第3話 赤べこ、白べこ



 既にほとんど散ってしまった桜の花弁が、道で吹きだまっている。


 大学のオリエンテーションは、ひよりには早すぎるほどのスピードで進んでいった。シラバス、カリキュラム、必修科目に必修単位。覚えることが多すぎる。

 しかも、ひよりにとって初めて聞くことばかりなのに、周りの生徒は既にそれを知っていたようなのだ。先輩に聞いた、などと言っていて、そうかその手があったのかとひよりは感心する。それにつけても出遅れがちなひよりは、すっかり劣等感を抱いてしまう。


「ともだち、できなかったなあ」


 隣り合わせに座った子に話しかけようと思うのだが、大体もう他の人と話してしまっているか、むっつりとシラバスに目を通しているかで、話しかける余地がない。

 例え話しかけられたとしても、友達になれたかは怪しいが。

 ひよりは、春の陽気な日差しに似つかわしくない、少し重たいため息を漏らした。



「ただぁーいまー……」


 青いトルコタイルを敷き詰めた玄関で、背伸びして履いたパンプスを脱いでいると、家の中からいつもと少し違う気配を感じた。

 花に似た香りも漂っている。青磁が始めた、縁切り屋とやらの客だろうか。


 果たして居間のすぐ横の部屋には、正座している青磁と、その前に座る二人の少女の姿があった。

 彼女たちは長い黒髪を白い紙で留め、ブレザーの制服を纏っていた。見覚えがないから、この辺りの学校ではないのだろう。靴下の裏は真っ白で、それが二人の几帳面な性格をうかがわせた。

 特に会話に混ざるつもりはなかったのだが、青磁が、


「あれが私の主です」


 と紹介するので、ひよりは室内に入ってぺこりと頭を下げた。

 二人の少女は目を輝かせ、


「あなた様が、こちらの式神のご主人様でいらっしゃるのですね!」

「いらっしゃるのですね!」


 美しいユニゾン。ひよりは慌てて、青磁の横に正座して座る。

 強い意志を感じさせる太い眉。きりりと引き結ばれた薄い唇。ふっくらと丸い頬が、緊張のためかほんの僅か赤らんでいて、かわいらしい。

 同じ顔が二つ並んでいる様は、どこかひな人形のような印象を与えた。


「私たちは小関姉妹と申しまする。小関家に名を連ねる陰陽師の端くれなれば、どうぞお見知りおきのほどを」

「お見知りおきのほどを」


 双子はちんまりとした指を畳について、深々とお辞儀をした。かえってひよりの方が慌ててしまう。


「しかしあなた様の式神はご立派ですね。人型をしていらっしゃるし、縁切りという素晴らしい権能もお持ちだ。代々伝わる式神なのですか?」

「そ、そのようです……」

「羨ましい。私たちも早くあなた様の式神のような、見目麗しく、能力も高い式神を生み出したいものです!」


 褒めちぎられて、まんざらでもなさそうな青磁が、今までの会話を簡単に説明してくれた。


「要件は既に二人から聞いています。なんでも、式神を取り違ってしまったのだそうで」

「取り違えた?」

「そうなのです。未熟者ゆえ、恥も知らずにつまびらかにお話させていただきますが、先日私たちは、この赤べこを式神とすべく、術式を展開しました」


 そう言って二人は懐から、小さな赤べこの人形を取り出す。

 畳の上でゆらん、ゆらんと首を揺らして存在感を示す赤べこ。

 だが片方の赤べこは真っ白だった。


「赤べこという名ですが、片方は白いものにしました。妹は白を好みますので」

「姉の式神と並べると、紅白の取り合わせが、何とも言えずおめでたいでしょう」

「ですが、私は赤色がいい」

「そして、私は白色がいい」

「だというのに、私が白べこの主となってしまっている!」

「とくれば私も、赤べこの主になってしまっているということ!」

「これではだめです。いけません。私は赤、妹は白、これは絶対の決まりなのです」

「決まりを破ってしまっては小関家の将来にも関わる。……しかし、未熟者の術ゆえか、契約を解除しようと思ってもできず」

「ゆえに縁切屋の青磁どのに、縁切りをお願いしようと思った所存であります」


 畳みかけるような姉妹の言葉を、懸命に反芻するひより。


「えっと……主は違うけど、並べれば同じ紅白だからいいよね、っていう解釈とかは」

「ありえません! 私は赤がよいのです!」

「そして私は白が!」

「は、はいっ! すみません!」

「しかし斬新なご意見、感謝します。仰る通り、並べれば紅白になることに変わりはない」

「どうやらあなた様は、木よりも森を見、全体の調和を重んじる方のようだ。私たちも早くその域に達したいものです」


 どうやらこの姉妹は、青磁とその主であるひよりを、若干憧れの目で見ているふしがある。青磁の力は本物だろうが、ひよりは主としては無能もいいところ。

 そもそも、陰陽師だの式神だのという言葉を知ったのだって、つい最近のことなのだ。

 だから、どう反応すれば青磁に迷惑をかけないのか、皆目見当がつかない。


 その状態を見かねたのだろう、青磁が会話を先導してくれた。


「陰陽師が式神を生み出す際には、二つのやり方があります。一つ目は、もともといる精霊やあやかしを調伏し、己の指示に従うよう契約を結ぶ方法。そして二つ目は、触媒を元として、一から式神を作り上げる方法」

「ふむふむ」

「彼女たちは後者のやり方を取りました。赤べこと白べこで式神を作る。だがそこで、取り違えが発生してしまった」

「それが解除できないから、青磁さんが縁を切って、いったん仕切り直しにするってことですね。理解しました」

「よろしい。では仕事にかかりましょう」


 そう宣言した青磁が懐に手を入れた。

 出てきたのは小さな糸切りばさみ。和裁に使う、今ではあまりお目にかかれない代物だ。

 持ち手のところに小さな鈴が結わえ付けられていて、りん、と微かな音を立てる。


「断ち切ることこそ我が力。悪しき縁、悪きものを繋ぐ全てを一閃のもとに伏し、快刀乱麻に縁を切る」


 糸切りばさみがぐんと大きくなった。刃先が青磁の肩に届くまでに巨大化したそれからは、何か神聖な、不可侵の気配が漂っている。


 あれに触れれば、切られてしまう――。


 氷山の鋭さ、絶海の無慈悲さにも似て、たやすく彼岸に連れて行かれそうな気配が、そのはさみにはあった。

 小関姉妹もそれを感じ取ったのだろう。ごくりと息を呑む音がシンクロした。


 「やはり、凄まじい権能です」

 「しかしあれほどの威力があるのなら、私たちの式神なぞ、容易く吹き飛んでしまわないでしょうか?」


 ちっぽけな赤べこと白べこも、心なしか首をひっきりなしに上下させて、うろたえている(ように見える)。


「その縁を見せよ。式神よ」


 青磁の言葉に応じ、赤べこたちの背中から細い糸がゆるりと現れる。それは酔っ払いのようにぐねぐねと揺らぎながら、小関姉妹の手に吸い込まれていった。

 姉が白べこ、妹が赤べこに繋がっているはずだが、何しろ同じ顔なので分からない。

 ただ、会話を主導していた方に白べこの糸が繋がっていたので、恐らく双子の説明通りの状態になっているのだろう。


 青磁はそれを一瞥すると、糸切りばさみをぐるんと回し、その切っ先を赤い糸に近づけた。ぎらりと光る刃先に、ひよりは思わず叫んでしまう。


「あっ青磁さん、畳取り換えたばかりなので、傷つけないように気をつけて頂けるとありがたいです!」


 式神は、のんきな主をきろりと睨んだ。


「畳の心配とは、大物ですね」


 そうして青磁は、しゃきん、と音を立てて糸を切った。


 はらりと落ちる縁の糸。


 赤べこと白べこはがくりと頭を垂らしたきり、動かなくなってしまった。

 青磁はその糸の先を持つと、双子に渡した。糸を交差させ、姉に赤べこが、妹に白べこが行くようにする。


「縁切り屋再開第一号のお客様、ということで――。こちらはおまけです」


 赤い糸がじわじわと姉妹の体に染み込んでゆく。

 その温かな光に、ひよりはほうっとみとれた。


「あ……。私たちの、式神が!」

「姉さまは赤に、私は白に、繋がりました!」


 赤べこと白べこが、元通りこっくりこっくり首を動かし始めた。


『嬉しゅうございますな』

『ええ、とても』


 その声は赤べこたちから聞こえてきたようだった。姉妹は歓声を上げて、それぞれの式神を手のひらに抱き上げる。


『この色がいい、と言って下さる主はそういない』

『わざわざ縁切り屋まで足を運び、縁を結び直そうとされる主も、なかなかおりませんぞ』

『得難い主じゃ』

『ああ。我ら式神、お二方に末永くお仕え致しまする』


 赤べこたちも、小関姉妹も、嬉しそうに互いを見つめている。その様にひよりも思わず嬉しくなって、はさみを懐にしまいこんでいる青磁の横に立った。


「すごいですね青磁さん! あのはさみ、大きくなったり小さくなったりして、それ

で縁の糸をぷつんって! すごいすごい!」

「五歳児のような感想、どうもありがとうございます」


 と言いつつ、青磁もまんざらではなさそうに、喜ぶ少女たちを見つめている。


「青磁さんは、縁を繋ぐこともできるんですか」

「いいえ。あれは切ってすぐだったことと、次の主が確定していたからできたことです。私程度の力を持つ式神であれば、誰でもできると思いますよ」

「そうですか? 優しくないと、できないですよ」

「……再開してすぐのお客様だから、少し手厚くもてなしただけです。他意はない」


 ひよりはにまにま笑いながら、青磁の顔を覗き込もうとする。ひょい、とかわされるのを、すかさず回り込んでみる。

 いつも通りの無表情ではある。けれどひよりの目は、青磁の白い耳が、ほんの僅か赤らんでいるのを見逃さない。


 いきなりひよりの前に現れた式神、青磁。かつて曾祖父に仕えていて、毒舌で、大きなはさみを自在に操るひと。


「やっぱり私の見立ては間違ってなかったですね。青磁さんは、いいひとです」


 そう言ってひよりはにんまり笑った。


「お疲れ様の紅茶を淹れましょう」





 青磁はどこか手持無沙汰な様子で、テーブルの上に広げられた食器を見ている。ひよりはゆったりとした手つきで茶葉をすくい、大きなポットの中に二杯入れる。そして高い位置から勢いよく電気ケトルのお湯を注いだ。


 小関姉妹は既に帰っていて、居間にいるのは青磁とひよりだけだ。時刻は八時で、ティータイムというよりは夕飯時に近い。


「……あの、別に私は」

「まあまあ。私、色々とどんくさいんですが、紅茶を淹れるのだけは褒められるんです」


 ポットの上に、真っ赤なティーコゼーを被せると、優美な手つきで砂時計をひっくり返す。白くて小さいひな人形のような指先が、今だけはよどみなくなめらかに動いている。

 白磁のシンプルなカップには、なみなみとお湯が注がれていた。シュガーポットもミルクピッチャーも、揃いの青いアラベスク模様が入っていて、ひよりの手に馴染んでいる。


「なるほど。道具たちも慣れていますね」

「慣れてる?」

「お前の次の動きを待っています。訓練された犬のようだ」


 ふふっと笑ってひよりは、砂時計をじっと見つめる。青磁もまた落ちてゆく金色の砂に視線を合わせた。



 時間は不可逆だ。戻らない。戻れない。七生のいた頃には。

 青磁は顔を上げる。ひよりは過ぎる時間を慈しむように、ティーコゼーの微かなほつれを指先で弄っている。ふさふさと生えた睫毛が、まろい頬に微かな影を落としていた。


「紅茶を淹れたり、何か煮込んだり、茶渋を取るために、コップを漂白剤に漬けたりしてるときが好きなんですよね、私」

「お前はぼーっとするのが上手いですからね」

「青磁さんはぼーっとするのが下手そうですよね」

「……下手で悪いか」

「いえいえ。私が上手いから大丈夫ですよ」


 砂時計が落ちきった。ひよりはカップの湯を捨て、茶こしの上から紅茶を注ぎ入れた。

 黄金色を湛えたカップが、そっと青磁の前に差し出される。砂糖もミルクも入れずに、青磁はそのカップを手に取る。


「よい香りです」

「フレンチアールグレイ、っていうんですって。柑橘系のいいにおいがしますよね。味もそんなに渋くなくて、何杯でも飲めちゃう」


 うっとりと目を細めるひよりに対し、青磁は微かに眉根を寄せる。主に気づかれない程度のその表情は、一瞬のちにすぐ無へと戻った。


「……よい茶ですね」

「お土産でもらったんですけど、美味しいですよね。これ飲み終わったら夕ご飯作りますね。今日はナポリタンにしようかと」

「野菜がない」

「で、でもナポリタンにはピーマンとか入ってますし! 最近葉物高いですし!」

「栄養管理も私の務め。そもそもナポリタンでは肉が足りません。一品追加なさい」

「うぅーっ。お母さんみたいなこと言う……」


 うなだれながらもひよりは嬉しそうで。

 その顔を見ていると、青磁もまた、心の奥がじんわり温まってゆくような気持がするのだった。

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