第5話 黒い犬


 大学一年生の最初の関門と言えば、そう、サークル選びである。


 ひよりの大学でも、サークルの勧誘がひっきりなしに行われていた。まるで出店のようなブースがずらりと並び、そこに新入生たちが吸い込まれてゆくのは、春の風物詩の一つであった。

 最初に声をかけてきたテニスサークルのブースに連れていかれたひよりは、借りてきた猫のような顔で出されたカルピスを飲んでいた。


「っていうか野見山ちゃんって童顔だよね~! 高校生に見られることない?」

「た、たまに、お肉屋さんとかで、お使いして偉いねって言われたりします……」

「お肉屋さん? 何それウケる」


 お肉屋さんのどこが、彼女のツボに入ったのだろう。訳が分からぬまま、ひよりはへらへらと笑っている。話のテンポが速すぎてついていけない。


「っつーかシラバス見た? 平山の必修マジだるいんだけど、出席八割だってよ」

「やば。しかも一限でしょ? 単位取らせる気ないじゃん」

「レポートもあんだよやばいよね。野見山ちゃんも平山の授業は取らない方がいいよー、あいつマジ鬼だから」

「ひ、平山さんの授業ですか、それって……」

「つーか先輩が卒論出せんくて留年した話聞いた?」

「聞いたー! ギリ五分足りなかったってやつ、学部も五分くらいなら受けてくれりゃいいじゃんねー」

「ねー。鬼だわ、鬼。授業料返せっつの」

「マジでそれ」


 ひよりは何か言おうとして、やめた。長いため息をつきそうになるのをこらえて、ぬるくなったカルピスに口をつけた。


 と、ブースとブースの隙間を、一頭の黒い犬のような影が通った。

 この学校で飼っている犬なのかな、と目で追っていると、その犬は向かいの「読書サークル」という札のかかったブースの中に入って行った。

 そこでは新入生も来ず、手持無沙汰に冊子をめくっている男性二人組がいた。最初の方こそ、楽しそうに談笑していたのだが、その顔がだんだん剣呑になってゆく。

 手にした冊子をテーブルに叩きつけながら、何か怒鳴っている風だ。しまいには片方が立ち上がって、椅子を乱暴に蹴飛ばして去って行ってしまった。

 読書サークルというくらいだ。恐らく、作品の解釈の不一致か何かで、仲間割れしてしまったと思われる。そう言えばあの犬、飼い主はどこに行ったんだろう。


 もはやひよりを完全に置き去りにして、おしゃべりに興じているテニスサークルの先輩たちは、ひよりの見ていたものに気づいていないようだ。とにかく今、この瞬間、喋っていなければ死んでしまうというように。


「……あ、犬」


 読書サークルのブースから出てきた黒犬は、鼻を鳴らしながらどこかへ行ってしまった。心なしか先ほどより大きく見えるのは、ひよりが疲れているからだろうか。


 大学生っていうのは、大変なんだなあ、としみじみ思った。





 そうしてどうにか平日を乗り切り、ほうほうのていで帰り着いたひよりは、金曜日夜の嬉しさを噛みしめながら、買ってきたものを冷蔵庫に詰めていた。


「そういえば、明日瀧宮さん家の式神に会いに行くんですよね。それ、私もついて行ってもいいですか?」

「そう言うだろうと思って、お前が休みの土曜日を指定したのです」

「あ、そうなんですね。ありがとうございます」


 よく分かっていないシラバスを読んだり、時間割を組んだりする用事は残っているから、式神関係の予定を入れるのは、あまりよろしくないかもしれない。

 だが、青磁は最初、百の縁切りを渋っていたのだ。それを押し通したのはひよりである。ならば、せめてそれを見届けなければ。


「ちょうどいい。また石蕗が来るので、土産物を用意したかったのです」

「この間のたけのこご飯みたいな? そうですね、今日買ってきた材料はサーモンパイ用なんですけれど、それでもいいですか?」

「なんでも食べますよ、あれは悪食ですから」

「一応土地神さまなんでしょう? あれとか言っちゃっていいんですか」

「構うものか。本人も、力のちょっと強い精霊のようなものだと言っていたでしょう」

「あれは謙遜かと」

「みんながみんなお前のように慎ましやかではないのですよ。では、よろしく頼みます。私も手伝いますから」


 そう言って青磁は、棚からフライパンを取り出しながら、


「大学はどうですか。勉学に励んでいるのですか」

「はい、まあ、そこそこに」

「大丈夫ですか? お前はどこか間の抜けたところがあるから、心配です。知り合いはちゃんとできましたか?」


 知り合い。その言葉で、先輩たちの、とげとげしい内輪の会話を思い出す。結局あのサークルに連絡先を登録してみたけれど、連絡がきたことはない。忘れられているのかもしれないが、それで良いような気もする。


「えっと、勉強は楽しくなりそうです」

「……そうですか。あまり無理をしないように」

「はーい」


 ひよりは青磁の出してくれたフライパンを火にかけた。


 翌日、卵を茹でていると、勝手口からひょっこり石蕗が現れた。この間見かけた時と同じいで立ちだ。だとすればさぞや衆目を集めたことだろう。


「ありゃ、土地神さまがそんな場所から来るなんて」

「こっちの方が、台所が近いだろ? それよりその卵はどうなるんだ」

「潰してサーモンの缶詰と小ネギと混ぜます。味付けはマヨネーズと塩こしょう、たっぷりめのレモン汁です」

「ほおう」


 少しお高いスーパーで買った缶詰のサーモンに、緩く潰した卵を入れて調味料と共に混ぜる。そうして仕上げに、大量のパセリを刻んで加えるのだ。


「サーモンが生臭いのでパセリは絶対です。多めに入れます」

「ふむふむ。どれ、味見をしてあげよう」


 ひよりが中身をスプーンですくうと、石蕗はその手からぱくりと一口食べた。その顔が満足げに緩む。


「なるほど、確かにパセリは必須だ。これは焼いたらもっと美味くなりそうだな?」

「ええ! パイ生地は冷凍の使っちゃいますけどね」

「構わないさ。手間が多ければいいというものではないしね」


 冷凍のパイシートを伸ばすひより。その作業を後ろに立って眺めていた石蕗だったが、そのうち飽きてきたのだろう、ふらりと台所を出た。


「おい青磁。今日はサーモンパイだそうだぞ。美味そうだ」

「あなたはどうしてここにいるのです。現地集合と言ったでしょう」

「君たちが住んでいる家を見てみたくて。風通しのいい家だな。古いがよく手入れされている。居心地がいい」

「ひよりがきちんと掃除をしていますから。もっとも平日は、帰ってくると勉強ばかりのようですが」

「学生なんだろう? 大変だな」


 石蕗は、ひよりが居間の隅に積んでいた勉強本をぺらぺらとめくり、やがて興味を失ったように床に放った。

 代わりに、新しい環境を嗅ぎまわる動物のように、部屋をぐるりと見回した。


「しかしまあ、悪くはない主だ。空気が良い。たたずまいも良い。呑気すぎるきらいはあるが、お前がせっかちすぎるのを考えればちょうど良いだろう」

「なんですか。随分と持ち上げますね」

「まあな。気に入っているんだ。何とも言えず図太そうじゃないか?」

「図太い……。まあ、繊細ではなさそうです。何があってもぐーぐーいびきをかいて寝ていますし、家にどんな式神が来ても顔色一つ変えない」

「あはは、いちいち反応されるよりはいいじゃないか。主というのはどっしりと構えていなければな」


 そう言って石蕗は、行儀悪くあぐらをかくと、青磁のお茶を横取りして飲んだ。

 やがて台所の方から、パイ生地の焼ける香ばしいにおいが漂ってくる。サーモンの美味しそうなにおいに石蕗が舌なめずりしていると、ひよりがフライ返しを持ったまま現れた。


「お昼、ここで食べて行きますか」

「もちろん。ピクニックには少し天気が悪いからな」

「はーい。今用意しますね」


 そう言ってひよりは、普段ののろのろとした動きからは想像もつかないほど手早く、居間のローテーブルをセッティングしてゆく。

 型から出された香ばしいパイ、あっさりとしたコンソメスープに、トマトサラダがずらりと並ぶのを見、石蕗はいそいそと席についた。

 どうやら今日は、お腹からぞぶりと食べる神様の作法ではなく、食器を用いた人間の作法で食べる気らしい。

 ひよりが人数分のカトラリーを用意すると、石蕗は少し不思議そうに青磁を見た。


「……ああ、そういうことか」

「やかましいですよ石蕗。口を閉じていなさい」

「はいはい。さて、いただこうか」


 さっくりと切り分けられたパイの断面から、ほわりと立ち上るサーモンの香り。中身は少し緩く、皿に乗せるとぼろりと崩れたが、家庭料理ならご愛敬だろう。


「うん、美味い! このサーモンがいいな、卵と絡んでこってりしているんだが、レモンとパセリでうまく調和されている。中身はもう少し固めの方が好みだが」

「すみません、ちょっと加減を間違えまして……」

「なに、少しくらい崩れていた方が味わいがある」


 ぽつぽつと皿を突くだけの青磁とは異なり、石蕗の食欲は旺盛だった。コンソメスープを薄味だなと言って平らげ、トマトサラダを青臭いと言いながら完食する。


「えへへ、いっぱい食べて貰えて、嬉しいです」

「だろうだろう! 乙女が手ずから作ったものを食わずして何が土地神か! それにこれなら俺も存分に力を振るえるというものだ」

「力?」

「ああ。百とかいう小娘を救うには、青磁だけでは力不足ということさ!」

「うるさいですね。誰が力不足か。私の縁切りの力は、神たるあなたにも劣ることはないと自負しています」

「まあ、縁切りの分野で言えばね」


 意味深な笑みを浮かべる石蕗は、食後のコーヒーまでゆったりと楽しんでから、青磁にせっつかれて、ようやく野見山家を出発したのだった。



 瀧宮家は、野見山家と同じくらい広い。

 ただし野見山家よりもだいぶ賑やかだ。リツ子の五人の子どものうち、二人が住んでいる。しかもどちらも五人家族なので、いつも子どもがみゃあみゃあと泣く声が聞こえていた。


「来たわね」


 門の前には百が立っている。ふふんと得意げに笑って、ひよりたちを家の中へと案内した。玄関をからりと開けると、奥から瀧宮家の奥さん――リツ子の娘が出てきた。


「あら百、お客さんを連れてきてくれたの?」

「そ! あたしの縁を切ってくれるのよ!」

「まあ野見山さんとこのお嬢さん! もしかして、母にお線香を上げに来てくれたの?」

「は、はいっ。遅くなりまして、申し訳ありません」

「いいのよ。上がってちょうだい。その後ろのお二方は、お友達かしら?」


 ひよりは青磁と石蕗を見て言い訳に窮する。友人というにはあまりにも顔が整いすぎていたので。


「ええっと、はい、友人です。ぞろぞろとすみません。おばあさまと彼女が親しくしていたと聞いたものですから」


 そう、と言ってリツ子の娘はうつろに笑う。それ以上追求することなく、三人分のスリッパを用意して、奥へよろよろと去って行った。

 少しおかしな態度だった。ひよりが不審に思っていると、石蕗がふふんと笑う。


「神なれば、この程度のめくらましはお手の物」

「石蕗さん、オレオレ詐欺とかやったら百発百中ですね」

「ひより……お前の想像する悪だくみは、何というか、チンケですねえ」

「チンケじゃないですよ! リツ子おばあちゃんも一瞬引っかかりそうになって、五百万円持って行かれそうになったんですからね」


 その時は、急いで箪笥の中の五百万円を持って待ち合わせ場所に向かおうとするリツ子の前で、飼い猫が鞄の上に毛玉を吐き、その後始末をしている最中に家族が帰宅して、事なきを得たそうだ。


「真面目に犯罪ですからね、オレオレ詐欺は」

「そう、ですね。チンケではなさそうだ。前言撤回です」


 珍しくやり込められたかたちの青磁に、石蕗がくつくつと面白そうに笑った。

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