第十六章 笑う鬼
16-1 知っている
森から出たとき、日はすでに高く昇っていた。そろそろ、昼だろうか。時間の流れが、森の中と外とで違うような錯覚さえ覚える。
「貴様が実を口にしたのは、俺にも責がある」
前にいた朱金丸が、こちらを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。言葉の意味が飲み込めず、美邑は目をぱちくりとしばたかせる。
そんな美邑を見て、朱金丸の口許がわずかに弛んだ。
「……貴様が鬼へと変じきったとき、俺が必ず迎えに行く。それまでは、せいぜい人間として心残りのないようにしておけ」
美邑がなにかを言い返す前に、朱金丸は再び森の中へと姿を消した。思わずまた森へと身を乗り出しかけたが、美邑は頭を横に振り、小さく溜め息をついて境内を歩き出す。
幼い頃に、妖質の詰まった実を食べたがために、先祖である蛇鬼の遺伝子が覚醒し、鬼へと変じつつある――そんなことを、今一つどう受け止めるべきなのか、美邑にはまだ分からない。
ただただショックであるというのが、正直なところだ。これからどうするべきなのかも、結局分からないまま。
「あたし……なにしてんだろ……」
ぽつりと呟いた、その言葉に。
「なにを、そんなに悩んでいるんだい?」
大きくもないのによく通る声をかけてきたのは、昊千代だった。紅い瞳をにこりとさせて、拝殿の屋根に腰かけている。足をぶらりとさせると、自然な動きでトンと降りてきた。
「昊千代…さん。どうして、ここに」
「もちろん、君に会いたくて」
全く邪気を感じさせない笑顔で、昊千代が言う。ついほだされたくなるその笑みに、美邑はぶんぶんと首を横にした。
「あのっ! 一緒には、行けないですから。あたし」
「そんなに、怖がらなくても良いのに。寂しいなぁ」
言って、苦笑する様は言葉通りに寂しげで。それだけで、美邑はなんとも言えない、悪いことをしたような気分になってしまう。
反射的に、一歩前へ踏み出しかけるが、なんとか思い止まったのは、頭に両親の顔が浮かんだからだ。
美邑を「家族」と呼び、連れ去ろうとした「鬼」。決して、警戒しないで良い相手ではない。
美邑は一度、唇をきゅっと結び、改めて昊千代を見た。その柔らかな眼差しに、ふと頭の隅で引っかかるものがあった。
「……あの」
「『裏側』のこと、聞いたんだね」
昊千代がさらりと言うのを聞き、思わずぴくりと肩が跳ねた。それを見た昊千代が、尚更に笑みを深くする。
「僕らのもとへ、戻ってくる気になった?」
「戻るもなにも……あたしは、別に」
そう、へらりと笑う美邑を、昊千代はじっと見つめていた。そっと、細い指をこちらに向けてくる。
「角に、目。順調なようだね」
「っ、あなたが触ったから、こうなったって。朱金丸さんから、聞きましたけど」
精一杯に声を怒らせて言うが、昊千代はどこ吹く風だ。「おかしいな」と、小馬鹿にしたように笑う。
「朱金丸が、そんな不正確な表現をするとは思えないけれど」
「確かに……ちょっと、ニュアンスは違いましたけど。でも、あたしにとっては同じことです」
美邑にとっては、掛け値なしに正直な思いではあった。それも、昊千代は笑って取り合わない。
「僕はきっかけに過ぎない。君が鬼に成るのは、結局、君が鬼でしかないからだよ」
「そんなの……」
言い返そうとした言葉が詰まった。先程聞いたばかりの、蛇鬼の話が脳裏によみがえる。
途端、言葉の代わりに両目から涙が溢れた。両手を胸元で握り、顔を上げてぐっと昊千代を睨む。
だが。そこに、昊千代はいなかった。
「怖い顔」
声が耳元で聞こえる。冷たい指が頬をなぞる感触に、身体が固まる。
「誤解しないで。僕は、君と仲良くやりたいんだ」
いつの間にか真横に移動してきていた昊千代が、あくまで優しい声で囁く。それを、嫌だと感じない自分に納得がいかず、美邑は敢えて思いきり手を振り払った。
「あたしはっ! あなたの家族なんかじゃないッ」
涙に歪んだ視界に、きょとんとした昊千代の顔が入る。構わずに、美邑は怒鳴るように続けた。
「あたしの家族は、お父さんとお母さんだけだものっ。だから、これ以上……!」
言いかけた言葉は、しかし固まって止まってしまった。
「『これ以上』……なに?」
昊千代が、穏やかな声で訊ねてくる。だがその顔を見た美邑は、それ以上なにも言えず、首を振って走り出した。
怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い――。
美邑の言葉を聞いていた昊千代の顔は、変わらずの笑顔であったが。その紅い目には、酷く冷たい色がさしていた。
(知ってる――)
確かに、あの目を美邑は知っていた。
あれは。
あの目は。
鳥居をくぐり、階段を駆け降りる。あと少しまで来たところで足がもつれ、悲鳴と共に一番下まで転がり落ちた。
「……っ」
痛みにうめきかけるが、ふと暗くなった周囲に、ハッとして顔を上げる。
顔がドロリと崩れた、巨大なスライムのような奇っ怪な化け物が、間近にたたずんでいた。
「ナラズ……」
今朝、美邑の後をついてきていたモノだ。まだこんなところにいたとは。
(取り込まれる……)
確か、そんなことを以前、朱金丸が言っていた。
もし、これに取り込まれたら、自分もこの醜悪な化け物の一部になってしまうのだろうか。
誰にも相手にされず、ただ、取り込む相手を探し求め、喰らうだけの、そんなモノに。
「いや……」
声が震える。痛みと恐怖で立ち上がることもできず、のったりと距離を縮めてくるその、生き物ですらないモノを、美邑はじっとただ見ていた。
ナラズの体液が、悪臭を放ちながら足のすぐ側に落ちる。ゲル状の身体が、美邑に覆い被さろうと、でろりと伸びた。
「ひ……っ」
思わず、目をつぶりそうになる――が。
ナラズの身体が、突然四散した。びちゃりびちゃりと、弾けた身体の大半が、美邑に降り注ぐ。ぬるいゼリーのようなモノが、頭に、顔に、胸に、足に力なくまとわりつく。
「ぁ……」
「成り損ないが、でしゃばるからだよ」
ナラズがいたはずの場所にたたずみながら、軽い口調で昊千代が言う。
いつの間に、など。もう、どうでも良かった。美邑はナラズの残骸を拭うこともせず、ただ固まりながら、昊千代の笑顔を見つめることしかできなかった。
「僕の大事な美邑を取り込もうだなんて……一体、僕がどれだけ待ったと思っているんだか。まぁ、ナラズじゃ『思う』だなんて高尚なこと、望めないだろうけど」
「ねぇ?」と、何事もなかったかのように、昊千代が笑いかけてくる。
その目を、美邑は知っていた。
何年も前から。
それは――昨日と、そして神隠しのあの日。
御神鏡からこちらを見ていたものと、同じ目だった。
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