24-4 世界

「り……っくん」



 ぽかんと、美邑はその背中を見上げた。


 本当に、自分はバカだ。そんなふうに、理玖が長い間考えていてくれたなんて。そんな大切なことに気がつけないでいたなんて。


 そんな美邑の感傷を遮ったのは、昊千代だった。



「……うるさいよ、おまえ」



 ぽつりと呟かれた言葉は静かだった。その表情も。だが、その静けさに美邑の背筋は冷たいものを覚えた。



「なにも知らないくせに。ほんと――目障りだ」



 昊千代のが、ぞわりと動く。その光景に、美邑の頭に過去の出来事が過る。



「だめ――ッ」



 助けないと。


 幸い、身体は自然と動いていた。

 立ち尽くす理玖の身体を突き飛ばす。入れ替わるように立ったその場所で、迫る影と、そこから現れた太い蛇の尾がしなるのを見て――あぁ、と思う。



(きっと、トモエさんもあのとき、こんな気持ちだったんだな)



 きっと、あの尾に打たれたら、美邑なんてひとたまりもない。


 不思議と、世界はゆっくり動いて見えた。ほんの数歩先でよろけている理玖は、目を大きく開いて美邑を見ている。さすがに離れてしまった手は、それでも美邑の方にのばされていて――それだけで、美邑の口は笑みを象った。



 心配なのは昊千代だ。美邑を自分が死なせてしまったと思ったら、どう感じるだろうか。唯一の肉親だと、そう思っている美邑が――。



 覚悟した衝撃は、しかしいつまでも美邑を襲ってこなかった。代わりに、激しい破裂音がその場に鳴り響く。



「え……?」



 おそるおそるそちらを見ると、昊千代の影から出た尾を、受け止める背中があった。朱色の着物に、銀色の髪。



「朱金丸さん……?」



 振り返ったその顔は、蛇鬼――初代朱金丸のものだった。彼は美邑を一瞥すると、呆然としている昊千代に視線を向け。そのまま、すっと姿を消した。「え? え?」と、理玖の間の抜けた声だけが聞こえる。



「なん……で」



 やがて絞り出すように、昊千代が唸り出した。拳を握り締め、これまでで一番、感情をむき出しにした顔で。



「これまで、僕がどんなに呼んだって――僕の前には現れもしてくれなかったくせにっ! どうしてっ! こういうときにだけっ!」


「落ち着け。昊千代」



 不意に聞こえた声に、理玖が「今度はなんだ」とげんなり呟く。


 昊千代の後ろから現れたのは、二代目と呼ばれる方の朱金丸だった。いつも通りの静かな顔をして、こちらに向かって歩いてくる。



「なんだよ」



 ぎりっと歯を食いしばるようにして、昊千代は朱金丸を睨みつけた。



「今更来て、役立たずが。父上の紛い物のおまえに、少しでも価値をやろうと使った僕が、間違いだった。おまえがさっさと美邑を連れてくれば――」


「貴様が言う通り、今更のことだ。美邑はもはや、人間だ。連れてなどいけない」



 淡々と話す朱金丸を、「うるさいっ」と昊千代が怒鳴る。



「うるさいうるさいうるさいっ! もう一回、おまえの実を食べさせればいいじゃないかっ! そうすれば、美邑はまた鬼になって、僕のところに――」


「……そんなふうに、あたしを連れてって。昊千代さんは、本当に満足なの?」



 ふと、心に浮かんだ言葉を。美邑はそのまま呟いた。途端、昊千代が鋭い目を向けてくるが、もう不思議と怖いとは思わなかった。



「無理矢理あたしを連れてって、そばにいさせて……それって、余計に寂しくない?」


「だったら美邑が進んでついてきてくれればいい。昨日言ったよね、こっちの世界を選ぶなら、今の家族を始末してあげるって――あぁ、ついでにその男もさ。そしたら、美邑もこっちに未練なんてなくなって、僕と」


「昊千代さんはそんなことしない」



 何故だか頭は冷静だった。きっぱりと言いきる美邑を、昊千代は「はぁ?」と笑う。



「なにを馬鹿な」


「昊千代さんは、そんな冷たい鬼じゃない。寂しいって気持ちを知ってるから。家族を失うのがどれだけ辛いことか知っていて――誰よりも、家族っていう存在を大事に想っているから。そんな昊千代さんに、他人から家族を奪うことなんてできない」



 言いながら、確信は後からついてきた。そうだ、美邑は知っている。昊千代が家族をなくしたことで、どれだけ傷ついているかを。



「あたし、信じてる――昊千代さんのこと。だから」


「……っもういい!」



 昊千代が怒鳴り――今度は、泣きそうな声で繰り返す。



「もう……いい……」


「昊千代」



 差し伸べられた朱金丸の手を、「止めろっ」と昊千代が振り払う。



「僕に触るなっ! 紛い物のくせにッ」


「でも……ほんとは、嫌いなんかじゃないんでしょ? 朱金丸さんのこと……」



 自然と口から出た言葉を美邑が飲み込む前に、昊千代と朱金丸が、驚いた顔で振り返ってくる。

 それに、美邑は少し驚きつつ、「だって」と続けた。



「本当に嫌いだったら……みんなが『二代目』だなんて呼ぶなかで、ちゃんと名前で呼ぶわけないじゃない……しかも、大事なお父さんと、同じ名前で」


「そんなの。僕は」


「あのね、トモエさんが言ってたよ。朱金丸さんのこと……三番目の子供だって。だったら――昊千代さん、独りぼっちなんかじゃ、なかったんだよ」



 美邑の言葉に、今度こそ昊千代と朱金丸は固まった。ややして、小さな声で「奥方が……」と朱金丸が呟くのが聞こえてくる。



「トモエさんだけじゃないよ。先代の朱金丸さんだって――きっと朱金丸さんのこと、ほんとは大事なんだよ。他にどうしようもないから、罪がどうとか言ってるだけで」


「美邑は、想像力がたくましいね」



 皮肉げに、昊千代が笑う。



「なにも知らないで、よくそんなこと」


「単なる想像なんかじゃない!」



 できる限りの力を込めて、美邑は言いきった。訝しげな昊千代と、困惑気味の朱金丸とを、交互にじっと見遣る。



「あたしは、トモエさんに全部見せてもらった。だから分かる。初代の朱金丸さんは、そんな冷たいだけの鬼なんかじゃない。あんなに愛情深いんだもん――自分と、大切なトモエさんとが眠る場所に生まれた朱金丸さんを、蔑ろになんてできっこない」



 そうだ。きっとトモエは、美邑のためだけじゃなく――彼らに本当のことを伝えてほしくて、力を振り絞って美邑に全てを見せてくれたのだ。



――幸せであってもらわないと困るの。



 そう言った、トモエの笑顔を思い出す。



「朱金丸さんの、その刺青だって。ほんとに罪の証だって言うなら、そんな綺麗なものにする必要ないじゃない」



 美邑の言葉に、朱金丸が自分の顔に刻まれた紋様を指でなぞる。その顔は、わずかに眉を寄せ、なにかを考えるように口を引き結んでいる。


 美邑はその姿を確認すると、今度は昊千代に向き直った。



「それに、昊千代さん。初代の朱金丸さんはさっき、あなたのことを守るために出てきてくれたんだよ? もし、あたしを殺しちゃったら、あなたが辛い思いをするから。だから、そうならないために――」


「っるさいうるさいうるさいうるさいッ!!」



 堪りかねた昊千代が、いやいやをしながら大声で怒鳴る。ぎっ、と鋭い視線で美邑を睨みつけ。



「さっきから、馬鹿げた解釈で勝手なことばかり言って。もういいっ! 君なんてもう知らないッ、必要ない! せいぜい好きに生きれば良いっ」


「昊千代さん、違うの――ほんとうに」



 どうして伝わらないのだろう。美邑の言葉は、昊千代に届かない。せっかく、永い年月を経てトモエから託されたのに、これっぽっちも伝わらない。


 歯噛みする美邑の手が、再び温もりに包まれる。見れば理玖が、隣に立っていた。



「りっくん……」



 理玖はなにも言わなかった。この状況を、どう思っているのかも分からない。ただ、側にはいてくれる。手を握っていてくれる。


 それで――充分だ。美邑は昊千代に、再度向き直った。



「昊千代さん。あたしね、昊千代さんも知ってる通り、ずっと寂しかった。家族とモモはいたけれど、すっごい狭い世界でしか、あたしの居場所なんてないんだって、そう思っていた」



 「でも違った」と、理玖の手を強く握る。



「確かに、あたしを受け入れてくれない人達もいる。でもそんなのは、あたしが独りぼっちでいなきゃいけないことの理由にならない」


「なにそれ? 僕と君とじゃ、独りの意味が違う。重みも、なにもかも」



 昊千代の嘲りにも、美邑は「そんなことない」と顔を上げ続けた。



「確かに、あたしにはそれでも、家族とモモがいた。だから、あなたの寂しさとは比較できないかもしれない。でも――同じことだってある」



 言って――美邑は、理玖を見上げた。少しきょとんとした顔になる彼に微笑み。



「あたしも、昊千代さんも。自分を独りなんだって、思い込み過ぎてた。周りだけ見て、自分はもうずっと独りなんだって。昊千代さんだって、家族をなくして――だから、遠い血筋のあたししかもういないって、そう思い込んでた。

 でも、ほんとはそんなことない」



 それは、美邑にとって、これまでの自分とも決着をつけるための言葉だった。だから、心の芯に刻み込むように、ゆっくりと紡いでいく。



「ほんのちょっと、今まで見ていたところから、視線をずらすだけで良いんだ。そしたら、自分が気づけなかったことにも気づける。気づかなかっただけで――見ていてくれる人がいたんだってことに」



 それは、美邑にとって理玖で。



「昊千代さんには、朱金丸さんがいるじゃない。あなたのために、こんなことにまで付き合ってくれる、もう一人の兄弟じゃない」


「僕は――っ」


「それにっ! あたしたちの世界って、ほんとはそんな狭いはずない。りっくんや朱金丸さんだけじゃない。あたしたちの周りにはもっとたくさんの人達がいて、たくさんの世界があって。その中にはまだ、気づいてなかったり出会ってなかったりするだけで、別の居場所もあるはずなんだ!」


「でも僕は、人間のせいで『裏側』に――」



 「そんなの」と、美邑は空いた腕を振り払うようにした。



「ずっと昔の、古いしきたりに縛られて。そんなのもったいないじゃない! 今、昊千代さんは自由なんだよ? 今だったら、この世界のどこだって行ける! あたしだって――」



 オレンジ色の空を見上げる。その空の下に続く地上を想う。この世界には、ここと同じくオレンジ色に染まる場所があれば、まだ青空の場所もある。月に照らされ眠る場所も、これから白く朝日の昇る場所も。



「新しい場所に飛び込まなきゃいけないのは、怖いよ。だって、なにがあるか分からない。伸ばそうとした手だって、無視されるかもしれない。また振り払われるかもしれない。でもさ――繋いでくれる人が一人でも、いるかもしれないじゃない」



 美邑の言葉を、昊千代は苦々しげに聞いていた。



「なんだよ……」



 握った拳から、血がじわりとにじんでいる。



「なんだよなんだよ偉そうに!」


「仕方ないじゃないっ! 偉そうだってなんだって、言わなきゃ伝えられないんだもんっ! あたしも昊千代さんも、トモエさんと初代の朱金丸さんのおかげで、今ここにいるんだよ!? だったら――あたしも昊千代さんも、笑顔でいなきゃ……きっと、それがあの人たちにとっても、嬉しいことだって思うからッ」



 涙は出なかった。ただ、伝われ伝われと、必死に祈る。昊千代に伝えること――それは、美邑がトモエにできる、唯一の恩返しだと思うから。



「……母上と、父上の……」



 昊千代が、ぽつりと呟くのが聞こえた。うつむき、その顔は見えない。

 思わず駆け寄ろうとするが、それはまた、理玖に繋がれた手によって止められた。代わりに――昊千代の背をそっと支えたのは、朱金丸だった。


 昊千代は黙っている。だが、朱金丸がそっと背を押すと、静かにそれに従った。


 拝殿へと向かう二人の背中を見つめ――それから理玖を見上げると、優しい目が美邑を見下ろしていた。



「――頑張ったな」



 「よく分かんねぇけどさ」と、笑う理玖に、美邑は素直に「うん」と頷いた。



「でも……もっと頑張んなきゃ」



 独り言のように呟くと、また、繋がれた手の力が強くなった。その強さに励まされ。美邑は笑って、また空を見上げた。

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