9-3 曖昧な境界

 家に帰ると、玄関に鍵がかかっていた。母親は近所の直売所でパートをしているため、まだしばらく帰らないだろう。

 それでもなんとなく、鍵を開けて中に入る際には「ただいま」と呟いてしまう。もちろん、声が返ってくるはずもなかったが。


 美邑は二階に上がり、自分の部屋に入ると、そのままベッドに突っ伏した。制服にシワができるのも、鞄に弁当箱が入りっぱなしなのも、今はどうだってよかった。


 ベッドの柔らかさに身を任せて、目を閉じる。身体も意識も沈んでいく。マットレスごと、どこまでも沈みこんでしまいそうなその感覚が、やけに心地好い。



――ずっと、待っていたんだ。君のこと。



「……っ」



 ハッとして目を覚ますと、窓から差し込んでくる光が、朱色を帯びていた。



「夢……」



 なにか、声がした気がしたが。辺りを見回すと、ちょうど玄関の開く音と、「ただいまー」という母親の声が聞こえた。



「美邑、帰ってるのー?」


「あ……はーい」



 返事をしながら立ち上がろうとすると、頬が濡れていることに気がついた。寝ながら、泣いていたのだろうか。慌てて袖口で拭い、バタバタと階段を降りる。



「お帰り、お母さん」


「美邑。あんた、今日早退したの?」



 母親に問われ、ドキリとする。慌てて右目をおさえ、「うん」と頷いた。



「その……目が痛くて、赤くなっちゃって。それで、病院に行けって、保健室で言われて……」



 話しながら、鼓動がどんどん強くなっていく。母親は、知っているのだろうか――美邑が、本当の娘じゃないかもしれないということを。鬼に成るかもしれないということを。

 知っているとしたら……紅く変じた美邑の目を見て、どんな反応をするのだろうか。


 母親は首を傾げ、「見せて」と気軽に美邑の手を取った。びくりとする美邑の顔を、じっと覗き込んでくる。



「……んー。確かに赤いけど。ちょっと、大げさじゃない? 病院では、なんて?」


「う、ううん。その、行くほどじゃないかなって、あたしも思って。結局、往かなかった」



 思いも寄らない反応に、美邑は咄嗟に話を合わせた。それに「そう」とだけ母親が頷く。



「取り敢えず、水で冷やしておけば? 季節外れの花粉か、なにかじゃないの」



 母親はそう言うと、床に下ろしてあった買い物袋を両手で持って、台所に向かって歩きだした。



「仕事してたら、坂山さんが買い物に来てね。公園で美邑のこと見たって言うから、変だなって思ったんだけど」


「あ……うん。お弁当、公園で食べたから」



 返事をしながら、「坂山さん」を記憶から探すが、思いつかなかった。だがきっと、顔を見れば分かる、近所のおばさんの一人なのだろう。


 念のため、母親に言われた通り水で冷やそうと、とぼとぼ洗面所へ向かう。少なくとも、母親はそうすれば安心なのだろう。拍子抜けではあるか、母親が「花粉のせい」と本当に思ってくれているなら、ほっとした。少なくともまだ、自分はここにいて良いのだ。


 洗面台で鏡を見ると、真っ赤な目をした自分がいた。だがそれは、泣き腫らしたのが分かる、充血した両目で。



「え……?」



 右目にそっと触れるも、朝と変わらない焦茶色の瞳が、そこにあった。



「なんで」



 混乱しかけたところに、「美邑ー」と台所から母の声がした。



「お弁当箱、まだ出てないんだけど。出さないなら、自分で洗ってよねー?」


「あ、はーい……」



 返事をしながら。その、あまりにも日常的な遣り取りに、かえって頭が混乱しそうになる。



「夢……?」



 だとしたら。

 どこから、どこまで?


 鏡の向こうの美邑は、腫らした目をぱちくりと瞬かせて、不思議そうにこちらを見返してきた。

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