第十八章 優しい夢と閉じた現

18-1 夢

 夢を見ていた。


 美邑はまだ幼く、小高い丘の上に一人ちょこんと座っていた。



「――誰だ」



 急に後ろから声をかけられ、びくりと震えながら振り返る。その顔には、大量の涙が流れていた。


 声の主は、驚いたように「なんだ」とうめいた。



「人間の童が、どうしてこんなところに」



 よく分からないが、自分のことを言っているのだろうと、美邑は見当づけた。だが、それは美邑の方が訊きたい問題だった。


 今日は神社へ遊びに来て、ついさっきまで友達と一緒にいたはずであった。それがいつの間にか眠ってしまっていて――起きたときには、独りぼっちだった。



「あたし……帰りたいよぉ」



 ぐずぐずと口にすると、その人は「参ったな」とぼやきながら近づいてきた。銀色の髪に、紅い瞳。そして、緋色の着物。髪の色と格好から年寄りかと判断しかけたが、それにしては祖父母のようなシワがないことに、美邑は首を傾げた。



「おじちゃん、ダレ?」



 若者と年寄りの間をとって呼んでみたが、特に反論もなく「ここの者だ」と答えが返ってきた。



「おまえは?」


「あのね、美邑ね。気づいたらここで寝てた」



 「美邑か」と、その人は小さく繰り返した。



「美邑。取り敢えず、降りろ。そこの上にいてはいけない」


「なんで?」



 訊き返しながらも、美邑は手の甲で涙を拭いつつ、ゆっくりと丘から降りた。目が腫れぼったく、じりじりと痛む。



「……ここは、貴なる方の眠る場所だからだ」


「寝る場所……ベッドなの? お布団?」



 首を傾げる美邑に、彼は苦笑のような表情を浮かべながらも「そうだな」と頷いた。鼻をすすりながら、「ふぅん」と美邑が声を上げる。



「じゃあ、あてなる、っていうのは、どういう意味?」


「そう……だな。簡単に言えば、偉いヒトという意味だ」



 子供の質問に、律儀に答える彼に、美邑は「そっかぁ」と手を叩いた。



「じゃあ、お母さんみたいな人のことだね」


「母親?」



 今度は不思議そうに眉を上げる相手に対し、「おじさん、知らないの?」と美邑はちょっと得意になった。



「お母さんはねぇ、一人でみんなのごはん作ってね。偉いんだよ」



 そう言って、美邑が胸を張ると、彼は「そうか」と小さく笑ってみせた。ちらりと、視線を丘へと向ける。



「確かに……似たようなものかもな」



 美邑も、首を傾げながら丘を見、次いで彼の顔を見上げた。短い指をその顔に向けながら、「ねぇ」と声をかける。



「うん?」


「その模様、なぁに? 葉っぱみたい」



 美邑が指したのは、目から顎にかけて精緻に彫られた、刺青だった。「葉っぱ」と言ったのは、模様が蔦かなにかに見えたからだった。


 彼はそっと自分の頬に触れると、もう一度、丘を見上げた。



「……これは、罪の証だ」


「つみ?」


「罪とは、背負わなければならない悪いことだ」



 美邑はまた首を傾げた。じっと彼を見つめ、むぅと眉を寄せる。



「変なの。そんな、キレイなのにねぇ」


「綺麗……か?」



 呆気に取られる彼に、美邑は思いきり「うんっ」と頷いてみせた。手を大きく伸ばし、刺青に思いきり触る。



「なんかね、なんかね。顔にお花が咲いてるみたいで、キレイよ」



 子供ならではの無遠慮な触れ方ではあったが、彼は嫌がりもせず、ただされるがままになって美邑をじっと見ていた。

 だが、美邑はまた首を傾げると、今度は更に額へと手を伸ばした。届きはしなかったが、じろじろと見る目は止めない。



「ねぇ、こっちは?」


「これは……角だ」



 額から突き出たそれを、美邑はまじまじと見つめながら「ふぅん」と頷いた。



「一本だけ。ユニコーンみたい」


「ゆにこん?」



 これには、彼も不思議そうに首を傾げた。反対に、美邑は「うんっ」と大きく頷く。



「おじちゃん、なんにも知らないねぇ。ユニコーンはね、心がキレイな女の子が好きで、助けてくれるんだよ」


「ほう? 心が綺麗な女子おなごをか」



 にやりと笑う彼に、美邑は「うんっ」と大きく頷いた。



「ユニコーンはね、ほんとの姿はお馬さんで、おでこから長い角が一本生えててね」


「――俺は馬ではないが、お前のことは、ちゃんと帰れるようにしてやる」



 それを聞いた途端。美邑の目に、みるみる涙がたまっていった。



「おい、どうした?」


「……おうち、帰りたい……ッ」



 ぐずぐずとまた泣き出す美邑に、彼は頭を掻きながら一つ息をついた。右手で、くしゃりと美邑の頭を撫でる。

 それから腰を落とし、正面から美邑の顔を覗き込んできた。紅い真っ直ぐな目に射られ、美邑はしゃくりあげながらもきょとんとそれを見返した。



「いいか。ここは、お前の家があるのとは別の世界だ」


「別の……世界?」



 美邑が、ちょこんと首を傾げる。



「ユニコーンがいる世界?」


「だから馬ではないが……まぁ、そんなものだ。まとにかく、おまえを帰すには、元の世界へ戻さねばならない」



 「分かるか?」と問われ、美邑は「うーん」と曖昧な声を出した。



「……まぁ、良い。表の世界から迷い込んで来た奴自体は、今までもいる」



 「だから、戻るにもそんなに心配はいらない」と。そう、その人が美邑の頭をもう二、三度と軽く撫でたときだった。



「それはあたわぬ」


「――は?」



 突然の言葉に、彼の顔がきょとりとしたものになる。発言は――幼い美邑がしたものだった。

 美邑はとろりとした顔で、ただじっと上目遣いに彼を見ていた。



「美邑……?」


「こやつは、最早人間に非ず」



 表情を変えないまま、口だけが淡々と動く。その異様さに、彼のこめかみがぴくりと震えた。



「――初代」


「こやつは、既に実を食ろうた。我等が墓所の実を。貴様なら、分かるであろう。実は最早、こやつの身体に溶け込んだ」



 言われて、彼は丘の上を見た。蛇鬼と彼の妻であるトモエが眠るその場所に生える、植物。それを確認して焦った顔になるのを、美邑は遠い遠い意識の中で見ていた。



「いつの間に――」


「こやつが人ならざるモノに成るのは、必定。表に帰すことなどできぬ」



 「諦めよ」と、意思に反して自分の口が動くのを、美邑はわけも分からずに、押し込められた意識の中だけで首を傾げた。



「だが、初代よ。彼女はまだ幼い。幼すぎる。己がしたことも分かっておらん」


「それがどうした」



 変わらぬ無表情のまま、声だけが少し高くなる。



「貴様は分からぬか。こやつは、おれの子孫よ。元より、鬼の血を引く者だ」


「だが、まだ人間だ。人間の血も引いている」



 きっぱりと、彼はそう言いきった。



「実を食べても、完全に鬼に変ずるまでは何年かかかる。そうなってからでも遅くはない」


「寝惚けたことを。たかが数年、瞬き程の時間ではないか」


「眠りすぎて寝惚けているのは、初代だ」



 そう、彼は美邑ではなく丘をじっと見つめる。美邑を正面から見つめたときと同じ、真っ直ぐな目で。



「我等にとって瞬き程の時間が、人間にとってどれ程意義の深いものか――知らぬ貴方ではないだろう」



 ずきりと。胸の奥が、不意に痛む。だが美邑の顔は、かえってにやりとした笑みを浮かべた。



「痴れ者が。貴様になにが分かる」


「分かる。俺は――貴方だから」



 「ふん」と、美邑の鼻が鳴るような音を立て――次の瞬間、身体ががくりと傾いだ。同時に、意識がすぅと表へ戻ってくる。


 なにが起きているのか、美邑にはよく分からなかった。だが、傾ぐ美邑の身体を支えてくれた彼の顔は、優しかった。



「大丈夫だ」



 冷たい手が、そっと額を撫でてくる。



「家族の元へ帰れ」



 手はそっと降りてきて、美邑の目を覆った。ひんやりとした心地の良い暗闇が、聞こえてくる声を子守唄に変える。



「その時が来たら、迎えに行くから」



 だから安心しろと、声は言う。どこか優しい響きで。



「必ず行くから、待っていろ」



 独りになんて、しないから。



 そう言われている気がして、美邑は笑って、闇に身を委ねた。


 ――これは夢だ。


 幼い自分を離れた場所で俯瞰しながら、美邑は自分に言い聞かせた。


 これは夢。現実にあったことかなんて、分かりはしない。

 それなのに、泣けてきてしまうのは何故なのか。

 ユニコーンなんてもう信じられない美邑には、分からなかった。

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