第8話 弦狼堂にて
青磁はその身を大学生風のチノパンと白いシャツに包み、薫の告げたプールに向かった。見学者を装って中に入る。
女に変身することはできるが、そこまでして女子更衣室に入る必要はなかった。その入り口を一瞥しただけで、中に淀んでいるものの正体は分かったからだ。
今は薫がいないから、眠りについているそれは――。凝り固まった悪意と、劣情。幾重にも重なって、こびりついて、もはや恨み憎むことしかできない、機能と成り下がっている。
「陳腐な筋書きだ。嫉妬はいつの時代も鬼の温床になるのだな」
青磁はすんと鼻を鳴らし、そのままプールの方に向かう。塩素のにおいが立ち込めるなか、学生たちがおのおの練習をしていた。
その邪魔にならないよう、端の方にしゃがみこみ、じっとプールの水を見つめる。
揺らぐ水面。うねる水。
天井から差し込む日の光を受け、意思を持ってどろりとうごめく、何か。
言葉で物語ることはないそれは、けれど確実に、青磁に何かを伝えた。
「……やはり、そうでしたか」
得心がいったように頷く青磁は、すっくと立ち上がると、振り向きもせずにプールを後にする。
「私の見立て通り。ひよりにはおつかいをお願いすることになりそうです」
そう呟いて青磁は、ひらひらと指先を振る。すると二羽の雀が現れ、それぞれ別の方向に飛んで行った。
*
春のつめたさを孕んだ夕暮れの風が、ぴゅうとひよりに吹き付ける。パーカー一枚だと、少し寒く感じるくらいだ。
授業を終え、駅に向かって歩き出したひよりの前に、枯葉がぽとりと舞い落ちる。
「……ん?」
枯葉じゃない。それはどうやら、ふっくらと丸い雀のようだった。
雀は小首をかしげながら、臆することなくひよりに近づくと、その肩にぴょんと飛び乗った。
「わ、わあ」
『ひより、随分遅かったですね。待ちましたよ』
「その声は、青磁さんですか?」
『ええ。その雀は私の使いです』
雀はつぶらな瞳でひよりを見上げ、ちゅんと鳴いた。
「かわいい……! えー、青磁さんこんなにかわいい子がいるんなら教えて下さいよう! 丸くてふっかふかで……! 名前とかあるんですか?」
『ないです。それより人の話はちゃんと聞きなさい』
小首を傾げる雀。青磁のお小言のぶんを差し引いてもなお愛くるしい仕草に胸を射ぬかれていると、横のサラリーマンが異様なものを見る目でひよりを見てきた。
それもそのはずだ。今のひよりは、雀を肩に載せ、独り言を言っている怪しい女でしかない。
『今から言う場所に行って、おつかいをしてほしいのです。疲れているところ申し訳ないのですが、夜が一番適しているので』
そう言って青磁が告げたのは、池袋のとある住所だった。
*
鬼子母神と音大に近い場所。墓地を左手に細い道をとろとろと上がってゆく。
「ありゃ」
青磁に言われた住所は、その墓地のものだったらしい。地図アプリが案内を終了してしまう。
ひよりは肩に止まった雀に尋ねた。
「え、せ、青磁さ、おつかいってもしかして、墓地ですか!?」
『いいえ。そのまま真っ直ぐ。そのうち、庭のある家が見えてきます』
遠くからトランペットの練習音が微かに聞こえてくる。住宅街は真っ暗でひと気もなく、街灯はちかちかと不気味に明滅していた。
自分の靴音だけが響く小道で、ふと何かきらきら光るものに目が引き寄せられる。
青磁の言う通り、大きな庭のある家が右手の方にあり、その庭の真ん中で、青い朝顔が輝いていた。とろりとした水をたたえた紫色の花弁が美しい。
「朝顔? こんな季節に、こんな時間に?」
『その朝顔の裏に回って下さい』
「え、人のお庭なんですけど」
『いいから早く。閉じてしまいますよ』
ひよりは階段を上がり、その庭の中へと進む。民家は真っ暗だが、泥棒と見とがめられては反論ができない状態だ。
ひやひやしながら、輝く朝顔の裏手に回る。と、その輝きが急に消えた。
「消えちゃった……」
『そこから庭の奥へ進んで下さい』
灯りがないので足元がおぼつかない。ふかふかと土の柔らかな感触がする。
「お花、踏んじゃいそう」
一歩一歩確かめながら、なるべく花の咲いていなさそうなところを選んで進んだ。牛歩ののろさで庭の奥へとたどり着いたひよりの前に、固い扉が現れる。
妙なところにある扉だなと思いながら、その扉を押し開けると、柔らかな光がひよりを出迎えた。
「いらっしゃい」
聞こえたのは低くしわがれた男の声だ。年月に洗われ、縮緬のように風合いを帯びるようになった、ひとの声。
しかし姿は見当たらない。その空間は様々なものに満ち溢れていて、真ん中に伸びた細い道に覆いかぶさるように、高い棚が林立している。
一本道の先に人影が見える。ひよりはそちらに向かって歩き出した。
横を囲む棚には様々なものが詰め込まれている。
分厚い革張りの本で埋め尽くされた棚があったかと思えば、スノードームや木彫りの熊、オルゴールといった土産物類で溢れかえった棚もある。
かと思えば、高級そうな輝きを放つ宝石類が、無造作に投げ出された棚もあって、混沌を極めていた。様々なにおいが入り混じっていてよく分からないが、どこか遠くで香を焚いているらしく、キャラメルのような甘い匂いが微かに漂っている。
ただ、どれも新品ではなさそうだったので、ここは質屋か何かなのかもしれない、とひよりは思っていた。
そうしている間に人影との距離が縮まってゆく。
一本道の突き当り、銭湯の番台のようなところに腰かけていたのは、細面の老爺だった。シルバーグレイの豊かな髪、皺を帯びた鋭利な顔立ちは、街を歩けばきっと衆目を集めるだろうと思うほど整っているが、どこか食えない雰囲気がある。
笑顔の裏に別の顔を隠していそうな。相手を騙すことに長けていそうな。いずれにせよ一筋縄ではいかないように思える。
年齢は六十代くらいだろうか。若々しい雰囲気なのだが、皺と染みに覆われた額を見ていると、なんだか自分が小さな子どもになったような気がした。
「ここは
ひよりがこくんと頷くと、肩の雀がちゅんと鳴いた。
『お久しぶりです、
「久しいな、青磁よ。このお嬢さんは、お前の新しい主かね」
『ええ。お願いしたものを持ち帰るには適任かと思いまして』
青磁の声は丁寧で、目上の人間に接しているような恭しさがある。だからひよりも、両手を前に揃えて、失礼のないようにと背筋を伸ばした。
すると五百旗頭は、低い弦楽器のような声で、くつくつと笑った。
「ハッハ。お嬢さんが適任であることは、ここまでまっすぐ来られたことからも分かっている。そう身構える必要はない」
『おや、まっすぐ来ましたか』
「おうとも、わき目もふらずにな。見事なまっすぐ歩きだったよ」
「だって、おつかいですから。寄り道はだめでしょう?」
「まあ、そうなんだがな」
きょとんとしているひよりをよそに、五百旗頭は懐に手をやり、一羽の雀を取り出す。揃った一対の雀は、机の上でぴょこぴょこと楽しそうに跳ねた。
「青磁が俺にこの使いを寄越した。今からお嬢さんが来るから、依頼したものを渡してくれ――とな」
そう言って五百旗頭は机の下から、緋色の布に包まれた丸い物を取り出した。それを、ごとりと重たげな音を立てて机の上に置く。
「これは?」
「青磁が俺に依頼したもの。そうして、限られた人間にしか持つことができないもの。――鏡だ」
「鏡……」
ひよりは恐る恐る鏡に触れてみた。何も起こらない。だがひどく懐かしいような、手にしっくりと馴染むような、そんな印象を受ける。
「この鏡自体が悪さをするわけではない。ただこの鏡は、持つ人間の要素を際立たせてしまうのでな」
「要素を際立たせる?」
「美しい者はより美しく。速いものはより速く。そうして性格の曲がった者もまた、ねじくれて取り返しのつかない性根に成り下がってしまう。際立たせる資質は美点とは限らんのが扱い辛くてな、お蔵入りになっていたんだ」
なんとも厄介なものだとひよりは思う。と同時に、自分がこれを持てるのは、青磁の言うところの「希代ののんき者」だからなのだと腑に落ちた。
のんき者が今よりぼうっとしたところで、別に大した支障はない。
「これを家に持って帰ればいいんですね」
『ええ。念のためお伺いしますが、店主よ、この鏡の来歴は、前から変わってはいませんね?』
「無論。北の方にある山にあった、村長の家に伝わっていた鏡だ」
『ありがとうございます。その鏡で目的は達せられるでしょう』
ひよりは風呂敷に包まれた鏡を、大切に鞄の中にしまった。ずっしりと重たいが、耐えられないほどではない。
五百旗頭はその様子を面白そうに見ていたが、番台からすっと出てくると、ひよりの脇に立った。青磁よりも背が高く、骨ばったくるぶしが覗くほどの浴衣の丈が、何とも言えない色香を放っている。
「……なるほど。お嬢さん、今日はまっすぐここに進めたようだが、その均衡が少し歪みつつあるな」
「均衡?」
「心身のバランス、理性と感情のすみわけ。何か最近、環境の変化はあったかね」
「大学生になりました!」
「なるほど。十八歳と言えば最も不安定な時期だな。昔の女は子どもを産んだ年齢でもあったわけだし――誰でも通る道ではある、とはいえ」
そう独りごちて、五百旗頭は懐から一枚の紙切れを取り出す。
それは朝顔の花弁のような、薄い藍色をした名刺だった。
「弦狼堂」と素っ気なく書かれているのみで、連絡先や住所といった記載は見当たらない。それでもひよりはこの名刺が、ここへ訪れる為の鍵だと分かった。
さっきだって、光る朝顔を自力で見つけられたわけではない。青磁の案内や、雀がいたからだ。ここへ来るためには誰かの導きが必要なのだ。
「のんき者、というのは得難い資質なのだ。怒りにまみれず、嫉妬や恋情に狂わず、人の言説に惑わされず。流れる水の如く、己の内に何かを溜めない。常に周囲に開かれているとも言える。しかしだからこそ、他者の感情に惑わされ、たやすく失われてしまう資質でもあるわけだ」
どうやら褒めてくれているらしい。けれど褒められ慣れていないひよりは、気の利いたことも言えず、じっと五百旗頭のとび色の瞳を見つめ返すばかりだ。
「だから、お嬢さんが、自分で自分をのんき者だと思えなくなったなら。ここへ来なさい。俺に何かできれば助けてやれるし、そうじゃなくても、逃げ場があるというのはいいだろう?」
ニッ、と笑う五百旗頭。驚くほど綺麗な真珠色の歯が覗く。
つられてひよりもにこっと笑い、ありがとうございます、と言った。
『五百旗頭殿。あなたが一人の人間にそこまで肩入れするところを、初めて見たような気がします』
青磁の、少し驚いたような声が、雀の口から聞こえてくる。五百旗頭は、節くれ立った太い指で、雀の小さな頭を撫でた。
「なに。今時滅多に見ない”まっすぐ歩き”だったからな」
*
帰宅したひよりはまっすぐ青磁のところに向かい、鏡を渡した。
「おや、上着も脱がずにせっかちですね」
「だって、大事なものなんでしょう? 持ってるとひやひやしちゃって」
そう言いながらもいそいそと青磁の前に座る。
ほんとうなら、明日の語学の授業に向けて予習しなければならないのだが、それよりも鏡の方が気になった。
ひよりの好奇心たっぷりの視線に苦笑し、青磁は目の前で風呂敷包みを開いた。
「……わあ、古い」
鏡というよりは、土にまみれた金属片という印象を受けた。本来顔を映すべき鏡部分は曇っていて、とても鏡としては使えなさそうだ。
黒っぽい汚れは後ろの方にも浸食していて、恐らく何か模様が刻まれていたのだろうが、よく分からなくなっている。
「これで、薫さんの件は解決できるんでしょうか」
「必ず」
そう言い切った青磁の目には自信が溢れていて、ならば大丈夫だろうとひよりも胸を撫で下ろした。
「あ、そう言えば、まっすぐ歩きって何なんですか? 弦狼堂の五百旗頭さんが、私がまっすぐ来られたって仰ってましたけど。別に迷うところはなかったですよねえ」
「ああ、あれは……」
言いかけて青磁はひよりの方を見る。唇がきゅっと意地悪く吊り上った。
「五百旗頭殿は仰いませんでしたね。ならば私から言うのは野暮というもの」
「えーっ!? き、気になります。私が珍しく褒められたっぽいんですから、教えて下さいよ!」
「いや、種明かしは店の主人がするのが道理。ただの式神は黙っていましょう」
「青磁さん楽しんでるでしょ!」
「もちろん。主がじたばたしているのを見るのは楽しいものだ」
「人でなし!」
「ええ、式神ですから」
そううそぶく青磁の目が、油断ない猫のようにきらりと光った。
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