第2話 土地神様に捧げるたけのこご飯
料理をしない青磁は手持ち無沙汰になり、居間に移動して、部屋の隅にある低い箪笥の上に飾られた写真をじっくりと眺めていた。丁寧に埃の払われた写真立ての群れを、一つ一つ指でなぞる。
野見山家の人々は誰も皆人が良さそうな顔をしている。というよりは、締まりのない顔と言った方がいいだろうか。
ひよりだって、小さくてぽやっとした顔をしている。黒目がちの目は小動物に近くて、こまごまと動く様子はほんとうにリスみたいだと思う。害がない。むしろ悪意を持った者に狙われる側だろう。
ともあれ、自分が井戸にいる間も、野見山の人間がつつがなく過ごしていたというのは朗報だが、ならば自分はなんのためにいるのだろうと、青磁は束の間苦い虚無感を味わった。
七生の写真は見当たらない。考えてみれば、七十年前に早世した青年の写真を飾る理由はあまりない。
「……おや」
しかし、七生の写真は、あった。
写真スペースの端のほう、日に焼けて白茶けてしまったその一葉。
迎えたばかりの妻と並んで、硬い表情で写っている。
精悍な顔立ち、とはお世辞にも言えまい。細面で、けれど眉毛と目の間が離れているせいで、どこか間が抜けた顔になっている。
「この顔で、不退転の覚悟を叫ぶのですから、まったく手に負えませんね」
青磁の脳裏を、別れ際の言葉がよぎる。
『青磁。お前はここで、俺のいない間この家を守っていてくれ』
『だが、お上は式神を全て差し出せというのでしょう。ならば私も』
『だめだ。青磁、言うことを聞けないのならば、お前をここに封じていくしかない』
『馬鹿なことを。お前にそんな真似ができますか。……七生?』
『ここは譲らない。お前を戦場になんて行かせるもんか、お前は野見山家の、俺の、式神だろう』
『やめなさい、何を……! 七生、七生!』
蘇る記憶に顔をしかめ、何度か首を振って追い払う。
井戸の中に封じられていた間、式神としての力は弱まることがなかった。主である七生が死してなお。野見山の一族と、この土地が青磁をつなぎ止めていたのだろう。
あるいは七生が、なにか企てていたか。
「守られていたのは、私の方だったのかも知れませんね」
「ありゃ、青磁さんここにいた」
ひょっこりと顔を出したひよりが、青磁の視線の先にあるものを見て、照れくさそうに笑う。
「そこ、すごいでしょう。一族が写ってる写真、全部引っ張り出して並べちゃったんです。この家で一人だとどうにも気詰まりで」
「この家に一人? なぜお前しか住んでいないのですか」
「元々大叔母が住んでいたんですけど、病気で入院することになって。その間手入れをする人手が必要で、私が駆り出されたんです」
えっへんと胸を張るひより。
「なんと言っても私、今年から大学生ですから!」
「ああ、学業ですか。いいですね、女性が学ぶのは大事なことです。いかにもぼんやりしていそうなお前にしては先見の明がある」
ひよりの周りでは、大学に行くのは結構当たり前だった。だからこんな風に感心されると少し困ってしまう。
時代が違う人なのだなあ、と思いながら、
「そうだ、呼びに来たんだった。青磁さん、ご飯ができましたよ」
式神は小鳥のように小首を傾げた。
「ご飯、ですか」
にこにこと笑いながら、居間の大きなテーブルに料理を並べてゆくひより。
青磁は自分の前に置かれた皿を見、少し困惑したような表情を浮かべている。
「式神は食事をとらないのですから、別に私の分まで用意しなくてもいいのですよ」
「私の気分みたいなものですから。舐めるくらいでいいので、すみませんがつきあって下さい」
そう言ってひよりは食卓に並んだメニューを紹介する。
「たけのこの土佐煮に、磯辺揚げに、かかまぶしですっ! そしてメインはこちらの、たけのこご飯!」
醤油の少し焦げたような香りと共に、竹の爽やかなにおいが鼻をくすぐる。
青竹をくり抜いた所を器代わりに盛られているのは、きつね色のたけのこご飯。青竹に詰めて直火で炊いたおかげで、竹のえもいわれぬよい香りが漂っている。
大きめに切られたたけのこと、くったりした油揚げとにんじんの取り合わせが、なんとも言えず綺麗だ。
半ば涎を垂らしながら、ひよりが箸を手に取る。
「いただきます!」
まずはたけのこご飯から。大きめに切ったたけのこが、口の中でジャクジャクと爽やかな音を立てる。醤油の焦げた香りと、油揚げのまろやかな味わいがじゅんわりと染みてきて、ひよりは思わず犬のように唸った。
「おい、しい……! ああもうたけのこってどうしてこんなに美味しいんでしょうね? このかかまぶしも、おかかのしょっぱさとたけのこの甘みが絶妙で!」
「はあ」
青磁は主に気圧されるように箸を取り、たけのこを一つ口に入れた。
ひよりはどきどきしながらその表情をうかがうが、白い陶器のようなかんばせには、何の変化もなかった。
式神はただ少し口元を押さえ――ほうっと、ため息をついた。
「お、お口に合わなかったですか?」
「そんなことはありませんよ。この歯ごたえはいい。香りも春らしくて趣があります」
「春といえば、そらまめなんかもいいですよねえ。焼いたやつをあちち、って言いながら剥いてると、生きてて良かったって思いますもん」
その言葉に青磁はふ、と笑う。
「あ、今ちょっと馬鹿にしませんでした?」
「まさか。つくづく七生の子孫だな、と思ったまでです。ところでお前、学問をすると言っていましたが、お前は日中通学で家を空けるということですよね」
「はい。池袋の方に」
「ならばその間、この家の一間を使ってもいいでしょうか」
「もちろん。どうせ余ってますし」
もぎゅもぎゅと土佐煮を頬張りながら、でも、とひよりが尋ねる。
「何をするんですか?」
「縁切り屋を再開します」
「縁切り屋?」
「式神の縁を切る稼業です」
「ええ、これならちょうどいい」
「ちょうどいい、とは」
「このたけのこご飯をもう一度炊きましょう。そしてそれを赤い布で包んで下さい」
背筋を凜と伸ばした青磁は、宣言した。
「これより土地神さまに挨拶に参ります」
はあ、と間の抜けた返事をしたひよりは、土佐煮をごくんと飲み込んで一言。
「食べ終わってからでもいいです?」
*
竹の器に詰めたたけのこご飯を、言われた通りに赤い布で包む。青磁はそれを見ると軽く頷き、勝手知ったる様子で野見山家の門を出た。
風は生ぬるく土のにおいを含み、桜の盛りを予感させる。青磁はすっかり変わった周りの様子に驚いていたが、その足取りに迷いはなかった。
青磁が向かっているのは、ひよりが普段あまり行かない、駅から離れた方角だった。
すたすたと勢いよく進む青磁の足は、洋風の茶色いブーツに包まれている。書生風の出で立ちといい、戦前というよりは明治時代のイメージを彷彿とさせる。
「式神っていうのは、もっと陰陽師みたいな格好をしているものかと思いましたよ」
「主と同じ格好では示しがつかないでしょう。それに、あのなりで外を出歩くと目立つ」
青磁は他の人間にもしっかり見えているようだった。
チワワを散歩させていた妙齢のご婦人が、青磁の整った顔をじっと見つめ、通り過ぎてもなおその後頭部を眺め回していたところを見ると。
それは、青磁の格好が書生風だからという理由だけではないだろう。何しろ彼の顔は恐ろしく整っている。玲瓏なかんばせに流れるような所作、時折憂いを帯びて伏せられる眼差しを、すくいあげてこちらに向かせたいと思う者は多いだろう。
「式神って誰にも見えるんですね」
「私は訓練を積みましたから。低俗の式神には、人語を解さず、ただ疾風のようにしか在ることのできないものもあります」
「疾風……いきものにさえなれないってことですか?」
「ええ。狼だの鳥だのといった形をとれるようになって、ようやくものすごい力を持つようになるのです」
そう言って青磁は急に右に曲がった。そこに曲がり角があるとは思わなかったひよりは、慌てて彼の後ろについて行く。
こんな道あったっけ、と思いながら、白い花の咲き誇っている民家の前を通り過ぎる。
心なしか、空がピンクがかっているように見えて、何度も何度も目をこすった。
やがて唐突に大きな道に出る。その前には都電の線路らしきものがあり、さらにその奥には、石造りの階段があった。並ぶ民家は静まりかえり、鳥の気配さえない。
「こんなところ、あったんですね。っていうか、練馬区に都電なんてありましたっけ?」
「さあ? ここの主の趣味でしょう」
言いながら青磁は石造りの階段をひょいひょいと上ってゆく。結構急な階段で、ひよりはえっちらおっちら青磁のあとをついて行った。
沈丁花の香りがふわりと漂ってくる。胸をかきむしられるような、訳の分からない懐かしさを覚え、ひよりは首をかしげた。
石段を登り切ると、大樹の合間に隠されるようにしてそびえる鳥居がある。やけに大きく見えるその鳥居の端を通ってくぐり抜けると、見たこともない神社にたどり着いた。
喉を通って肺に染み込む、清廉な空気。
「……ここは」
「土地神さまのおわす場所です」
「そうとも。俺の自宅へようこそ」
柔らかな声が後ろから響いてきて、ひよりは文字通り飛び上がった。
「ぴゃあっ」
「また間の抜けた小娘だね。青磁、主は選べよ」
さらりと酷いことを言うその人は、流れるような銀糸の髪を持つ青年だった。真っ白なかんばせに整った目鼻立ち、そうして爛々と赤く輝く異形の瞳。
青磁よりも少し大きいその体躯を、白いスラックスに黒いシャツ、そして長い白衣のような上着に包んだその男は、モデルと言っても通用するような出で立ちだった。
「石蕗《つわぶき》」
「ああ、名前を忘れないでいてくれたのは嬉しいな」
「あなたのような悪辣な土地神を忘れるわけがないでしょう。この強突く張りが」
「君ね、久しぶりの再会を言祝ぐ言葉も持ち合わせていないのかな」
「私の力は全て断ち切ることへ注ぐと決めている。祝祭はあなたの領分でしょう」
「あっはは、俺の力は強いからね。ま、押し問答はここまでにしよう。君の小娘が情報を処理しきれていない」
ひよりは突然現れたイケメンを、ただぼうっと見つめることしかできない。
それに、今青磁はなんと言った? 土地神さま、だって?
「俺は石蕗。この土地を司るもの。神と名はついているが、君たちの言葉で言う精霊のようなものだ。力が強い精霊は、人間にとってはほとんど神のようなものだろうからな」
「精霊……この土地を守っている、とかですか?」
「そうなる。それにしたって青磁の主はどうしてこう皆間の抜けた顔をしているんだ? 目の前でからすに餌を横取りされたアヒルのようじゃないか?」
「はあ、たぶん、血筋ではないかと」
「間が抜けていると言われても怒らない辺り、筋金入りだな。好戦的なのよりはよほどいいが、せいぜい気張れよ小娘。青磁の主は大変だぞ」
「大変なんですか?」
「分不相応な願いを抱いているからね、こいつ」
願い。そう言えば、ひよりの式神をやるのも、叶えたい願いがあるからとか言っていたような気がする。
「その願いってなんですか?」
「叶ったら教えてあげますよ。それより石蕗。また縁切りをやろうかと思うのですが」
「まあそうなるだろうな。お前の持つ、絶ち切りばさみの宿命には抗えまい。いいだろう、周りの連中に伝えておいてやる」
「助かります」
「あ、あの、縁切り屋って具体的には何をするんでしょう。式神の縁を切るって……人間の縁じゃなくって?」
尋ねると青磁がすらすらと答えてくれた。
「式神は使役する人間――陰陽師と契約関係を結びます。それは双方の合意があってなされる契約ですが、稀に双方の意思に食い違いが生じたり、何らかの問題が起こったりして、その契約関係を破棄したいと願う陰陽師や式神がいます」
「技術的に問題が起こる場合もある。へっぽこ陰陽師が、切れない契約関係を結んじまったり、誤って違う奴を式神にしちまったりとかな」
「そういった過ちの尻ぬぐいは御免被りたいところですが……。ともかく、私は縁切りの力を持って、それにあたるのです」
ふんふんと頷くひより。
「じゃあ、人の縁は切らないってことですね」
「そもそも、人間の縁は式神程度には切れないのさ。俺だって切れるかどうか怪しい。もっと高位の神じゃなけりゃだめだろうな」
「どうしてですか?」
「人間の縁は複雑すぎるからだよ。式神と人は双方向の契約関係、いわば一本道だが、人間の縁は蜘蛛の巣のように広がっているからな。どこかを絶てばどこかにほころびが出、その人間の人生を狂わせるかもしれない」
神仏には明るくないひよりだが、縁切り神社に行くときは相応の覚悟を持って臨んだ方がいい、ということくらいは耳にしていた。そういうことなのかと得心する。
「ざっくり言うと、陰陽師と式神の縁を絶ち切ることが、青磁さんの願いを叶えるために必要なことなんですね?」
「はい」
「じゃあ私もそれ、応援します! なんと言っても主ですし! ひいおじいちゃんの知ってる人……式神? なら、きっといい人だと思いますし」
いや人じゃないんだった、とわたわた手を動かすひより。それを見て、石蕗が楽しそうな笑い声を上げた。
「いいじゃないか! 律儀で愚直な主は君の好きな分野だろ」
「冗談じゃない――。好きではありません」
好きではない、と言うわりに、その口元は微かにほころんでいる。それを見逃さなかった石蕗は、にまにまと笑ってひよりの方に手を伸ばす。
「わ」
冷たい指先が触れたのはひよりの首筋。白い肌の上にうっすらと刻まれた、赤い花のような模様を撫でる。
それは青磁が、ひよりを主と決めた印だった。
「椿の花か。確か前の主は桜だったか?」
「そうでしたか。覚えていません」
堅い声の返答。嘘だな、とひよりは思う。きっと彼は覚えている。
そうでなければ、初めて出会ったあのときに、あれほど七生を探そうとするはずがない。あんな、置いて行かれた子どものような顔をするはずがないのだ。
そうか、と言ってほんの少し悲しげに微笑んだ石蕗は、ひよりの頭をぽんぽんと撫でる。
「困ったことがあれば頼るといい。ただし対価は貰うけどね。今日のところは、縁切り屋再開の宣伝料として、その包みの中のものを頂こうか?」
「たいしたものじゃないんです。たけのこご飯なんですけど」
「いや、いいものだよ。しかも青竹の器とは、気が利いている」
ひよりが差し出した赤い包みをふわりと開けた石蕗は、そのままそれを赤い包みもろとも、ぞぶりと腹に押し込んだ。
「えっ」
それは神様の食事作法らしかった。へその辺りから、赤い布をつまみあげ、ひらりと払った石蕗は、満足げな笑みを浮かべている。
「やあ、これはいい。楽しさに溢れている。春の喜びに満ちている。人の営為がふんだんに溢れた、とびきりの対価だな」
そう言って土地神さまは、布をひよりに返すと、はふうと軽い息を吐く。するとその拍子に木々がこずえを揺らし、木蓮の花弁がほとりと地面に落ちた。
ほてほてと進むひよりの歩調に合わせるかたちで、二人は家に戻った。
「青磁さん」
「なにか」
「私、式神とか縁切りとか、全然詳しくないですけど、青磁さんのお願いを叶える応援をしたいっていうのはほんとうですから。だから一緒に、頑張りましょうね」
美しい式神は、へらりと微笑む主の額を、ぴんっと弾いた。
「いだいっ」
「別に、お前が頑張る必要はないのです。私は私の願いを叶えたいだけ。お前に利点はありません」
「でも、青磁さん、願いが叶ったら嬉しいでしょ?」
「当たり前でしょう」
「だったら、それはきっと私にも嬉しいことのはずですから」
「……式神の喜びが、主の喜びだと?」
「えっと、そういうのじゃなくって。同居人が喜んでたら、その嬉しさは伝染するでしょう?」
同居人、とおうむ返しに言う青磁は、まじまじとひよりの顔を見つめる。
「ほんとは、あんな大きな家で一人きりって、ちょっぴりさみしかったと言うか。青磁さんが来てくれて嬉しいんです私。だからよくわかんないですけど、頑張りましょ!」
拳をぐっと握りしめるひより。青磁はしばらくきょとんとしていたが、ややあって口元をほころばせる。
「ええ。頑張りましょう、ひより」
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