第15話 暗雲、近づく
ひよりははっと顔を上げる。
今のは白昼夢だろうか。七生と青磁の出会いを、天から眺めているようだった。
これが、野見山七生が自分に伝えたかったことなのだろうか。彼は何を思って、この光景を後世に託したのだろう。
「だ、大丈夫? おねえさ……主様?」
寧がおずおずと声をかけてくる。ひよりは文箱の蓋を握り締めたまま、呆然と頷いた。
「手紙――というよりは、七生の記憶だったようだな」
「は、はい……」
「手紙はあと一通残っているようだが」
五百旗頭の言葉通り、文箱の中には一通手紙が残っている。
だがそれを読む気にはなれなかった。ぐったりと背もたれに寄りかかると、洋間の端にあったドアが勢いよく開いた。
「ひより!」
額に汗を浮かべた青磁が、ひよりに駆け寄ってくる。
「この馬鹿主! どうして急に飛び出したりする! 今は玉木薫の件でお前も狙われるかも知れないんですよ、なのにこんな無鉄砲なことを……! 五百旗頭殿が保護して下さらなかったら、どうなっていたことか」
「……ごめんなさい」
ひよりは蚊の鳴くような声で謝る。それしかできない。何も考えられない。
肩で息をしている青磁に対し、五百旗頭がさらりと状況を教える。
「この小狐はひよりさんの式神になった。今は寧という名だ」
「なんですって? 弓削様が『用は済んだ』とお帰りになったから、弓削様と小狐の縁が切れたことは分かっていましたが、ひよりの式神に?」
「ひよりさんの式神だが、彼女が扱うわけではない。俺が預かって修行の面倒を見る」
「修行って……待ってください、ひよりは陰陽師についてまるで知らない。式神についての知識も持っていない」
「お前が教えなかったからな」
五百旗頭が意地悪く言うと、青磁は少しばつが悪そうな表情を浮かべた。
「……確かに、彼女に何の知識も与えなかったのは私の落ち度ですが。でも私は彼女に、陰陽師の醜い世界になど入って欲しくはなかっ――」
「それはいいんです。でも、青磁さん、一つだけ教えて下さい」
ひよりは唇を戦慄かせながら、今にも泣きだしそうになるのをこらえて、尋ねた。
「青磁さんは、味が分からないんですか」
「……ッ、どこで、それを」
「七生さんからの手紙で知りました。青磁さんと七生さんが出会う経緯を。ねえ、ほんとうなんですか、青磁さんは味が分からないの?」
唇を噛みしめた青磁は、それでも、主に誠実であろうとした。
「……はい。あなたがどこまで知ったか分かりませんが、私に舌はありません。ですから味も分からない」
「ど、どうしてそれを言ってくれなかったんですか? わた、私ったら、毎回青磁さんを食卓に座らせて、味の感想なんか聞いて……!」
ぽろりと涙がこぼれる。泣き癖がついてしまうと、どうにも涙が抑えきれない。
「ちが……! 泣きたいんじゃないんです、ちゃんと話したいの、だけど……! 私、青磁さんにひどいことを……!」
「ひより、違います、お前が悪いんじゃない」
「私、青磁さんに何度もしつこく紅茶の感想を聞きました……! 馬鹿だ、私、ほんとうの馬鹿です」
大粒の涙が、ひよりの丸い頬の上を滑り落ちてゆく。
「やっぱり私は、役立たずだ」
そう言ってひよりはぺたんと椅子に座り込んでしまう。
それから彼女は、青磁が何を言っても返事をしなかった。
顔を青くして何度も何度もひよりの顔を覗き込む青磁。その横で、同じくらいおろおろしながら、ひよりの手をさする寧。
五百旗頭は顎をこすりながらその様子を見ていたが、ややあって青磁の襟首を掴み上げ、出口の方まで引きずってゆく。
「お前、今日は帰れ」
「しかし!」
「ここは俺の権能が及ぶ領域だ。お前が危惧する玉木薫にまつわる敵も、ここまでは手出しできんだろう」
それは事実だ。むしろ青磁が側にいるよりも安全と言える。
「お嬢さんはまだ自分の能力を自覚したばかりだ。羽化したての蝶のようなもの。そういう時はただじっとしている方がいい」
「しかし……!」
「お前がいる方が、お嬢さんは辛いかもしれん」
その言葉に青磁はぎゅうと顔を歪めた。
泣きそうな顔で、ひよりの方をちらりと見る。
「……分かりました。今日は帰ります。ですが、ひより。どうか分かってほしい。私が縁切り屋を再開したことの意味を」
顔を伏せたひよりの目から、ほたほたと零れる涙が見える。
青磁は胸を締め上げられる思いがした。
主を泣かせているのは、自分だ。自分があの人のいい娘を泣かせている。
あの涙を止めるためならなんでもしたかった。けれど、今の青磁にできることはない。
優しい主は、青磁に酷いことを言った自分に失望して泣いている。ふがいない自分の弱さに、悔し泣きしているのだ。
それが分かるから、なおのこと辛い。
「……あなたがどこまで知ったのか、分かりませんが。私は、味わうための舌が欲しくて、縁切り屋をやっているのです」
ひよりがのろのろと顔を上げる。涙で濡れた顔と、少し腫れた目が痛ましかった。
「私は諦めていない。私は絶対に舌を手に入れます。ですから……そんなに、私を哀れまないで下さい」
そう言うと青磁は踵を返し、去って行った。
泣き疲れたひよりは、子どものようにしゃくりあげながら、その後ろ姿を見送った。
*
*
*
「え、でもそれは青磁さんが百パー悪いよね?」
すっぱりと切れ味鋭く言い放ったのは、もちろん、薫である。
「えー、さっさと言ってよそういう大事なことは! 知らなかったせいで酷いこと言っちゃったなあって、私でも恥ずかしく思っちゃうよ」
そう言って自分で淹れた煎茶をすする。少し乱暴な仕草でも、薫がすると様になっていた。
横にいた霧生は、薫の大胆な物言いをひやひやしながら見守っていた。
「一応今は、青磁の客人として野見山家に来ているわけなのだから、その、もう少し言葉を選んだ方が……」
「選んだって事実は変わらないでしょ。大事なこと隠されてたって知るのって、結構ショックだからね」
青磁は気まずそうに弁解する。
「別に、言うほどのことはないと思ったのです。私がやることは変わらないのだから」
「いやいや言ってもらわなきゃ分かんないって! ひよりちゃん、ああいう性格だし、言わなかった青磁さんより、気づけなかった自分のこと責めるタイプでしょ」
ぐさぐさと突き刺さる薫の言葉。青磁はぐう、と唸った。言い訳もできない。
そんな青磁の横に、からからと笑いながらどっしりとあぐらをかいたのは、石蕗だ。
「いいねいいね! お前がそうやり込められるのを見ているのは、すっごく楽しい」
「黙れ性悪」
「おっ、そんな口利いていいのかな? 玉木薫を守るのに、川の神のなれの果てと、縁切り屋の式神だけじゃあ、ちょっとばかし力不足だろ」
「我のみで問題ない」
むっとした顔で言う霧生の横腹に、薫が肘鉄を見舞った。細い肘が正確に内臓を狙い撃ちし、霧生の口からくぐもった音がこぼれる。
「刺し違えてでも私を守るとか思ってたら怒るよ?」
「ぐ……」
「せっかく会えたのに、また会えなくなるのは……嫌だよ。残された方の気持ちも考えて動いてよね!」
「ほんとうにそうです。残された側がどんなに辛いか」
青磁が神妙な顔で頷く。薫はちょっと驚いたように、
「意外な場所から同意が来たなあ。青磁さん、残された側なの?」
「私の前の主――七生は、私をこの家の井戸に閉じ込めて、一人だけ戦争に行って、一人で死んでいきました。まったく、自分勝手な主です!」
「それは……自分勝手すぎる! ありえない!」
「でしょう! 私を守るとか、何なんですかそのおためごかしは!」
「誰がいつ守ってくれって頼んだって話よね!」
「それです! 大体言葉が致命的に足りないんですよ七生って男は……!」
このままでは限りなく愚痴ってしまいそうだ。青磁はこほんと咳ばらいを一つし、
「……ですから霧生さん、決して一人で討ち死になどしないように」
「しないように」
青磁と薫の二人に睨まれ、大きな体を縮める霧生だった。
薫は居住まいを正すと、
「でも、青磁さんと石蕗さんには感謝してるんだ。私のせいでひよりちゃんまで巻き込んでしまったのに、こうして助けてくれるなんて」
「まあ、縁切り屋ってのは恨みも買う仕事ではあるからね。意外と青磁も荒事には慣れている。俺は言わずもがなだが」
「土地神さまなのに、荒事に慣れてるんですか?」
「土地神とはつまり、数多いた精霊同士の共食いの果てだからね」
そううそぶく石蕗の目が、赤くぎらりときらめいた。
「……おや、お客さんのようだ」
石蕗が視線を庭の方に向ける。
すとん、と軽やかに地面に降り立ったのは、栗色のふわふわした髪を持つ少女――百だった。
彼女は室内を一瞥するなり、猫又の姿に戻って毛を逆立てた。
「ぎゃっ! なんかいっぱいいる!」
「大丈夫です、お前を攻撃したりはしませんよ」
「ほんとかなあ……」
土地神さまがいるだけで、かなり緊張するのに、その横には水神と、人間のくせにやけに覇気のある女がいる。居心地が悪すぎる。
けれど百には、話さなければならないことがあった。意を決して、おずおずと居間に上がってくる。
と、薫がその体をぎゅむっと抱き寄せ、
「猫だー! しかもなんか、尻尾が二本ある! かわいい!」
「ぎゃーっ! はーなーせー! あたしを抱っこしていいのは、ばあちゃんといっくんだけなんだから!」
水揚げされたマグロのようにびちびちと身をよじり、どうにか薫の腕から逃れた百は、フーッと鳴いて威嚇する。
だがそれを毛ほども気にしていない薫は、
「いっくん……。あ、そっか、瀧宮くん家の猫又ちゃんだ」
「なに? あんた、いっくんのこと知ってるの?」
「うん。瀧宮くんに、ここの縁切り屋のことを教えてもらったんだ」
ふうんと言って百は、面白くなさそうに薫の姿をじろじろと見た。そうしてその後ろで様子を伺っている霧生と、石蕗の顔もじろりと見つめる。
「土地神さまに言わなきゃいけないことがあるの。最近妙なヤツが出歩いてるの、知ってる?」
「妙なヤツ?」
「くろーいの。黒くて煙みたいで、一瞬猫かな? って思うんだけど、犬にもタヌキにも見えるの。そいつがね、池袋の辺りをウロウロしてるんだって」
「池袋の話がここまで届くのですか? 猫又の情報網はすごいんですね」
「あ、ううん、違うの。そいつが一回練馬駅の近くまで来たことがあったの。それでね、あんまりにも暴れまわるもんだから、あたしに助けてくれってSOSが来たの」
猫又ともなれば、悪さをする精霊に対する力を持つようになる。普通の猫では太刀打ちできず、百のところまでお鉢が回ってきたのだろう。
「意外と猫又ってあちこちにいるのね。それでね、皆でシャーってやって、やっつけたんだけど、そいつがまた練馬駅の近くまで来てるの。今度は、こないだのより大きいやつ」
黒い小山のような犬なのだ、と百は言う。それが前回よりもひどく暴れまわり、しかも仲間を増やしていると訴えた。
「猫又だけじゃ太刀打ちできないの。だから一回、土地神さまにも見て欲しいの」
石蕗は黙って立ち上がると、百の額に手を触れた。百の二股に分かれた尾が、ひくん、ひくんと神経質に揺れる。
眉をひそめて百の額に触れていた石蕗は、似つかわしくないほど深刻な表情で、薫たちの方を見た。
「……これはちょっと厄介なことになっているな」
「どういうこと?」
「百たちが見たのは、陰陽師の術式だ。自動で動くようになっているから、ここから術者を探り当てることは難しいだろう。だが……物凄い敵意を感じる。ほんとうに一人の術者から生み出されたものなのか?」
いつも飄々とした様子の石蕗が、脂汗をかいている。そこまでの威力を持つ悪意が、青磁たちの近くまでやって来ている。
不安そうに石蕗を見上げる百の背中を撫で、彼は立ち上がった。
「少し守りを固める。――はぁ、それにしても、陰陽師のプライドとやらは厄介だな」
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