになってみたいって気持ちは分かります。今の自分じゃない自分になりたいっていうの、私も思いますもん」
「そうかね。まあ、そうか」
はさみでも、徳を積めば刀になれる。青磁のはさみはそれを信じているらしい。
「そういうもんですか」
「さあ、どうだかね。アタシはどうせなるんなら包丁になりたいね! 糸だけじゃなくて、色んなものが切れていいだろ?」
「あー、いいですねえ。ごぼうのささがきとか」
「し、渋いとこくるねェ……」
「あれ、よく研がれた包丁じゃないと、うまくできなくないですか? ささがきにしたごぼうはー、かりっと揚げてシンプルにチップスにしてもいいし、辛めのきんぴらごぼうにしてもいいですよね!」
「いいねェ。アタシの持ち主でさ、きんぴらは甘いか辛いかで喧嘩してる夫婦がいたよ」
「加減は人それぞれですからねえ……。お砂糖ひとさじ入れただけでも気づく人、いますもんね。包丁だったら、あとは、かぼちゃとか切ってみたいですね!」
「ありゃあ結構大物じゃあないかい?」
「でも、切れたときの喜びはおっきいですよ。あのオレンジ色の断面、ぼろっとこぼれる種とみっちり重たい実の感触……! かぼちゃって普通に煮るだけであんなに甘くなるの、ほんっと不思議ですよね」
「すいかも切ってみたいね。じゃくっと、みずみずしくてさ」
「すいか! 分かりますとっても分かります、切った時に分かるジューシーさ! おっきいですけど、切る時ってそんなに力が要らないんですよね、中がしゃくしゃくしてるから。なんかそういうのも、あー夏だなぁーって」
「あ、鏡ここな」
「うわあ」
行き過ぎるところだった。
前に見た時より輝きを増しているその鏡は、覗き込むとひよりの顔を映し出した。
「探してた鏡、これです! ちょっとお借りしますね」
「ええ!? あ、あんた、でも、それ……」
ひよりは鏡をひょいっと小脇に抱える。前より少し重たい気もしたが、縁取りの装飾が何となく豪華になっているので、そのせいだろう。不思議な鏡もあったものだ。
「よおし、とりあえず部屋に戻って」
「あんた、それ持ってほんとに大丈夫なのかい?」
「え? なんかまずいですか?」
「いや……あんたが大丈夫なら、いいんだけどさ……」
はさみのこわごわした態度に首を傾げていたひよりだったが、何かの音を聞きつけたようにはっと顔を上げた。
「……鈴の音がする」
りん、と高らかなその音には聞き覚えがある。
青磁の縁切り鋏についている鈴だ。持ち主よりも饒舌にちりちりと鳴るそれが、せわしなく音を立てている。半鐘のように、危険を知らせるように、執拗に鳴り続けている。
手の中の鏡がぶるりと震える。
「――はい。行きましょう」
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