16-2 永い時間

「来ないで……」



 絞り出すように、ようやく出た言葉はそれだった。


 ナラズを爆散させた昊千代は、まるで別人のような穏やかさで、美邑に手を差し伸べてくる。それを払いのけることもできず、美邑はただ震える声で続けた。



「あなたが……あたしを、呼んだんだ。あの日」



 自分の言葉に、美邑はあの夏の日の記憶がよみがえるような心地がした。


 小学校一年生の夏。神社で理玖と遊んでいた美邑は、誰かに呼ばれた気がした。声を追ってたどり着いたのは、箱にしまわれていたはずの御神鏡で。ふたがずれたそこから、紅色の瞳が、美邑をじっと見つめていた。



『おいで……』



 そう、呼びかけられたのは、果たして捏造された記憶だろうか。だが確かに招かれたのだと、美邑には確信があった。現在も――あの時も。


 怖くはなかった。むしろ、何故だか懐かしい心地すらした。だからこそ、迷いなくふたを開け……そして、行ってしまったのだろう。『裏側』に。

 昊千代の目が、つと細くなる。笑っているのか、睨んでいるのか、感情が読めない表情に、美邑は唾を飲み込んだ。



「……僕は、美邑をずっと待っていたんだよ」



 先程も聞いた言葉を、昊千代が繰り返す。


 待っていたとは、一体いつからなのか。あの夏の日から? それとも、あの日美邑を呼んだということは、もっと前から美邑の存在を知っていたのか。


 美邑の表情から、なにかしら読み取ったのだろう――昊千代が、つまらなさそうな顔をした。



「やっぱり忘れてる」


「え?」



 美邑の問いかけに、「まぁいいや」と、昊千代は答えず、笑みを戻した。



「ねぇ。君のこと、どれくらい待っていたと思う? 何年、何十年……それどころじゃない」



 「九百年」と。

 昊千代の唇が動く。



「永い永い時の間、僕は君を待っていたんだ」


「それ……って。どう、いう」



 意味が飲み込めず、美邑はぱちくりと目をしばたかせた。それをくすりと笑い、昊千代が一歩近づいて頬を撫でてくる。



「言ってるだろう? 僕らは、家族なんだ」



 「かぞく」と、美邑はゆっくり呟いた。

 ついさっき、家族は両親だけだと突っぱねたばかりなのに、ついその言葉の意味を探ってしまう。



「朱金丸に聞いたんじゃないのかな。初代は、贄との間に双子をもうけたって」



 察しの悪い子どもに言い聞かせるように、昊千代はゆっくりと続けた。



「兄は鬼として、妹は人間として生まれた。そして――ほどなくして、母親は死に、父親はその後を追い、妹は人間の村へと連れていかれ。双子の兄は、ひとりぼっちになった」



 どくり、と心臓が鳴った。


 朱金丸も、確かに言っていた。

 二人生まれた子どものうち、男の子は鬼であったと。


 鬼がどれほど長生きなものなのかは知らないが、もし――その「男の子」が、まだ生きているなら。



「昊千代さんが……その、双子のお兄さん……なんです、か?」



 美邑の問いかけに、昊千代は笑みを深くした。


 蛇鬼とトモエの間に生まれた、二人の子ども。美邑の祖先はその片割れなのだと、そう聞いたのはついさっきのことだ。

 そのもう一方の片割れが昊千代なのだとしたら――美邑はぎゅっと胸元で手を組んだ――ずっと、昊千代を懐かしく感じていた理由が、ようやく分かる。


 美邑の中に眠る、先祖の血が。同じ血を分けた兄弟である昊千代の存在を、懐かしいと言っているのだ。



「僕は、鏡を使ってずっと、あのの子孫を見つめ続けた。待っていたんだ……僕の声に応えてくれる、家族を」



 「でも駄目だった」と、昊千代がゆるく頭を振る。



「皆、鬼の力を宿している片鱗すら見せなくて、僕の呼び声なんて聞けやしなかった。君の母親も、幼い頃に呼びかけたけれど、無駄だったよ」


「お母さん、にも」



 つまり、鬼蛇が先祖なのは母方ということか。そんなことをふと思っている間に、昊千代の紅い目が目の前に来ていた。



「でも、君が応えてくれた」



 至極嬉しそうな声と笑顔。だが目には、どこか鋭さがある。そのギャップが、美邑の背筋を冷たく撫でる。



「あたし……は」


「君が、僕じゃない他の家族を、どうしても優先したいのだとしたら」



 耳元に、息がかかる。不思議と冷たい息が。



「僕は、容赦できないかもしれない」


「なにを――」



 さっと、頭から血の気が引く。四散したナラズの姿が、脳裏に浮かぶ。



「お父さんやお母さんに、なにかする気!? 頼むからやめてよっ」


「それは、君次第」



 ふふ、と笑いながら、昊千代が一歩離れた。代わりに、手を差し伸べてくる。



「君が僕と来てくれるなら、君の両親には手を出さないよ」



 身体が、小さく震える。

 昊千代は本気だ――本気で、美邑の家族を害してでも、新しい「家族」を得ようとしている。



「だけど……あたし、まだ、人間だし……」


「そんなの、時間の問題じゃないか」



 すがるような美邑の言葉を、昊千代は一笑にふした。



「君は鬼になる。もう、決まっていることなんだよ。十年前から」


「そんなの……っまだ、分かんないじゃないッ」



 叫びながら、それがどれだけ虚しい悲鳴か、美邑は自分自身理解していた。目に異常が起き、角が生えてきた。今更、どんな顔をして「自分は人間だ」などと言えたものか――。



「あたし、は……ッ」



 言葉に詰まりつつも、それでもなにか言わずにはいられなかった。でも、なにを言うべきなのか? 語りたい言葉はあっても、語れる言葉はとうに失ってしまったというのに。


 泣きわめき、ぐちゃぐちゃに暴れてやりたい。そうすれば、昊千代の笑みを壊すくらいはできるだろうか? 本当にその程度のことしか、今の自分にできることなど、思いつきやしない。



(もう、やだ……誰か、助けてッ)



 前にここで昊千代に会ったときは、理玖が助けてくれた。思わず、目を階段にやる――と。


 紅い、ひらりとした着物が、階段上の鳥居下にはためいているのが見えた。



(朱金丸、さん?)



 下からではよく見えないが、美邑らを見下ろしているのだろうか。だとしたら、何故助けてくれないのか。



(朱金丸さんも……あたしが、さっさと鬼になるって、思ってるから……?)



 それでも、今の昊千代のような冷たさは、感じなかったのに。



「……っ」



 どうして、誰も彼も美邑のことを人間外にしたがるのか――思えば、あの小一の夏から、化け物と呼ばれ続け、味方なんていないも同然だった。

 家族以外の味方なんて、唯一――



「ミクちゃん」



 暖かな声が、ふわりと美邑を包み込んだ。



「もう、大丈夫だよ」



 背中に寄り添う体温。振り返らなくても、分かる。



「モモ……!」



 美邑を背中から優しく抱き締めてくれたモモは、一度その腕に力をぎゅっと込めると、ゆっくり離れていった。

 そして、美邑と昊千代との間に、無理矢理に割り込んでみせた。



「ミクちゃんが、怖がってる」



 淡々とした声で、モモが昊千代に告げる。昊千代は「そのようだね」と苦笑した。笑いながらも、細めた目で、無遠慮にモモを見つめている。

 その視線にハッとし、美邑は慌ててモモを庇うように抱き締めた。



「モモは、関係ないからっ! だから……ッ」


「なにもしないで、って?」



 からかうような声音で、昊千代が言葉をつけ足す。その目は、モモから離れない。



「美邑――君は、なんて言うか……本当に面白いね」


「え?」



 昊千代がふっと笑い、身を引く――かと思いきや、不意に美邑の手を取り、指にそっと口づけた。



「えぇっ!?」



 慌てて、悲鳴のような声を上げるが、それはすぐに、激しい頭の痛みに打ち消された。



「……ッぁあぅ!?」


「ミクちゃんっ!」



 膝から崩れそうになるのを、モモが支えてくれる。美邑は答えることもできず、頭を抱えるようにしながら呻き続ける。



「明日」



 頭の脈打つ感覚に紛れるようにして、昊千代の声が聞こえる。



「明日の夕方、迎えに来るから。それまでに覚悟を決めないと――さっきも言った通り、君の今の家族がどうなるか……分からないよ?」


「や……」



 昊千代に手を伸ばそうとするが、涙に霞む視界から、にたりとした笑顔がすっと消え去った。



「ミクちゃん……っ!」



 眉を寄せ、必死の形相でモモが顔を覗き込んでいるのが見える。どうやら、その場に倒れ込んでしまったらしい。



「モモ……」



 名前を呼び――唯一の親友に、なにを言おうとしたのか。それは美邑自身にも、よく分からなかった。


 伸ばそうとした手は、力を失い虚しく空を切る。視界が暗転し、美邑は自分が気を失いつつあることをふと理解しながら、意識を手放した。

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