彼と彼女




「僕はもう、君を殺さない」


 ある時彼は言った。


「どうして?」


 表情を変えずに、彼女は彼に問いかける。


「僕はもう、君を殺したくない」


 彼の答えを聞いて、彼女は静かに微笑む。彼は今、ようやく自らの呪縛を解いたのだ。手に持っていたナイフが消えて、彼の体に血が通い始めた。生への恐怖と死への恐怖が同時に襲ってきて安堵した彼は、その場に崩れ落ちる。


「なんだ、そうか。こんなに簡単なことだったのか。はは、ははははは……」


 彼は嬉しそうに言って狂ったように笑い始めた。それが嗚咽によって途切れそうになっても、彼女がネジを巻き直すから彼の笑い声はずっと響いていた。

 彼の役目しごとは終わった。ここからはもう、邪魔をする者はだれもいない。


 だから彼女は、彼を刺した。


「……ありがとう」


 泣いている彼女に、彼は精一杯微笑んで感謝を伝えた。

 彼女の手に握られているのは、見覚えのあるナイフ。そのやいばと彼の足元が瞬く間に紅に染まって、それが彼女の足元の大きな水溜まりと溶けていく。


 ほんの少し淡さを取り戻していた水溜まりは、そのうち綺麗なあか一色になった。



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