第7話 美女は水面で笑う

 

 友達が、できた。

 小夜子という名の、同学年の子だ。はきはきと話す文学少女で、ひよりがのろのろと話すことを、辛抱強く聞いてくれるだけの根性がある。


「ひよりんはさー、なんていうか、話しやすいんだよね」

「そう言ってくれると嬉しい」


 最初はおっかなびっくり入っていたカフェテリアにも慣れ、今では噛まずにホットティーを頼めるようになった。


「あたしが何か言うと、一生懸命考えて返してくれるでしょ。手抜きしないもんね」

「そうかなあ」

「そうだよ。好きなコンビニおにぎりの具なに? って聞いて、あんだけ長考したのはひよりんが初めてだもん」


 ぎりぎり褒められているようだ、と判断したひよりは、はにかむように笑う。


 「でもそれは、小夜子がいつも考えて喋ってるからだと思うな。私もつられてちゃんと考えなきゃって思うもん」

 「いやいや逆だって、ひよりんがちゃんと受け止めて考えてくれるから、あたしもちゃんと考えてるんだよ。ってこれなんか、お互いで褒め合ってるみたいで気持ち悪いね! やめやめ!」


 照れ臭そうに笑う小夜子に、ひよりは友達ができてよかったなあ、と思うのだった。 




 それでも、一限からみっちりと授業が詰まっている日は、少し疲れてしまう。

 今日はバゲットに生ハムと美味しいチーズを挟んだのにしよう、と思ったひよりは、駅前のちょっといいスーパーで、さんざん悩みながら少しお高い材料を買い込んだ。

 スーパーの棚を物色している間、どうにも何か違和感があった。まるで、誰かに見られているような。

 けれどひよりの違和感は概ね、ほぼ九割錯覚なので、気にせずに会計を済ませる。外に出たらちょうど乗るバスが出発しそうだったので、慌てて飛び乗った。ひよりのあとから、一人の女性も飛び乗って来て、離れた席に座った。


 バスを降りて、てぽてぽと自宅への道を歩いていると、「ねえ、そこの子」と声を掛けられた。

 振り返ったひよりは、間抜けに口をぽかんとして、わあ、と呟いた。


「美人さんだあ」


 ショートカットの髪がとてもよく似合う、小さくてこぢんまりとした顔。その中できらきら輝く大きな丸い目に、孔雀みたいな美しいまつ毛。

 唇はふっくらと魅惑的だが、決して下品な大きさではなく、ちょっと不機嫌そうに突き出されているのが、何とも言えず愛らしい。

 スタイルもまた図抜けていて、シンプルなパンツスーツがとてもかっこよく見えた。腰の高さがひよりとは比べ物にならないし、筋肉でしっかりと覆われた足は、草食動物の力強さを帯びている。


 そこまで観察して気づいた。この人は、バスでひよりのあとから駆け込んできた人だ。

 その人はにこりともせずに言った。


「確かに、私は一般的には美女と呼ばれてるけど、重要なのはそこじゃないわ」

「そこじゃないんですね!」

「ええ。あなたのお家で、あやかしの縁切りというものができるということの方が、私にとっては重要なの」

「縁切屋のこと、誰から聞いたんですか?」


 驚いてひよりが尋ねると、美女の口から意外な名前が飛び出した。


「前に塾で教えてた瀧宮くんって子。私が困ってたら、もしかしたらこの人たちが助けになってくれるかもって、教えてくれたのよ。駅であなたのこと探してたんだけど、ちょうどバスに飛び乗ったから、つい追っかけちゃった」


 思い出した。瀧宮家の末の孫だ。百のほんとうの姿が見えているようだった。

 彼の口コミなら、興味本位で顔を突っ込んでいるというわけでもないのだろう。ひよりは慎重に言葉を選ぶ。


「あやかしというか、式神ですけど。さらに言うなら、やっているのは私ではなく、私の式神です」


 美女はその言葉を検分するように目を細めた。


「そこに行くのに何か資格は必要?」

「な、ないですけど」

「なら私を連れて行ってくれないかしら? できれば今すぐに」


 その美貌に微かな焦りを浮かべて美女は言う。よほど切羽詰まっているのだろう。

 ひよりは少し迷ったが、ややあってこくんと頷いた。





「青磁さん、お客さんでーす……」


 玄関まで出迎えに来た青磁は、美女を見ても顔色一つ変えずに


「人間は私の客ではない」


 と言い放った。ひよりの方がうろたえる素っ気なさに、美女は少しも動じず答えた。


「話だけでも聞いて。お礼なら必ずしますから」

「話を聞いたところで私にできることはありません。人間の縁切りなら他を当たって下さい」

「でももう他に頼れるところがないの」

「今のあなたは、足を折ったのに皮膚科に来ているようなものです。皮膚科にやれることはごくわずかで、何の足しにもならない。お引き取り願えますか」

「もうここしかないんだってば!」


 玄関に、うわん、と声が反響する。

 拳を握りしめている美女は、青磁の目を見据えて言う。


「皆は全部私の気のせいだって言う。近所の神社にも、お祓いの人にも、霊能者とかいう訳の分かんない人にも、そう言われた。私がどれだけ大変で、どれだけ苦しんでいるか、誰にも分かんないのよ」


 絞り出すような声に、ひよりはぎゅっと胸を締め付けられるようだった。


「今私を苦しめているのは、理屈では説明できないもの、あやかしとか式神とか幽霊とか、そういうものに違いないのよ。それを退けることのできるプロの知恵が必要よ」

「あやかしと式神と幽霊をいっしょくたに語るとは、いい度胸ですね」


 青磁は顔色一つ変えずに言う。青磁のそれはいわゆる「脈無し」の証で、ひよりは慌てて食い下がった。


「あの、でも、困っているみたいですし。お話だけでも聞いてみて、それで他の……石蕗さんとかに助けを求められるかも知れませんし」


 ぎろり、と青磁に睨み付けられて、ひよりはすくみ上った。一応主のはずなのだが。

 しかしここで引いてはだめだ。

 誰も自分の苦しみが分からないと訴える人を、このままにはしておけないと、ひよりの本能が叫んでいる。

 意を決して青磁の目を見つめる。

 昼行灯だ、間抜けだと言われても、今回ばかりは引けない。


「こ、これでこの人に何かあったら、後悔しちゃうかもしれないでしょう。私、あの時ちゃんと話を聞いておけばって思うのは、いやです」

「……」

「そんな目で見たって、だめですからね。話だけでも聞いてみましょうよ」

「……」


 青磁はしばらく、ひよりが発言を撤回するのを待つように、彼女の顔を見ていたが――。

 ややあって小さなため息をつく。


「お前は存外頑固ものだ。いいでしょう、上がりなさい。小娘」

「やった!」


 美女は素早く靴を脱ぐと、きちんと揃えて家に上がった。ひよりと目が合うと、にかっと笑って見せる。


「ありがとね!」


 思わずきゅん、としてしまうような、純度百パーセントの笑顔。

 この人はたらしだ――。そう思いながらひよりもいそいそと靴を脱ぐのだった。



 美女は玉木薫と名乗った。名前にも隙のない美女ぶりが現れている。


「異変を感じているのは全部プールでなの。あ、言い忘れてたけど、私は港区にある大学の院生でね。付属大学の水泳部に入ってて、このまま順調に行けば都の強化選手に選ばれそうなの」

「わあ、凄い人なんですねえ」


 鍋に茶葉と牛乳を入れて煮詰めた、濃いめのミルクティを淹れて持ってゆくと、薫はにっこりと懐っこい笑みを浮かべて、それを受け取った。どうやらひよりのことは味方と見なすことにしたようだ。


「二百メートルメドレーに限っての話だし、まだ強化選手じゃないから、全然凄くはないんだけど、これから凄くなるからそのつもりで」

「なりそうです!」

「ありがと。で、これから凄くなる私のことを、妬む人間がいるようなの。まあ私は美人なので仕方がないんだけど、それにしたって限度ってものがあるわ」


 美人なので仕方がないんだけど、とさらりと言ってのける薫に、ひよりは心底たまげた。

 そんなことを言えるなんて、どれだけ心が強いんだろう。自分にここまで誇れるものはあるだろうかと考えてむなしくなった。食い意地だけは誰にも負けないと自負しているが、そんなものが秀でていたところで、なんの得にもならない。


 何にせよ、薫は凄い自信だ。

 事実なのがまた反論の余地をばっさり切り捨てていて、潔い。


 けれど、同じ程度の美貌を持つ青磁は、薫の自信をさらりと受け流している。


「その物言いでは妬みも嫉みも買うでしょう」

「覚悟の上よ。覚悟の上、だったんだけど……。正直ここまでとは思っていなかった」


 そう言って薫が語るのは、水の中の不気味な出来事だった。


 彼女が練習に打ち込んでいると、必ず水の中で誰かが触ってくると言うのだ。周りに人がいないのにも関わらず、足や腕を引っ張ったりされる感覚を覚えることもあるという。

 のみならず、不気味な声が聞こえてくるのだと薫は訴えた。


「でんでら、でんでらりとか、こんこら、こんこられって……何か歌うみたいにずうっと言い続けているの。水の中なのにはっきり聞こえてるのが気味悪くて。しかも私にしか聞こえていないみたいだし」

「……でんでら、ですか」

「ええ。でも変なのよね、そう歌った後に絶対、シャーって何かを研ぐみたいな音が聞こえるから」

「そうですか。あなたが水の中にいるときは、冷たいですか」


 そりゃあ水の中は寒いだろう、と思うひよりだが、薫の答えは違っていた。


「運動しているからそんなに冷たくないわ。むしろ温水だと暖かいくらい。でもその声が聞こえてる時は……ちょっとひんやりしてるかも」

「他には? 水の中だけですか?」

「あ、ううん、水の中はまだましな方なの。酷いのは更衣室とか」


 顔をしかめながら薫が語ることには、どうやら誰かに見られているような気がするのだそうだ。

 しかも見られているだけではなく、触ろうとしてくる素振りを見せるのだという。


「触られる寸前、皮膚がぴりってすること、ない? 肩のすぐ上に手をかざされると、なんかもぞもぞする嫌な感じがするみたいな」

「ああ、あるかもしれないです」

「ずっとそんな感じなのよ! でも振り返ったって誰もいないし、ハァハァ気味の悪い息遣いまで聞こえるし、気持ち悪いったら!」

「そんな中で着替えとかしたくないですね……」

「着替えはしてないの。小学生の時に、更衣室にカメラが仕掛けられていたことがあってね。それからは服の下に水着を着てプールまで来て、帰る時は水着の上に服を着て帰るようにしてるから」


 慣れた様子で薫は言うが、それはひどく不便だろうとひよりは思う。

 冬とか、冷えるだろうし。

 青磁はじっと薫の様子を伺っている。その瞳は黒曜石の鋭さを帯び、彼女の体の向こう側まで透かして見ようとしているかのようだ。


「更衣室の異常は、いつもプールに入る前のことですか?」


 青磁の問いに、薫ははっとしたような顔をする。


「そう言われれば、そうかも。帰りの更衣室では感じたことない」

「分かりました。認めましょう、これは私の分野です」


 あっさりと言い放った青磁に、薫が膝立ちになって詰め寄る。


「で、できるの!? 私のこの状況を、どうにかできるのね!」

「まだ確約はできませんが、私の見立てが正しければ、あなたの身の回りに起こった異変を解決できるでしょう。……その前に準備が必要ですが」


 それから青磁は、薫が練習に使っているというプールの場所を聞き出して、彼女を帰した。

 ひよりが尋ねると、すぐ隣の駅に住んでいるとのことだったので、バス停まで送ることにした。

 夜道を並んで歩いていると、薫がぺこんと頭を下げた。


「ありがとう、ひよりちゃんが助けてくれなかったら、あのすかした式神さんに門前払いされてたとこだったわ……!」

「す、すかした式神……じゃなくって、薫さん、大変ですね。そんな異変が起こってるんじゃ、水泳に集中できないですもんね」

「ほんとよ。むかつくんで、どんなことがあっても絶対練習休まないようにしてるの。誰か知らないけど、影でこそこそ人を攻撃するヤツの思惑通りになりたくないし」

「すごいなあ」


 ひよりはそこまで打ちこめるものがないまま、この年齢になってしまった。料理は好きだが、誰かから妨害されたら、その時点で辞めてしまうだろう。

 だから本当に薫のことを尊敬するつもりで、すごい、すごいと連呼するのだが、薫は静かに頭を振る。


「これしかできないから、私」

「そ、そんなにお綺麗なのに!?」

「それは関係ないでしょ。やりたくてたまらないこと、毎日ずっと考え続けてしまうことが、水泳なの。水泳をやるために私は生まれてきたんだ、って思うくらい」


 大きな瞳は黒々と濡れ、ひよりに切々と訴えてくる。

 薫を薫たらしめているもの。それは見目の麗しさではなく、彼女の内側からあふれ出る、すさまじい熱情なのだとひよりは悟った。

 その気持ちがなければ、薫の目はこうもきらきらと輝くまい。


「青磁さんに言っときますね。絶対薫さんの悩みを解決して、って」

「お願いね。謝礼の金額が分かったら教えて。ちゃんと払うわ」

「お金……」


 そう言えば青磁は、何を対価に縁切りをしているのだろう。

 小関姉妹の時は、特に金銭のやり取りをしているところを見なかったが、百のときは『タダ働きのようなものだ』とぼやいていたから、やはりお金なのだろうか。


 薫を見送り、家に帰って青磁に尋ねてみた。


「青磁さんは、願いを叶えるために縁切りしてるって言っていましたけど……。一回の縁切りに、お金みたいな対価を求めたりするんですか?」

「縁切りに必要な物を調達した場合は、その経費を請求しますよ」

「あ、じゃあ縁切り行為自体には、対価は発生しないんですね」

「そうですね。ですが私にとっては、願いを叶えるための一歩になります」

「相手から何も貰わないのに?」

「功徳を積む……と言ってもお前には分からないでしょうね。要するに、ポイント制のようなものです。縁切するたびに一ポイント、それがたまれば願いが叶うと考えれば分かりやすいかと」


 ポイントという言葉が青磁の口から出てくるとは思わなかったが、この式神も、昼間はテレビなどを観て、積極的に現代の勉強をしているらしい。


「今回はそのポイント、たまりそうですか?」

「まだ分かりませんが、上手くいけば」

「やっぱり誰かの放った式神が、薫さんに悪さをしてるんですかね?」


 青磁は静かに頷いた。


「少し難しかったのは、あの女に絡まっている縁が一つではなかったことです。ですが匂いですぐ分かった。長いこと井戸で眠っていましたが、正邪の区別がつかないほど錆び付いてはいません」


 よく分からないが、青磁は既に事件の全貌が分かっているらしい。ひよりが薫の美貌に口をぽかんと開けて感心している間に、そこまで頭を働かせていたとは。

 何とも言えない罪悪感に囚われていると、青磁がぽつんと言った。


「とはいえ、厄介な相手であることに変わりはない。もしかしたらお前におつかいを頼むことがあるかもしれません」

「おつかい? どんな?」

「決まったら教えます。忙しくて大変かもしれませんが、恐らくお前が一番適任だ」

「適任ってことなら! でもどうして、私なんです?」


 尋ねると青磁はにやりと笑った。


「お前が希代ののんき者だから、です」

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