18-2 最後の一押し
目を開けると、見慣れた自分の部屋だった。美邑はほうと息を吐き、そっと手を見た。記憶よりも大きくも小さくもない、そのことにほっとする。
夢を見た。
カガチの実を食べたと言うのは、以前に朱金丸から聞いたことだ。だから、美邑は鬼に成るのだと。
(それに、影響されたのかな……)
ベッドの中で伸びをし、ゆっくりと身体を起こす。
ベッドに寝かせてくれたのは、両親だろう。明日、美邑を病院に連れていくと言っていたか――無理もない。
(見えない友達の話を……ずっと、何年も何年も、してきたんだもんね)
それどころか、目の前で紹介したことさえある。むしろ、両親は長く様子をみてくれた方だろう。
優しい両親だと思う。美邑を、時に腫れ物のように扱うこともあったが、それだって仕方がないことだ。
(問題は……あたしだ)
モモは、本当に心の中だけの存在なのだろうか? だとしたら――鬼云々の話も、美邑が心の中だけで作り上げた話なのだろうか?
一度、そう疑ったこともあった。全ては夢だったのではないかと。だが、そう思い込む方が不自然な気がしたし――朱金丸や昊千代と再び会い、やはり事実だったのだと理解した、つもりだった。
だが、十年近く一緒にいたモモが、幻だったのだ。こうなると、朱金丸や昊千代が妄想の産物でないと、どうして言いきれるだろうか?
(自分で自分を信じるって……難しい)
明日、病院に行き。そうすれば、帰りには少し自分を信じてあげられるようになるだろうか。それとも、全ては妄想の産物だったのだと、悟るのだろうか。
「……妄想……か」
もしそうならば、美邑が人間でなくなることも、鬼が家族に危害を加える心配もない。
ただ――モモは? モモが本当に妄想だけの存在だとしたら。鬼に成ることが事実であろうと妄想であろうと、美邑の居場所なんてないも同然だ。家族以外に、拠り所がない。
(モモ……)
考えるだけで、苦しくて吐きそうになる。
こんなに苦しいとき、思えばいつもモモがそばにいてくれた。それがどんなに不自然であっても、美邑は疑問すら抱かず、モモにすがっていた。
「モモ……来てよ。モモと、話したいよ」
そう言えば、モモの電話番号も、メールアドレスも、家も、なにも知らない。知ろうと思ったこともなかった。笑ってしまうくらい、それが当たり前だった。
(クラスだって知らないし。ほんと、なんであたし、そんなことにも気づかなかったんだろう)
だが、困ることもなかった。モモは、望めばいつだって、そばにいてくれたから。なのに、今はどんなに望んだって、会えそうにない。
「モモ、会いたいよぉ……」
会って、話がしたい。本当のことを聞きたい。だがそれ以上に、ただただくだらないおしゃべりがしたい。
皮肉なことに、胸の痛みはあっても、頭痛は不思議なくらいに収まっていた。
(前は……確か、頭痛の後に角が生えてきたんだっけ)
そんなことを思いながら頭に手を伸ばしかけ、しかし寸で思い止まる。それよりも、鏡で確認した方が良いだろう。なにも見えないままに触れるのは、結構な勇気が必要だ。
階段を降りると、一階は真っ暗だった。どうやら、もう夜中らしい。きっと、両親も眠っていることだろう。
洗面台まで来ると、つい習慣で手が動くままに、電気を点けてしまった。狭い部屋がパッと明るくなる。心の準備などできる前に、鏡に姿が映し出された。
「ぁ……」
それは、果たして自分自身なのか――美邑には、自信がなかった。
白い髪に、長く伸びた角。右目は真っ赤に染まっている。
だか、確かに顔は見覚えがある。
「あた……し?」
紅く成り損なっている左目が、不思議そうに鏡越しに見つめてくる。そこだけ、確かに美邑ではあったが、そんなことに意味があるのか分からない。
「……ゆ、め?」
そう、これも夢の続きなのだろうか。震える指先で、髪に触れる。光の加減で、白銀にも輝いて見える。意外に、髪質は変わらない。鏡の人物の口元が、笑みの形へと歪む。
「うそ、だ……」
まさか、眠っている間にこんなに変化が起きているとは。開いた口に、八重歯よりも幾分長い牙まで見える。頬を触ると、爪が常より尖って顔を押した。
(嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
頬に爪を立てると、ぷつりと表面が切れて血が流れる。赤く流れるその色に、少しだけ安心した。身体の中を流れる血は、人間と同じ色なのだと。
本当の鬼に、成りきってしまったのだろうか。鏡に映る美邑は、しかしいつもの美邑とは明らかに別の生き物で、にやりとこちらを見ているような気にさえなる。
(妄想……こんなの、妄想に決まってる)
こんなことが、現実に起こって良いわけがない。神隠しも鬼たちも、美邑が人間でなくなることも、それで足りないのなら――美邑を現実に戻してもらえないと言うのなら、そう、モモだって。
「モモ、も……妄想だって、認めるから……だから……こんなの、やめてよぉ……ッ」
そう、呟いた途端。
鏡に映る美邑の顔が、モモに変わった。力なく微笑んで、こちらを見つめている。
「モモ……っ」
『ミクちゃん』
モモが、鏡の向こうから手を伸ばしてくる。いや、美邑が手を伸ばしたのが先だったのだろうか。鏡面越しに手のひらを重ね、美邑は「モモ」ともう一度その名を呼んだ。
「モモ、あたし。あたし、どうしたら」
『ごめんね、ミクちゃん』
そう、美邑を遮るように呟かれたモモの声は。美邑の声よりも何故だかずっと、哀しげだった。
『わたし、もう、ミクちゃんの声が聴こえない。護ってあげられない』
「え……?」
ぐにゃりと、鏡面が歪む。同時に、左目奥に、激痛が走った。
「ぁああああッ!?」
手で目を押さえると、爪が更に鋭くなり、付近の皮膚を抉った。だがそれよりも、目の痛みの方が張るかに強い。
歪んだのは、鏡面だけではなかった。視界に入るもの全てが、ぐにゃりぐにゃりと歪み、真っ直ぐに立っていられない。
床に倒れ込みながら、美邑は悲鳴を上げ続けた。
「助けてッ! やだっ、痛い、痛いよぉっ」
こんなに叫んでいるのに、両親すらやって来ない。
ひどく長い時間、そうして床をのたうち回っているような気がした。
痛みがようやく薄らぎ、息を弾ませながら床で倒れていると、廊下で足音がした。
「やだ。電気点けっぱなし」
母親の声だ。
美邑は近づいてくる足音に、泣き声を漏らしながら立ち上がろうとした。床に震える手をつき、上半身を持ち上げる。
(お母さん……)
母親の声が、何故だか無性に懐かしく感じられた。だが、こんな姿を見て――果たして、美邑だと分かってもらえるだろうか。
(誰? とか、言われたら……やだなぁ……)
それでも、今は母親にすがりつきたかった。
入り口に、見慣れた顔がひょこりと現れる。美邑は涙を袖で拭い、声を上げた。
「お母さん」
「――やだもう」
母親の眉が、きゅっとひそめられる。
「ただでさえ夏は、光熱費上がるのに。こんな点けっぱなしにするなんて」
「駄目ねぇ」と呟きながら、パチリとスイッチを切る母親に「お母さん」と美邑はもう一度声をかけた。だが、振り返りもせずに、足音は去っていく。
「お母さん……あたしのこと、見えて……ない?」
見えていないどころか、声も聞こえていないようだった。
(なんで……)
半ばパニックになりながら、美邑は暗くなった部屋の中で、鏡を目にし――愕然とする。
「う……そ」
目の前の鏡には、美邑の姿はなく、背後の暗い廊下が映るばかりで。見開いた左目は痛みの残滓で、紅く変化を遂げたことを、慎ましく知らせてきた。
(物の怪に成れば、人間の側になど、居場所がなくなる)
朱金丸が言っていた言葉。それが、耳の奥で蘇る。
「居場所がなくなる……って。こういう、こと?」
人の目に見えず、鏡にすら映らず。
居場所がなくなるというのは、抽象的な表現でもなんでもなく。この世界から閉め出されることなのだと、美邑は茫然と理解した。
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