第6話 猫又
通された和室の、日当たりのいい場所に仏壇はあった。
線香と白檀と白菊の強い臭いが重なり合って、むっとにおう。ひよりは線香を上げ、しばし故人に思いをはせた。
百はそれをうずうずしながら待っていて、ひよりが顔を上げると待ちかねたようにぴょんと跳ねた。
「さ、さ! 早く縁を切って、あたしをここから自由にしてよね!」
「――その前に。式神というもののおさらいをしましょうか」
青磁の落ち着いた言葉に、百は口をとんがらせて抗議した。
「えー!? 何よう、一体いつになったら……」
「式神とは、人の生み出した眷属のことを指す。低俗なものは疾風程度にしか身をやつせず、少し高位になると畜生の姿を取る。そして最も位が高いのは人間の姿をした式神です」
「つまりあたしやあんたってことね」
「いいえ。私は式神ですが、あなたはそうではありません」
ひよりは驚いて百を見る。
「式神じゃ、ない……!?」
「し、失礼ね! あたしは式神よ、ばあちゃんとこの家を守護していた、立派な式神だわ! 訂正しなさい!」
「守護していたという点については疑っていません。ですが式神ではない。あなたの言うばあちゃんは、式神を産み出し、操るだけの力を持っていなかった」
もっと言うなら、と青磁は淡々と言葉を継ぐ。
「式神と契約できるほどの力の持ち主ではなかった」
百のまなじりがぎゅうっと吊り上がり、髪が静電気を帯びたように逆立つ。可愛らしいさくらんぼのような唇からは、一対の鋭い犬歯がちらりと覗いた。
「ばあちゃんを馬鹿にする気!? ならあたしも容赦しないわ」
「では証拠をお見せしましょう」
すっくと立ち上がる青磁は、その懐に手を入れる。
出てきたのはあの小さな糸切りばさみ。持ち手の鈴が微かに鳴る。
「断ち切ることこそ我が力。悪しき縁、悪きものを繋ぐ全てを一閃のもとに伏し、快刀乱麻に縁を切る」
糸切りばさみがぐんと大きくなった。
りん、という鈴の音が、水面にできた波紋のように、重なり合って広がってゆく。
「……百よ。お前の縁を見せてみよ」
いつの間にか百の細い首筋からは、赤い糸がつんと伸びていた。それは水の中にたゆたうインクのように、空中をゆらりと揺れている。
その先端はどこにも繋がっていない。まるで飼い主のいないリードのように。
「分かるでしょう。お前の縁はどこにも繋がっていない。お前ははじめから、瀧宮リツ子の式神などではなかったのです」
「……うそ」
百は泣きそうになりながら、自分の首筋の糸をたぐる。
「ばあちゃんがここにいないから、この先はどこにも繋がっていないのよ、それだけのことでしょ!」
「いいえ。そもそも主が死ねば、式神も死ぬものなのです。よほどの例外がなければね」
主――七生が死んでもなお、井戸に封じられて生き延びてしまった青磁。
望んでもいなかったのに「よほどの例外」になってしまった彼は、どこか悲しげな顔で百を見つめている。
「よほどの例外というのは、お前がどこかに封じ込められていたり、主がその力を分け与えた場合です。しかし――」
「その様子はないな。お前自身は何の加護も受けていない、無力な存在だ」
石蕗がそう言うと、百の顔がくしゃりと歪んだ。
「あたしは……式神じゃなかったの? ばあちゃんのことを守るために生まれてきた存在じゃなかったわけ?」
「はい」
「じゃあどうしてこの家から離れられないの? あたしはいつもばあちゃんの行くところに着いて行くのよ、そういう決まりになってるんだから。なのにばあちゃんは火葬場ってところに連れて行かれて、そのまま帰ってきてないの。迎えに行ってあげなくちゃ。ご飯も食べていないんじゃ、消えてなくなっちゃうもの。あたしの兄弟みたいに」
その言葉にひよりははっと顔を上げた。
百は不安げにスカートをもじもじといじりながら、
「死ぬっていうの、よくわかんないんだけど、家に帰ってこられないってことよね? だったらあたしが迎えに行ってあげなきゃいけないんだから、こんなところでじっとしていられないの」
「百さん、あなた……」
ひよりは少しずつ気づき始めていた。
初めて会った時、百は「このままでは消滅する」と言った。けれどそれは百自身のことではなく、火葬場から帰ってこられないリツ子のことを指していたのだ。
それに彼女はずっと「縁を切る」と言っていたが、それはリツ子との縁ではなく、百をこの家に縛り付けている何かとの縁、を断ち切りたかったのだろう。
百の心はずっと一つだった。
この家から断ち切られて、ばあちゃんの元へ飛んでいきたい。
「分かったわ、あたしが式神じゃないってんならそれでもいい。でもともかく、なんでもいいからあたしの縁を切って、あたしをここから自由にして。そうじゃなきゃばあちゃんが」
「おばあちゃんは、もういません」
「ええ? そうよこの家にはいないわ、だけど火葬場ってとこには」
「そこにもいません。この世のどこにもいないんです。百さん。あなたのばあちゃん……飼い主は、もう帰ってこないんです」
ひよりは泣き出しそうになるのをこらえ、百の顔を見る。
「あなたは、おばあちゃんの猫なんですね」
「――猫?」
そう呟いた瞬間、少女の姿がするりとほどけた。
何度かの瞬きののち、百はちんまりとした三毛猫の姿に変化していた。赤いリボンを首輪代わりに結ばれたその猫は、まあるい瞳でひよりを見上げる。
「いいわ、そうよ、あたしは猫よ。でも猫だからなに? あたしばあちゃんに会いたいの」
「っ、もう会えないんです。リツ子さんは死んじゃって、二度と会えない場所に行っちゃったんです。あなたの兄弟みたいに」
「消滅、しちゃったの?」
「……はい」
百はうつむいた。そうかあ、という頼りない呟きが聞こえる。
「じゃあ、切らなきゃいけない縁なんて、ないんだ」
「そのようです」
猫はへへっと笑った。
「なーんだあ。ばあちゃんてばおっちょこちょいよね、あたしのこと、ばあちゃんを守る式神様だねって言うんだもん。だからあたし勘違いしちゃった。やだ……」
声が微かに震えている。百は猫だから泣かない。泣かないが、泣きたい気持ちになるときくらい、ある。
「ばあちゃんは、二度と会えないとこにいっちゃったんだね。もっかいでいいから、会いたかったなぁ」
「死んだ人間には二度と会えません」
ぴしゃりと言い放ったのは青磁だ。彼は小さな猫を上から見下ろして、ですが、と続ける。
「この家で式神のまねごとをすることはできます」
「……どういうこと?」
「お前は長年瀧宮リツ子にかわいがられ、お前もまたその人間を慕い続けた。その上、オレオレ詐欺の被害からも救ってみせたと言うじゃありませんか。そのことで半ば精霊化しているのです」
「精霊化?」
「力を持つようになってきている、ということです。大事にされた猫は猫又になり、その家を守ると言いますが、それに近い現象が起きているのです。そもそも、人の姿を取って、野見山の家まで来られた時点で、ほとんど猫又みたいなものです」
「すごく上手にしゃべれていますもんね!」
百の場合、あまりにもリツ子に入れ込みすぎたため、その思いが彼女を瀧宮家に物理的に縛り付けているのだと青磁は言った。だから、百が家から遠く離れたくても、できなかったのだと。
「ですがこの石蕗がいれば、お前の中に芽生え始めた力を上手く操る方法を教えてくれます。遠くへも行けますよ」
「えっと?」
混乱する百に、石蕗が悪戯っぽく笑って言う。
「つまりだな、猫。君がかつて瀧宮リツ子にしたように、今度はこの家の人々を――リツ子が遺し、育んだ人々を守ってはどうか、と言っているんだよこのいけ好かない式神は」
「誰がいけ好かないだこの色狂いの土地神め」
「色狂いとはずいぶんな物言いだな!?」
「神社で猫に化ければ、若い女性に抱っこされやすいからおすすめだぞ、とか言って鼻の下を伸ばしていたのはどこの誰でしたっけね」
「その程度で色狂いとは! 青磁よ、君は西洋の神話を読んだ方がいいぞ。俺なんてまだまだかわいい方だ」
「あ、あのう、百さんの話がまだ終わってませんよー……」
百は前足でちょいちょいと顔を洗った。
「あたし、式神なんかじゃない、ただの猫だけど。この家の人たちの――ばあちゃんが好きだった人たちの助けになれる?」
「なれるとも。執念深い猫又はいい猫又だ」
「えへ。じゃあ、なっていいかな? なれるかな?」
頷いた石蕗は、百の頭を三度撫でた。すると百の、かわいらしい三毛しっぽが、するんと二本に分かれた。
ひよりは思わず声を上げる。
「わあっ! すごい、しっぽが二本になった!」
「ほんとだー! あたし、すっごくかわいくない?」
「かわいいです!」
勢いよく頷くひよりに、百は満足げに二本の尾を振った。
いきなり飼い猫の尾が二本に分かれたら、瀧宮家の人は心配しないだろうか。そうひよりが口にすると、青磁はふっと嘲笑を浮かべた。
「普段から二本目のしっぽを現すわけがないでしょう。普通の人間には、一本のしっぽにしか見えませんよ」
「そ、そっか。良かったあ」
ひよりたちはそそくさとスリッパを脱ぎ、瀧宮家を後にしようとする。
すると、奥の方から制服姿の少年が現れた。リツ子の末の孫で、確か今年高校へ入学したと聞いた。
彼は青磁を見て、ぺこりと頭を下げた。
「百を楽にしてくれて、ありがとうございました」
「じゃああなたは・……二本目のしっぽが見えるんですね」
頷く少年は、石蕗にも礼を言った。
「ここのところ、ばあちゃんを探してずっと鳴いてたんです。ほんとに、このままばあちゃんのところへ行っちゃうんじゃないかって、みんな心配してた。だけどあの子がこのまま家にいてくれるんなら、それが一番嬉しいです」
「私にとってはただ働きでしたけどね」
青磁が無愛想にそう言うと、少年は少し笑った。
「あの、お名前は。縁切り屋って言ってましたけど」
「青磁と申します。式神専門の縁切り屋ですので、あしからず」
「分かってます、青磁さん。今日はありがとうございました」
やけに大人びた口調で言うと、少年はまた頭を下げた。
*
並んで洗い物をしながら、春の夕暮れに沈む竹林を眺める。入り込んでくる風は少し冷たく、青磁がそっと窓を閉めた。
「世の中には、神様や精霊っていう存在があるんですねえ。今まで見たことなかったです」
「私と契約したので、お前にもそういったものが見えるようになったのでしょう」
「青磁さんは、最初から百ちゃんが猫だって、分かってたんですか?」
「一目見れば分かります。あれは、人に愛されたから、人の形をしているいきものでした。最初から人の形に作られた式神とはルーツが違います」
「じゃあ石蕗さんを連れて行ったのは……猫又にしてあげるため?」
「ええ。ったく、ただ働きだと言うのに」
「そうなんですか? じゃあどうしてわざわざ」
すると青磁は少し顔を赤くしながら、らしからぬ大声で、
「お前が道ばたに捨てられた子犬のような目で私を見るからだ! それに、式神は主の願いを叶えるための存在なのだと言ったでしょう」
「ありゃ。……ありがとうございます」
ひよりはにっこり笑った。いかにも冷たそうな青磁という式神の、ほんとうの心が分かってきたような気がした。
無表情もつっけんどんな物言いも、全ては繊細な本心を隠すためのものなのだ。
だからこそ、気になることがある。
「百ちゃんの話聞いてたら、ちょっと泣きそうになっちゃいました。ほんとにおばあちゃんに会いたかったんだなあって」
ひよりはちらりと横目で青磁を見る。
「青磁さんも、ひいおじいちゃんに会いたいですか」
「馬鹿な質問を。会いたいに決まっています。会って、よくもまあ私をあんな暗くて湿って臭い場所に七十年も閉じ込めたなと小一時間は問い詰めたい」
ですが、と青磁は素っ気なく言う。
「その機会は二度とありません。七生は死にました。本来なら道連れになるはずの私を、封印して」
ひよりはその横顔を見る。どんなに取り繕っても、その静謐な顔には、置いて行かれた者の寂しさが滲んでいた。
だからひよりは、発作的に口にしていた。
「……私は、置いて行きませんからね」
「守れない約束はしない方がいいですよ」
「そうかも。でも、努力はします。それにね、ひいおじいちゃんも、置いて行こうと思って、青磁さんを井戸に閉じ込めたんじゃないと思いますよ」
「どうだか。お前は七生を知らないから」
「知らないですけど、ひいおじいちゃんだから分かります。大事なものは、一番見えにくくて深い場所に、しっかりと隠しておかなきゃ」
青磁は、まだ契約して間もない主の横顔を見た。産毛の生えたまあるい頬は、柔らかいほほえみをたたえている。
「大事だから、あそこにちゃんとしまって、隠しておいたんですよ」
「でも私は。共に――いきたかった」
行きたい、生きたい、逝きたい。
そんな言葉にならない思いを感じ、ひよりは音を立てないように静かに食器を重ねた。
春の夜の闇は濃く、思い出ばかりがしっとりと浮かび上がる。それを慰撫するように、ひよりは流しの水滴をぬぐい取った。
「紅茶、飲みます?」
「……頂きます」
ひよりはにっこり笑うと、使い慣れたカップを戸棚から取り出した。
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