第9話 水神ここに在り


 今日は一限がないのでのんびりと過ごせる。

 庭を掃いて、水をやり、風と光に気を配りながら、鉢植えの場所を少し変える。

 式神としてそれを手伝っていた青磁は、感心したように呟いた。


「まめですね」

「だってね、こういうのって、毎日お手入れしてた方が、結局一番楽なんですよ。雑草とか、夏になってから対処しようとしても遅いですし」


 ドクダミの根の深さ、ミントの増殖力を知っているひよりは、決して狭くはない庭を隅々まで手入れすることにしている。毎日やっていれば、一度にまとめてやらなくてもすむ。


「こういうところは陰陽師向きと言えるかもしれませんね」

「ほんと? 私にもなれるかも、なーんて」

「まあお前には無理ですけどね」

「ひどいっ」

「なりたいんですか? 陰陽師」


 ひよりは少し考えてから、困ったように眉を下げた。


「……分かんないです。私、何にも得意なことがないから。もし陰陽師が私のできることなら、やってみたいとは思います」


 水泳をやるために生まれてきたのかもしれない、と薫は言っていた。

 薫の底なしの自信も羨ましかったが、そこまで強くのめり込めるものがあることの方が、強く心を打った。

 あんなきらきらしたものを、胸に抱くことができたら、きっといつでも前を向いて生きていける。そんな気がする。


「またとぼけたことを。陰陽師がどんなものかさえ知らないくせに」

「でも、なれなくはないんでしょう?」

「覚悟も知能も力も足りないから無理ですね」

「あうう。じゃ、じゃあ逆に何ならありますかね!?」


 やけに前向きな主を怪訝そうに見た青磁は、そうですね、と形の良い顎に指を添える。


「素質、でしょうか。お前の几帳面なところ、生真面目なところは、良い陰陽師に必要なことではあります」


 そうして青磁は付け加えた。


「あと、底なしにのん気なところも。楽天的であることは存外重要ですから」

「じゃあじゃあ、望みなしってわけではない?」

「まあ、ハツカネズミが太平洋を横断する方がいくらか実現性がありそうですけどね」

「か、かわいそうネズミ……」

「そのくらい無謀だ、ということです。ネズミにはネズミの居場所があるのですから、お前も妙なことを考えないように」


 はあい、と行儀の良い返事をした主を見、式神は少しバツが悪そうな顔で告げた。


「と、言った舌の根も乾かないうちに、こうお願いするのは何ですが――。今日の夜は明けておいてください。プールの件を片付けます」 


 夜やるんだ、という感想がまず一つ。そして、片づけるという言葉の頼もしさが一つ。ひよりは両手を握り締め、こっくりと頷く。


 頷き返したひよりの式神は、緊張感のある眼差しをしていた。



 *



 一度家に帰って着替えたひよりは、青磁と共にあのプールへ向かっていた。彼女の手には風呂敷に包まれた鏡がある。何でもこの鏡は、ひよりにしか持てないらしかった。


「持つのは全然良いんですけど、どうして私にしか持てないんでしょう?」

「私が持つと、自分の存在を保つだけで精一杯になってしまうので。式神はしょせん影法師に過ぎませんが、その影法師の側面が増幅されてしまうのですよ」

「どうせなら縁切りの力を増幅してもらいたいですね」

「そう都合よくはいきませんよ」


 プールの前では、緊張した面持ちの薫が待っていた。


「鍵はこっそり開けておいたわ。……あの、ひよりちゃんが持ってるそれで、何かを退治する感じなの? 武器とか持ってきた方が良かった?」

「いいえ。上手くいくかは小娘、お前次第です」

「そうなの? それなら作戦を教えて欲しいわ」

「作戦はありません。お前はただあるがままに振る舞えばそれでいい」

「作戦がない? 絶対あるでしょ! 教えて。私には聞く権利があると思う」

「ありません。というか、お前は今聞いても信じないと思います」

「信じるわ!」


 食い下がる薫。を、尊敬のまなざしで見つめるひより。

 青磁にすっぱり切り捨てられても、しつこく食らいつけるのはすごい。


 しかし敵もさるもので、薫の権幕にも全く押し負けず、青磁はさっさと建物の中に入ってしまう。暗い中を、まるで見えているかのようにずんずん進んでゆく式神を、二人の人間は慌てて追いかけた。

 青磁が向かったのは女子更衣室だった。彼はその扉をためらわずに押し開ける。


「わ、青磁さん、そこ女子更衣室ですよっ」

「式神に性別も何もあるか」


 と言いつつ、その形のいい耳を少しだけ赤らめる青磁だった。


 彼はそのまま女子更衣室を通り抜け、プールサイドに出て行く。人のいないプールの水面はしんと凪いでいて、天井から月の光がさやかに降り注いでいた。


「ひより。鏡を出して、月の光を集めて下さい」

「は、はいっ」

「私は? 私は何をすればいい?」

「そこに立っていて下さい。そう、プールに近いところに」


 うずうずしている薫をプールサイドに立たせると、青磁は女子更衣室の前に立った。

 ひよりは鏡を取り出して、降り注ぐ月の光を集めようと頑張った。しかしそもそも曇りに曇った鏡である上に、月の光というものは、太陽光のように集中させられない。

 四苦八苦していると、青磁の口から朗々とあの言葉が紡がれ始めた。


「断ち切ることこそ我が力。悪しき縁、悪きものを繋ぐ全てを一閃のもとに伏し、快刀乱麻に縁を切る」


 彼の手に、また大きな糸切りばさみが現れる。軽やかに鳴り響く鈴の音に、ほんの少しだけ鏡の表面が輝いたような気がした。


 風も吹かないプールの水面が、ぞわり、とうごめく。

 青磁が固い声音で告げた。


「お早くお目覚めを。これより式神どもとその主の縁を断ち切り、野へと放ちます」

『――』


 ひよりと薫は同時に顔を上げる。


 今、確かに誰かが、応じた。


 水面がぼこぼこ音を立てて盛り上がる。黒い影が見えたような気がするが、ひよりはその輪郭を完全には捉えられずにいる。

 だが薫は違うようだ。彼女は魅入られたように黒い影を見つめている。


「目的は、主の妬心を喰らって肥大化した式神です。契約を断ち切れば、式神を戒める楔は外れ、悪鬼羅刹へと変貌するでしょう。ですが……その鏡があれば、問題ありませんね?」

『――応』


 腹の底に轟くような、異形の声。

 薫がぶるりと身を震わせた。反射的に叫ぶ。


「ひよりちゃん、あの影に月の光を合わせて!」

「は、はいっ」


 鏡の角度を変えて、盛り上がりつつある黒い影に光を注ぐ。あれほどささやかだった月の光は、鏡を通ることで何らかの力を帯び、白銀の輝きとなって力を与える。


 やがてぞぶりと水の中から出てきたのは、一匹の白い大蛇だった。

 真っ白な鱗は、月の光を受けてオパールのように輝いている。金色の瞳は敵意に爛々と輝き、青磁と同じ、女子更衣室の方を睨み付けている。


 プールからいきなり大きな蛇が出てきた、という事実にびっくりしすぎたひよりは、口をぽかんと開けて、馬鹿みたいに突っ立っている。

 だが薫は、口元を押さえ、まるで幽霊でも見たかのような顔で大蛇を見ていた。熱のこもった眼差しは、恐怖よりも驚きや喜びが勝っているようだった。

 その様子を見た青磁は、糸きりばさみをぐるんと回し、その切っ先を女子更衣室の方に向けた。


「出て来なさい。玉木薫に仇なす傀儡よ」


 冷たい風が吹き抜ける。プールサイドにある小物入れの扉が、けたたましい音を立てて開閉し始めた。

 きゃらきゃらと耳ざわりな笑い声と共に、女子更衣室から現れたのは。

 五体の人形だった。

 棒切れのような躯体に、セーラー服をまとったそれは、ぞろりと長い黒髪を振り乱して、不気味な動きで青磁に向かってくる。


「あ、あれが式神……なんですか?」

「意思を持った式神というよりは、固有の目的のためだけに動く式神です。からくりに近いですが、かなりの強さを持っているようですね。――女子更衣室で小娘に嫌がらせをしていたのは、この式神に間違いない」


 薫が式神たちを睨み付ける。


「彼らの主の感情を反映して、より凶暴になっている。ほんとうは怪我の一つでもさせたかったのでしょうけれど、場所が悪かったですね」

「場所?」

「ここが水場である、ということが、彼らにとっての不運だったのですよ」


 手足をひきつらせ、木製の歯を打ち鳴らして威嚇する人形たちの後ろには、赤い糸が見える。ふわふわと漂うそれは、どこかへと繋がっているようだった。


「あの糸を辿れば、あの式神を仕掛けた連中に繋がっています。下手人探しは私の仕事ではないが、教えることはできますよ」

「興味はない。どうせ私に嫉妬する有象無象よ」


 すっぱりと言い切った薫は、


「それより、水場だとどうしてあいつらにとっては場所が悪いことになるの?」

「お前を守るものがいるからです」


 薫は、プールの真ん中で鎌首をもたげている大蛇を見た。

 大蛇もまたその金色の眼差しで薫を見つめ返す。

 ありゃ、とひよりは思う。あの目線の交わし方は、まるで――。


「分かっているようですね。そう、その大蛇です。お前は水の中で何かに触れられた、と言いましたが、あれは大蛇の加護だったのです。帰りの更衣室では何も異変が起こらなかったと言っていたでしょう」

「うん。じゃああなたが……私を?」


 薫の問いに大蛇は答えず、シャッと赤い舌を突き出した。

 その音に薫ははっとする。

 でんでら、という歌の後に続いて聞こえていた、包丁を研ぐような音。それはこの蛇の、威嚇音だったのだ。

 青磁は深くうなずいて、糸きりばさみを構える。


「この名を広く知らしめよ。我はお前たちの縁を切り落とすもの、縁切り屋の青磁なる!」


 ぞんっ、と風が吹き抜ける。青磁のはさみがぐるりと回転し、その切っ先に式神の赤い糸を纏めて捉えたかと思うと――。

 ぷつんと切り落とした。


 式神たちは体をばたつかせ、ごおう、と唸り声を上げる。先ほどまでは二本の足で立っていたはずなのに、四つん這いになってけたたましく歯を鳴らす。

 その歯が徐々に人間のそれのような、真珠色を帯び始める。生々しい存在感を放つその歯を、がぱりと見せつけたまま、式神たちは跳んだ。

 彼らの目標はただ一人。薫だ。


「薫さん、あぶない!」


 彼女の右手から飛びかかってくる一体の式神。

 その首を一閃の元に付したのは青磁だ。巨大な糸切りばさみの刃が、月夜に怪しく輝いている。

 頭を落とされたその式神は、人形のように動かなくなった。

 仲間の死が式神たちを奮起させたのだろうか、いっそう激しくなる式神たちの攻撃を、青磁の糸きりばさみは華麗にさばく。


「あっ」


 その脇をすり抜け、まるでゴキブリのような動きで薫に這い登ろうとするやつがいた。ひよりは発作的に、手にしていた鏡でその頭をどすんと横殴りにしてやった。

 たたらを踏んでよろけるその式神の背後を、青磁の糸きりばさみが襲う。

 胴体と下半身が真っ二つになったその式神は、ぎゃあと断末魔の声を上げて倒れた。


「お見事。お前がそんなに俊敏に動けるとは思いませんでした」

「火事場の馬鹿力というやつですね!」


 残りは三体。

 形勢の不利なことを悟ったのだろう、ひとかたまりになった式神たちは、薫目がけて一斉に飛びかかった。圧死させようとでもいうのだろうか。


 だがいずれにせよ、式神たちはその目的を達することができない。

 なぜなら白い大蛇が、そのあぎとを大きく広げて、式神たちを丸呑みにしてしまったから。


「わ」


 抵抗も、断末魔さえもない。鱗に覆われた腹が大きく波打っている。

 ごぶんと呑み込まれた式神たちが、蛇の体内から逃げ出そうと暴れているらしい。

 出の悪い洗濯機のホースみたいだな、とひよりが妙に所帯じみた感想を抱いている間に、大蛇は食事を終えていた。満足げに舌を出して、ぬっくりとプールから這い出る。


「……ありゃ」


 その大蛇は、プールから出るなり、人の姿になっていた。

 金色の瞳はそのままに、黒い短髪、端正な顔立ちの着物をまとった青年が、薫の前に佇んでいる。

 薫は青年の陶器のような肌にそっと手を伸ばす。

 目を細めてその手を受け入れる彼に、薫が呟く。


「……なんでだろう。初めて見た気がしない」

「当然だ。そなたは私の花嫁なれば」


 薫はぱっと微笑んで言った。


「やっぱり」





 ひよりはそうっと二人の後ろを通りぬけ、青磁の元に向かう。


「帰りましょ、青磁さん」

「あの小娘は放っておいていいんですか」

「むしろ放っておかなきゃ馬に蹴られちゃう」

「馬?」


 きょとんとしている青磁を連れて、さっさと建物を出る。

 出た拍子に、ひよりがあっと声を上げた。


「なんか、鏡の様子が変わってるんですが! さっき私がこれでぶん殴っちゃったからかなあ」

「我が主ながら、いい鏡さばきでしたよ」


 汚れが落ち、鏡面部分が輝いている。縁取りの装飾は鈍色に輝いていて、何だかグレードアップした感じだ。

 青磁は事もなげに、


「神気を受けたからでしょう。これで鏡を借りた対価は払えそうだ。いや、むしろおつりが来るかもしれません」

「神気……。ってことは、あの大きな蛇は」

「ええ。水の神です。この辺りには昔小さな川があったと言いますから、その川の守護者だったのでしょう」


 明治時代に潰されたらしい川は、少しだけ残っているものの、かつての見事さはない。

 だが、かつて川があった場所に、新しくプールができたことから、水の神は新たな居場所を得る。

 とは言え、人工的な要素の強いプールでは、本来の力を発揮できず、確固とした姿を取れないでいた。どっどど、という言葉は、かつて彼が神であった時に歌われていたもので、手慰みに口ずさんでは往時を懐かしんだ。

 かつての川が恋しい。大蛇の姿もとれぬまま、現世に身を置き続けることの、何と辛いことだろう。


 そこに現れた、薫という女。禍々しい怨念の残滓を、羽衣のように纏いながらなお、美しく輝く彼女は、彼のかつての花嫁で。

 守りたいと強く思った。己の力全てを使ってでも、この女に絡みつく怨念から守ってやりたいと。


「そこにお前が鏡で月の光を与えたでしょう。月の光は神にとっては百薬の長。鏡によって増幅された月の光を受けた神は、ああして神の力を取り戻したというわけです」


 もっとも、完全に力を取り戻せたわけではない。力の強さは青磁と同程度で、例えば石蕗ほどではないと言う。


「あの小娘は恐らく、かつて川の神とくないだ娘が転生したものでしょう。そうでなければ水の神が守ろうとはしないでしょうから」

「そうなんだ。薫さん、あんなに頼もしいボディーガードがいれば、もう安心ですね」

「ええ。式神を使って嫌がらせをしようなんていう執念深い連中も、一飲みにしてしまえるでしょう」


 ひよりは、プールサイドの二人を思い浮かべる。


「私たち、完全に蚊帳の外でしたけど……お似合いの二人でしたね! 美男美女は絵になるなあ」


 そう言う口調は弾んでいて、青磁はちらりと主の顔を見る。


「お前は他人の喜びを自分のことのように喜ぶ癖がある」

「ええ? そうですか?」

「小関姉妹や、あの猫又の時も、やけに嬉しそうだったでしょう。あれはあやかし、まつろわぬもの。お前とは関係のない世界のことなのに」

「私の頭、そこまで高性能じゃないので……。喜んでる人が自分か他人かっていうのは、あんまり関係ないのかもしれないですね」


 そう言うと青磁が、理解のできない外国人を見るような目でひよりを見た。


「自分と他人の区別がつかない? ほんものの阿呆じゃないですか」

「あの、でも、お得ですよ! 一人で何人分も楽しいですから!」


 一瞬の間をおいて、それから。

 青磁がけらけらと笑い出した。


「あはは、ほんとうにお前はもう、能天気な主だ」

「わ、笑うことないじゃないですかー?」

「笑うしかないだろう、ふ、ふふっ」


 何がツボにはまったのか分からないが、青磁はおかしそうに肩を震わせている。

 笑われるほどの自分の能天気ぶりが、ちょっぴり恥ずかしいような気もしたが、自分の式神が楽しそうなら、まあいいか。

 そう思ってひよりは、姿を変えた鏡を抱え直した。





 主の寝静まったことを確認して、青磁はひっそりと洗面台に向かう。

 そうして鏡に向かって、べ、と舌をつきだして見た。

 その舌は不完全だ。半ばから先が切り落とされたかのように欠けていて、切断部は黒くよどんでいる。


「ここまで来ましたか。……あと少しですね」


 青磁は呟く。そうして途方に暮れたように笑う。


「七生がいる間に、叶えたかった」

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