第13話 鏡の巫女
小狐と手を繋いだまま、坂道を真っすぐ上る。左手には静まり返った墓地があり、もうすぐそこには、花の咲く庭が見えている。
「……あれ? 朝顔、咲いてない」
ひよりは弦狼堂を目指して歩いていた。この名刺があれば辿り着けると思っていたが、目印になる輝く朝顔はどこにも見当たらなかった。
「やっぱり、何かの用事がないと開かないのかな……」
「お姉さん、名刺、光ってます」
「えっと、こっちの方に扉があったと思ったけど、ここからだと見えないし」
「お姉さんってば」
「えっ? あっ、ほ、ほんとだ」
手にした名刺が金色に光っている。その光は庭の横にある小道を指し示していた。
ひよりはその小道に足を踏み入れる。両脇を灰色の塀に囲まれ、野良猫くらいしか通れなさそうな狭い道だが、体を横向きにしてじりじりと進んだ。
「あ、扉です!」
小狐が叫ぶ。彼の指さす先には、重たげな鉄の扉があった。蔦の覆い被さったその鉄扉を、渾身の力で押し開ける。
鈍い音と共に扉が少しずつ開いてゆく。差し込む微かな光と、かび臭い匂い。こじ開けた隙間に体を滑り込ませて中に入った。
「……あれ」
見覚えのない店内に、ひよりは戸惑って何度も瞬きする。
初めて来た時、ここは一本道だった。左右にたくさんの棚がある、それだけだったのに。
目の前に広がる何本もの道を見て、ひよりはうろたえた。天井が低く、枝分かれした道は曲がりくねっていて、先の様子が分からない。
まるで迷路だ。
「い、五百旗頭さーん……」
呼ぶ声はいたずらにこだまするばかり。もちろん返答はない。
小狐は怯えたようにひよりの手を握り締め、体を近づけてくる。その小さな体温に背中を押され、ひよりはおずおずと一歩を踏み出す。
右の道を選んで進んだ。あちこちに明かりがあるおかげで、足元は楽だが、無秩序に落ちている骨とう品が厄介だった。
「うわっ、この壺、半分床に埋まってる」
「この宝飾品も、埃塗れですね……うう、掃除したい」
「小狐ちゃんは、綺麗好きなの?」
「はいっ! でも、掃除ばっかりするなって怒られちゃうんです。主様に……」
言いかけて、式神は少し寂しそうに笑う。
「もう、主様じゃないんだった。弓削様、ですね」
「……あのね、あの、勝手にここまで連れてきて、ごめんね」
「いいんです。僕の気持ちは、弓削様には関係のないことだから。使えない式神は解雇する、それって陰陽師にとっては普通のことですから」
「でも……! でも、悲しいよ。向いていないだけなのに、無能だと言われて、ここにいちゃいけないって言われるのは――辛いよ」
声が震える。小狐の心に必要以上に共鳴してしまっている。
「お姉さんは優しい人ですね。それで陰陽師をやるの、大変でしょう」
大人びたことを言う小狐に、鼻の奥がつんとなる。こんなことを言わせるために連れ出したかったわけじゃない。
「い、五百旗頭さんに会おう。そしたらきっと、何かアドバイスをくれるかも」
「その五百旗頭さんという方は、この建物のどこにいるんでしょう」
「分かんない……」
そう言っている間に、また道が枝分かれする。
心なしか天井がまた低くなって、床に落ちているものも、割れた皿だったり使えないカンテラだったり、すさんだものが多くなってきたような気がする。
目の奥が熱くなって、あ、もうだめだ、とひよりが思った瞬間だった。
「言わんこっちゃない。お嬢さん、こっちは行き止まりだよ」
蝋燭を掲げて立っている五百旗頭が、そこにいた。
それと同時にひよりの涙腺がぶわりと決壊する。
「う……うわぁぁぁあん」
子どものように泣き出したひよりに、小狐もつられて顔を歪めた。一回しゃくりあげたのを皮切りに、ぼろぼろと大粒の涙を零す。
泣きじゃくる二人を前に、五百旗頭は小さくため息をついた。
*
五百旗頭が居間代わりに使っている洋間で、ふかふかのクッションにうずもれているひよりと小狐。調度品らしいものはあまりないが、象眼細工の施された木のテーブルだけは、よく手入れされて使い込まれているようだった。
五百旗頭は茶の代わりに、薄いカルピスを出してやった。
カルピスを飲んだひよりが、またぽろぽろと涙を零す。
「し、しんだおばあちゃんがつくったのと、おんなじかるぴすのあじですぅ……」
「やれやれ。もう箸が転がっても泣きそうだな」
五百旗頭は、ひよりが落ち着くまで辛抱強く待った。そして尋ねる。
「その式神はどうしたんだ、お嬢さん」
「私が、連れてきちゃったんです……」
縁切りするところを見ていられなくて、連れてきてしまったのだと説明すると、五百旗頭は少し驚いたような顔をした。
「私、青磁さんの顔にも泥を塗って……。連れ出したところで、私に何かできることもないのに、小狐ちゃんを連れて飛び出しちゃったんです」
「それはなぜだ? お嬢さんは元々、そんな発作的なことをする娘ではないだろう」
「……」
落ち着いた問いかけ。ひよりはぐすんと一つ鼻をすすり、答えた。
「小狐ちゃんに、すごく共感しちゃって」
「共感。……ああ、なるほど」
五百旗頭は得心した様子で頷いた。
「それはそうだろう。お嬢さんの気質は、鏡であるからな」
「また、鏡、ですか……」
「また?」
「あ、いえ。そういう夢を見ただけなので、あの、気にしないで下さい」
「待て、夢だろう? ヒトの見る夢はただの夢ではない、事実に繋がる重大な手がかりでもある。聞かせてくれないか」
低い声で慰撫するように言われ、ひよりは心が落ち着いてゆくのを自覚した。今まで泣きじゃくっていたことが恥ずかしくなるくらいだ。
ひよりは、師匠と呼んだ人と、鏡が現れた夢を話した。
話し終えた頃には、すっかり涙も止まっていた。
すると五百旗頭は目を細め、
「……なるほど。お嬢さんは鏡の巫女なわけだな」
「あ、あの、その呼び方は恥ずかしいのですが……。そんな大したアレでもないですし」
「しかし今こうして、小狐の気持ちに共鳴して泣きじゃくっている。もう十八にもなるのになぁ?」
からかうように言われ、顔がかっと赤くなる。
と、下から小狐が抗議するように、小さな濡れた鼻先を突き出した。
「ひよりさんは、僕をかばって下さったんです! いじめないで!」
「あっはは、すまないな。何しろ希代の『まっすぐ歩き』が鏡の巫女だったんだ、はしゃぎたくもなる」
「あ、その『まっすぐ歩き』って、前も仰っていましたよね? どういう意味なんでしょう。それに鏡の巫女というのも、教えて下さい!」
既にひどい泣き顔を見せた後なので、今さら恥ずかしがることもない。
堂々と頼めば、五百旗頭も悪戯っぽく笑って宜った。
「ではまず鏡の巫女の説明から参ろうか。それは陰陽師の中でも突出した、共感能力を持つ者の名だ」
「共感能力」
「心に余裕と隙間のある者。相手の感情をそのまま増幅させて返す者。そうして、全てを丸く包み込む者。……言われたことはないかな? 自分と話しているようだとか、こんなに丁寧に話が出来たのは初めてだ、とか」
「あ……あの、大学でできた友達に言われたことがあります」
「その子はきっと真剣にあなたに話したんだろう。だからあなたも同じような真剣さでもって返し、彼女に報いた。それが鏡の巫女の気質だ。まあ平たく言えば、穏やかで生真面目な性格ということだな」
「……それって、ただ真面目な人ってだけじゃないですか?」
そう言えば、五百旗頭は苦笑いを浮かべた。くしゃりと皺が寄る。
「陰陽師に生真面目な人間はおらん。どうやって相手を出し抜くか、そんなことばかり考えている連中だからな。七生もまあ、誠実な性格をしていたが、あれは式神を操る能力の方が秀でていたからなあ」
ふむ、とひよりは考える。自分が鏡の巫女とかいう名で呼ばれるのは、陰陽師の素質を持つ、生真面目な性格の人間だから。
そう考えてみれば、鏡の巫女というのも、大した肩書ではなさそうだ。自分と同じくらい真面目な人はたくさんいるだろうし、陰陽師の素質を持つ人も、そこそこいるだろう。
「読書感想文コンクールの参加賞、みたいな感じですかね?」
「失礼、何の話かね?」
「あの、鏡の巫女がどのくらいいるか、ってことです。私でもなれるんですから、結構な人がその資格を持ってるのかな、って。た、例えが分かりづらくてすみません……」
ひよりのもたついた言葉は、五百旗頭の次の一言で一刀に伏された。
「ああ、あなたの前の鏡の巫女は確か、平安時代まで遡らないといないぞ」
「うそですよね!」
「ほんとうだ。というのも、鏡の巫女はそういった性質を持ち合わせると同時に、神鏡を扱える人物でないといけない。普通の人間は神鏡を手に取ることさえ難しいからな」
「でも私、神鏡なんて持ったこともないですけど」
「ほう? ではここから借りて行った鏡を返しに来たのは、あなたではない別人だったということになるな」
何のことか一瞬分からなかった。
借りた鏡。プールで水の神に力を与えた結果、借りた時から少し変化してしまった、あの鏡。
「……あ、あの、プールで霧生さんに月の光を浴びせた時の鏡、ですか!? あれ、神鏡なんです!?」
「そうだ」
「そういえば青磁さんも、そんなようなことを言ってたような……」
その言葉に小狐がこんと小さく鳴いた。
「神鏡が、この時代にあるというのですか!」
「おうとも。まあ舞台装置は整っていたからな。元々神鏡に近いものとして扱われていた鏡、月の光、かつての水神。そうして鏡の巫女の性質を持った少女。よほど腑抜けた鏡でなければ、神鏡にも変化しようというものだ」
「そ、そんな気軽に神鏡なんて、すごいものに、なっていいんですかね……」
「鏡も根性出したんだろう。なんかいけそう、と」
「なんかいけそう……」
そんなカジュアルな。
頭を抱えかけたひよりだったが、すぐに気づいて顔を上げた。
「じゃ、じゃあまっすぐ歩き。前も仰ってましたけど、それってどういうことなんでしょう?」
五百旗頭は部屋の壁をこつこつと叩いた。
「この弦狼堂はな、入る者の性質によってその姿を変える建物なんだ」
「入る者の性質……ですか」
「おう。元々は盗人対策の防御機構だったんだが、どうもそのせいで『入る者を選ぶ弦狼堂』などと言われてしまってな。妙な客が寄り付かないのは結構だが」
「それで、私はまっすぐに歩いた、ってことですか」
「この間鏡を受け取りに来た時、あなたは迷わず俺の所へ来ただろう。一本道だったとも言っていたな。それはつまり、心に曇りがないことの証左なんだ」
「それは、私が皆にのんき者と言われるからでしょうか」
「それもあるだろうが、無心なんだろう。今回は、その小狐の感情と共鳴してしまって、混乱してしまったから、真っすぐ歩けなかったんだろうな」
小気味よい笑い声をあげ、五百旗頭は続ける。
「しかしまあ、子どもだってあそこまで真っすぐは歩いて来ないぞ。一本道と言ってのけた人間は久しくいない。長生きはするものだ」
「あ、あの、それって、そんなに面白いことなんでしょうか」
「面白い!」
言い切られてしまった。そう来られると、ひよりもうまい反論を思いつかなくて、もごもごと口ごもるばっかりだ。
「お嬢さん、陰陽師としての訓練は積んでいないのだろう」
「だって、陰陽師ではないですし」
「えっ」
驚いた声を上げたのは、小狐だ。
「青磁さんって言う式神がいるんですよね? 式神がいる人は皆陰陽師だと思っていましたが」
「そ、そうなんですか? 名乗ってもいいんですか? 訓練しても、いいんですか!」
小狐は、ひよりを見ながら自分の首元をとんとんと叩いて見せた。
「そこに印があります。椿の花の。それは自分の式神と繋がっている証なんですよ。だからそれがある限り、お姉さんは陰陽師だと思います」
「そうなんだ……」
ひよりは考える。自分がもし、鏡の巫女で、陰陽師であるならば。
青磁や、薫を手伝って、悪いものを追い払う手伝いができるかもしれない。
何やらやる気を出して目を輝かせているひよりに、五百旗頭が気まずそうに声をかけた。
「あー、やる気になっているところ悪いが、お嬢さん」
「はいっ!」
「お嬢さんに陰陽師の才能はない。訓練したところで、一が二になる程度の成長しか見込めないだろう」
あまりにもあっさりと今後の展望を絶たれた。
ぐ、と反論しようとするが、できない。反論の材料がない。むしろ反論しようとしただけ頑張った方だと言えよう。
「てことは、私、ただとてものん気な、神鏡の持てる一般人じゃないですか……」
「その神鏡を持てる、というのが物凄いことなんだがね」
塩の振られた野菜のようにぐったりとしてるひよりを見て、五百旗頭はくつくつと笑った。自分の価値をちっとも分かっていない少女を、興味深そうに観察している。
「泣いたカラスが一回奮起してもう泣いた。忙しい子だねあなたは」
「うう……すみません、ころころ変わって、落ち着きがなくて」
「謝ることないよ、お姉さん」
小狐がひよりの膝をぽんぽんと優しく叩く。
「気持ちをぱっと切り替えられるのは一つの才能だって、弓削様が仰ってたもの」
「小狐ちゃん……」
優しい子だ。相手の傷ついた気持ちに寄り添える、そんな式神をぽいっと捨てられる人間がいるなんて信じられない。
どうにかして、この優しい式神を救えないだろうか。
そう考えていたひよりの頭に、天啓のようなひらめきが舞い降りた。
「そうだ、五百旗頭さん! 私が陰陽師なら、小狐ちゃんを式神にすることはできますか」
「ええっ!? お姉さん、でも」
「分かってます、小狐ちゃんが弓削さんの式神でいたいことも、私に陰陽師の才能はないってことも。だけど式神って、主がいないと消えてしまうんでしょう?」
厳しい面持ちで頷く五百旗頭。自分の着物をぎゅっと握りしめる小狐。
「だから、私の式神として繋いでおいて、誰かに訓練をお願いしたいんです。そして弓削さんがうちの式神に出迎えたい! って思うくらいに成長したら、弓削さんの所に戻れるかもしれないでしょう」
「……ふむ。どうかな小狐」
「え、えっと」
いきなり話題の中心になってしまった小狐は、恐縮しきった様子で、もじもじと着物をいじくっている。だが、意を決したように顔を上げ、
「今の僕では弓削様のお役に立つことはできない。――だから、もし許されるのならば、ひよりさんの式神になって、弓削様のお家で働けるだけの力を身に着けたいです」
「お嬢さんの式神でありながら、お嬢さんには仕えず、ただ己のためにのみ力を磨く――。このことの意味は分かっていような?」
五百旗頭の鋭い言葉に、小狐は怯んだように尾を膨らます。
けれどそれも一瞬のこと、すぐに強い眼差しでひよりを見た。
「はい。それが式神としてのあるべき姿ではないことは分かっています。そもそも、ひよりさんの申し出を受けること自体が、弓削様の求める式神にはそぐわない行為かもしれない。そのことは理解しています」
ひよりは遅れて気づく。自分の元で、弓削家の式神としてふさわしい力を身に着ける――。それは自分に対する背信行為に当たってしまうのだということに。
ひよりはそんなこと全然構わない。けれど、そんな自分勝手な行為をした式神を、弓削家が迎えるかどうかは分からない。
だが小狐は強い眼差しで訴える。
「ですが、僕にはもうひよりさんが申し出て下さったこと以上の選択肢がないのです。例え弓削様に厭われようとも、たった一つの得難い機会を、無駄にしたくはない」
「小狐ちゃん……」
「無論、ひよりさんにもきちんとお仕えします。式神として、あなたの御身を守り、あなたの行く手を阻む者を退けましょう」
小さな男の子にしか見えないのに、その言葉は力強い。覚悟を決めた者の、不退転の意志がそこにはあった。
ならばひよりも、その意志に答えなければなるまい。
「……五百旗頭さん。小狐ちゃんを預かってくれそうな、力のあるひとを知っていますか。陰陽師でも、式神でも――石蕗さんのような神様でも、誰かいませんか」
「もし俺が、そんな奴は知らないと言ったらどうする?」
「石蕗さんに聞いてみます。それでだめなら、薫ちゃんの水の神様――霧生さんにも聞いてみます。それでもあてがなかったら、青磁さんのお客さんに当たります。だめでもともとですからね!」
「あなたのものではない式神のために、そこまですると言うのか」
「小狐ちゃんをあそこから勝手に連れ出したのは私です。……それに、小狐ちゃんを助けるのは、きっと私自身を助けることでもあるだろうから。だから私は別に優しいことをしているわけじゃない。どこまでも自分勝手に、小狐ちゃんをどうにかしたいんです」
五百旗頭がにやりと笑う。
「その偽善やよし。そういうことならば、この俺が適任だろうな」
「い、五百旗頭様が、この僕に訓練をつけて下さると!」
ぴゃっと尻尾を膨らまして驚く小狐。ひよりはその驚きの意味が分からず、
「五百旗頭さんはそんなに強いんですか?」
「つ、つ、強いに決まっておりましょう! このお方は関東平野いちの老妖狐、天翔ける火車さえもひとのみにしてしまわれる、歴戦のつわものです!」
「ありゃ」
ひよりは呆然と目の前の老爺を見上げる。皺に覆われた目が悪戯っぽく吊り上がり、その顔が一瞬細長い狐のそれに変わった。
目を瞬かせているうちに、その顔はいつもの皺に覆われた老人のものに戻る。
「昔の話だ。今は物をため込むだけが生きがいの、ただの老いぼれた妖狐さね」
「この弦狼堂は、五百旗頭様のお眼鏡にかなう呪具や宝飾品、書物しか置いていない、有名な店だと聞き及んでいます。僕のような下っ端式神では、お使いだって許されない場所だ」
「せ、青磁さんはそんな場所に私を送り込んだんですか!?」
「あれも人と生きて長いからなあ。人を見る目はあるのだろうよ。先ほども言ったろう、ここは悪意のない者にとってさして害はないのだ」
悪意のなさなら自信がある。とは言え、青磁も一言くらい言ってくれてもよさそうなものだが。
まあ「今から行く場所には関東平野いちの物凄い妖狐がいます」と言われたが最後、ひよりは緊張して動けなくなっていただろうが。
「ともあれ、同じ狐のよしみだ。小狐よ――いや、この名はよくないな。名でさえない」
「そうなんですか?」
「人間の子どもに、こども、という名をつけているようなものだ」
「それは名前じゃないですね」
「だろう? お嬢さん、改めて名をつけてやりなさい。それをもって式神の儀とすればいい」
ひよりは懸命に名を考える。この健気な式神に、無力な自分がしてやれることはほとんどないだろう。ならば、せめて名前だけでもいいものを贈りたい。
「……ではあなたの真摯な態度に敬意を表して。
「寧」
小狐の尻尾がぶんぶんと揺れた。目を輝かせた式神は、こくこくと頷いて
「よいです、それはとってもよい名です! 漢字で一文字というのが気が利いていますし、呼びかけやすい単語ですし! 何よりそれは、僕だけの
頬を上気させて喜ぶ寧は、ややあって目を伏せる。
「でもその前に、弓削様との契約関係を切らなければなりません」
「じゃあ、青磁さんを呼ばないと」
「その必要はありません。弓削様は既に契約関係を断ち切るという意志を持っています。僕が抗っていたから、縁切り屋に向かわざるを得なかっただけなんです。――僕が弓削様との縁を切るという意志を持てば。契約は断ち切られます」
五百旗頭が寧の額に手をかざす。ぼうっと光る額から、するりと零れる青い糸。
「これを断ち切ると――弓削家との縁を切るということで、よいのだな」
「……はい。お願いします」
寧はぎゅうっと目を瞑る。五百旗頭の骨ばった人の手が、尖った爪と獣の毛に覆われた、妖狐の手に変ずる。その指先に灯る青白い狐火が、寧の縁をじりじりと焼き切った。
ふつん、と途切れた寧の縁。
五百旗頭はその縁の先端を持つと、ひよりを呼んだ。
ひよりは寧の前に座ると、両手を上に向けて、寧の手と合わせる。小さな主なき狐は、緊張に掠れた声で唱えた。
「我が名は寧。妖狐の末席に名を連ね、これより卜占の技を学ぶ者なり――陰陽道は太山府君の名に基づきて、野見山ひよりを主とする」
ひよりの首筋がまた熱くなる。元々入っていた椿模様の横に、小さな蝶の印がぽつりと浮かび上がった。
「では寧をこちらで預かるということで――よろしいか」
「はい。……あの、五百旗頭さん。ありがとうございます。急に押しかけた上に、色々と頼んでしまって、すみません」
「構わない。悪く思うなら、またあのまっすぐ歩きを見せて欲しい。あれはいい。度し難く愚かな人間でも、あんな風に歩けるのだと――希望が持てる」
「ぜ、善処します……」
五百旗頭は恐縮している様子のひよりを見つめていたが、ややあって部屋の隅にあるライティングビューローの前に立った。デスクの中から小さな箱を取り出すと、それをひよりの前に差し出す。
漆塗りに螺鈿細工の施されたそれは、朱色の紐でしっかりと封じられていた。
「頃合いだろう。これをあなたに渡そうと思う」
「なんですか、これ」
「野見山七生から預かっている書簡だ。次の青磁の主が来た時に渡してほしいと、そう言われていた」
ひよりは五百旗頭の顔を見た。
皺に覆われた穏やかな目が、試すようにひよりを見つめている。
「野見山七生は相応の覚悟を持って陰陽師となり、陰陽師のまま散って行った。その男が書き残した手紙だ。生半な気持ちでは読めんぞ」
「はい……」
でもきっとここには、七生と青磁のことが書かれている。
あの主従がどのようにして始まり、どのようにして別れを迎えたのか。
もしかしたら、青磁がかたくなに教えてくれない、彼の願いのことも書かれているかもしれない。ひよりは祈るような気持ちで紐を解き、箱の蓋を開けた。蓋の螺鈿細工が、きらりと怪しい光を放つ。
――記憶が、奔流となって押し寄せる。七生の残した記憶が、鮮明な映像となってひよりの意識に割り込んでくる。
二人の出会いは、あの竹林だった。
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