24-3 舌戦

 拝殿の階段を降りきる。そこからほんの数メートル先に立っていたのは、昊千代だった。



「おまえ」



 途端に低い声を上げる理玖の手を、ぎゅっと握って押し止める。



「昨日の約束通り、迎えに来たのだけれど」



 相変わらず笑みを浮かべながら、昊千代が呟くように言う。理玖のことなどまるで無視し、じっと美邑を見据えたまま。



「どういうことかな。君は確かに、鬼に成ったはずなのだけれど」



 「は?」と頓狂な声を上げる理玖の手を、もう一度強く握りしめる。驚いた顔をする理玖に小さく笑いかけ、美邑は胸を張った。



「あたしは。もう、あなたとは行けない」



 美邑が言いきった途端、昊千代のまとう空気が変わった。



「それは――つまり。何百年も君を待っていた僕を捨てて、今の家族やそいつを取るってことかな」



 理玖が小さく身じろぎしたが、ちらっと美邑を見、口は開かなかった。とにかく、状況が理解できない今、余計なことは言うべきではないと判断したのだろう。代わりに、美邑の手を握る力が強くなる。



「――そう。あたしは、お父さんやお母さん、それにりっくんと、この世界で生きていきたい」



 一言一言はっきりと、美邑は言い放った。それは、美邑にとって決意であり、祈りでもあり――そして、ようやく定まった覚悟だ。



「……だけど、君は普通の人間じゃない。僕の家族だ。鬼の血を引く、化け物だ。だから、これまでも人間の輪に入れなかった。何年も迫害され続けてきた。ずっと独りぼっちだった。違うかい?」



 昊千代の尖った言葉が、美邑の胸をちくりと刺す。だが、手のひらの温もりを確かめ、すっと息を吸う。



「――確かに、あたしには家族とモモ以外、なにもないって、そう思ってた。ずっと怖がられてたし、新しい環境でさえ、本当の友達を作れずにいた」



 それが、自分のせいだけだとは思わない。美邑を「化け物」と呼び、必要以上に忌避し続けていた同級生たちとは、やはり仲良くなれるとは思えない。


 だが、それでも。一歩進むのだと、扉を開けるのだと、そう決めたのだ。モモのために――なにより、自分のために。



「あたしは変わるの。少なくとも、自分を好きな自分に変わるんだって、そう決めたの。他人の顔色うかがって、へらへらしてその場をしのぐことを、止めにするの。胸を張って、そしたら――もしかしたら。そんな私と仲良くしてくれる人が、増えるかもしれない」



 後半は、自然と理玖を見ながら言っていた。理玖の頬が赤くなり、そっぽを向く。それにくすりと笑うと、昊千代が「なんだよ、それ」と低く呟いた。



「結局、君は僕の気持ちなんか考えずに、そうやって自己中心的に生きていくつもりなんだ」


「そう。自己中心的に生きるの。あたしは」



 繰り返すように答え、ふと笑う。「ミクちゃん中心主義なだけ」――そう言っていた、モモの笑顔を思い出して。



「……そんなの、美邑らしくない」



 昊千代の顔に、笑みはもうなかった。苛立たしげに眉を寄せ、両手をぐっと握りしめている。



「離れてはいても、僕はずっと美邑を見てきた。一緒に暮らせるのを、楽しみに待っていたんだ。半分幻みたいな存在にすがりでもしないと、孤独で仕方がない君を、僕だけが分かってあげられるから――」


「……そうかもね」



 昊千代の言葉を、美邑は素直に受け入れた。



「あたし……昔のできごとをたくさん見てきて、その中でちょっとずつ、思い出してきたこともあるの。昊千代さんは永い時間、寂しくて寂しくて、それであたしを呼んだんだよね」



 人間の思惑のために、幼くして家族全員を奪われ、永い年月を過ごしてきた昊千代。あの、襲撃の日の光景を思えば――傍観者だった美邑でさえ、胸が痛くなる。



「昊千代さんは、今度こそ家族をなくしたくなかったんだよね? だから、あたしを呼んで――それだけじゃ足りなくて、あの実を食べさせた。でしょ?」



 昊千代の眉が、ぴくりと上がる。


 そう。美邑を過去に呼んだのは昊千代なら、カガチの実を食べさせたのもまた、昊千代だった。



「ずっと待ってたんだもんね――九百年。そんなの、今度は絶対、なくしたくないもんね」



 美邑の言葉に、昊千代はぐっと口を引き結び。そうして発した言葉は、ひどく淡々としていた。



「すごいね、美邑は。あんなに全部忘れてたくせに、急にそんなに思い出しちゃって。おまけに、そんなに僕のこと理解してくれちゃってる」



 話すほどに、昊千代の口調は早くなっていく。淡々としたまま――だからこそ、美邑にはそれが、悲鳴のように聞こえた。



「僕はね、美邑。生まれてすぐに、父様も母様も妹も失って、生まれた世界すら捨てさせられて。周りの鬼たちからは、やれ父様は素晴らしかっただの、母様のせいで全て狂っただの聞かされて、独りぼっちで九百年、生きてきた」



 そう、じっと、暗い目で美邑を見つめる。



「――君だけが、九百年間のなかで、唯一の希望だったんだ」



 その目を、じっと見返し。美邑は小さく笑った。



「うん、知ってる」


「おい、川渡……」



 途端、手をぐっと強く握る理玖に、少し驚きつつ――「大丈夫」と笑いかける。



「……昊千代さん。あなたが、私の寂しさを理解したくれていたように。あたしも、あなたの寂しさは分かるよ。

 でも、それでも。

 やっぱりあたしは、あなたと行けない。……酷いよね。だけど――ごめんなさい」



 声が、少し震える。

 ぽつんと一人たたずみ、美邑の言葉を聞く昊千代を見ると、思わず足が一歩前へ出そうになるが。それも、なんとか踏み止まり。



「ずっと一緒って、約束したのにね。ごめんね……」



 笑顔は崩さない。崩してはいけない。泣くなんてもってのほかだ。だって――美邑は、自分自身とこの世界を選んだのだ。孤独ですがってきた昊千代を切り捨てるのだ。その美邑が、泣いて良いはずがない。



 黙って聞いていた昊千代が、目をぎゅっとつむる。そのまま数秒待ち――次いでかっと見開いた瞳孔は縦に長く、まるで蛇を思わせた。



「――君がそんなことを言うのは、その男のせいかな」



 それは静かな声だったが、その目の宿す光の剣呑さに、美邑は慌てて「違うっ」と首を振った。



「りっくんのせいとか、そんなんじゃなくて! あたしが、自分で決めただけ」


「自分で決めた? 古くからの家族である僕を捨てて、僕や――君の先祖を追いやった奴の末裔と共にいることを?」



 昊千代の言葉に、理玖が訝しげに自分自身を指差す。「やめて!」と美邑は怒鳴った。



「りっくんは関係ない! そんな、大昔の関係――」


「大昔の関係? ああ、だから美邑は僕を捨てるんだ。美邑が僕の家族だって言っても、所詮大昔の――他人事でしかないから」


「違うそうじゃないっ!」



 反論しながらも、心のどこかで揺れ動く。そうなのかもしれない――あんな悲しい場を見てもなお、自分は……。



「――あのさぁ」



 不意に、手を引かれ。美邑の身体は一歩、理玖に寄り添った。見上げると、理玖はしかめ面で、じっと昊千代を睨んでいた。



「俺にはなにがなにやら、さっぱりだけどさ。あんたはフラれたんだから、余計なことぐちゃぐちゃ言ってねぇで、すぱっと諦めろよ。かっこわりぃなぁ」


「り、りっくん……」



 思わず、美邑は口をぱくぱくさせた。昊千代はますます目をぎらつかせ、口の端だけ引きつらせるように笑っている。



「黙れ鏡戸の子。僕はおまえのことだって見てきた。おまえは、愚かな人間たちと共に、美邑を疎外し続けていただろうに。

 やはり、あの汚い男の血筋だ。都合よく正義を振りかざし、己の恥部に目を塞ぎ、美邑を惑わせる――」


「うるせえっつってんだろ!?」



 弾劾する昊千代の言葉を遮り、理玖が怒鳴った。美邑の手を握る力が、痛い程に強くなる。



「あんたが誰のことを言ってんのか分かんねぇけど、俺は俺だ! 他のヤツなんて関係ないっ。

 確かに……俺は、こいつにムカムカしてたさ! 一番大事なときに手を繋ぎ損ねて、そのせいでたくさん嫌な思いさせて……なのに、こいつはずっと一人でへらへらしてさ。俺になにも言わねぇどころか、頼ろうともしねぇ!」


「りっくん……」



 なにか言わなければ。美邑が口を開きかけるが、しかし理玖は美邑を自分の背中にぐいっと引き、昊千代から隠すようにした。



「頼られなくても、ムカついても、俺だってこいつをずっと見てきた! いつかまた、神隠しにあったときみたいに、変なヤツに声かけられんじゃねぇかって……あんときのヤツの仲間がきて、また悪さされんじゃねぇかって。そしたら、頼られなくたって今度こそ守ってやんなきゃって……!」



 その言葉を聞き、美邑はハッとした。



――仲間なんじゃねぇの?



 あのとき聞いた言葉は。本当は。



「それがようやく、頼ってもらえたんだ。相談されて。手まで繋げって言われて――だったら、俺はとにかくもう手を離させるわけにはいかねぇんだよ!」



 そこまで怒鳴りきり。理玖は少し息を整えると、「つまりさ」と、やや落ち着いた声で、だがはっきりと告げた。



「あんたに、こいつは連れていかせねぇ」

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