第六章 痛みは近く激しく

6-1 「覚えてないの?」

「かぞ、く?」



 かけられた言葉の意味が分からず、美邑はおうむ返しに呟いた。昊千代が「そう」と笑う。



「少なくとも、僕はそう思ってるよ。君のいるべき場所は、こんなところじゃない。僕らのがわなはずだ」


「あなたたちの……側」



 話についていけない。昊千代の言っていることが理解できない。



「美邑は……本当に全く、覚えてないんだね?」



 ふと、昊千代が首を傾げた。美邑の手を握る力が、わずかに弱まる。



「覚えてない、って。なにが」


「……ふぅん。朱金丸の言ってた通りだ」



 昊千代は一人で合点すると、ぱっと美邑の手を放した。美邑も、慌てて手を引っ込める。



「あの。だから、なにが」



 だが昊千代は、にこりと口許を笑みの形にしたまま、答えようとしない。ただ、もう一度手を差し伸べてくる。



「覚えてないなら、それでも良い。一緒に、おいで。その方が、君のためだ」


「……っ」



 自転車のハンドルを、自由になった両手で握りしめ、一歩下がる。昊千代に対し、不思議と嫌な感じや恐怖感は覚えなかったが、だからこそ、ここで言われるがままついて行ってしまいそうな自分が怖かった。まだ涼しい時間帯にも関わらず、汗がつと頬を伝う。



「――川渡?」



 名字を呼ばれ、はっと顔を上げた。神社の階段を、制服姿の理玖が降りてくるところだった。



「なにやってんだよ、こんなとこで」



 訊ねてくる理玖の視線が、ちらりと昊千代に向けられる。昊千代も理玖を見返し、「鏡戸の子か」と小さく呟いた。


 理玖は下まで降りてくると、美邑のそばに来た。「例の奴か?」と小声で訊ねてきた。屋上で話した不審者かと、確認しているのだろう。美邑は小さく首を横に振った。



「格好は、似てるんだけど……」


「ふうん」



 唸りながら、「それで?」という視線を向けてくる。それで結局、今はどういう状況なんだ?――という目。そんなの、美邑の方が訊きたい。



「鏡戸の子。悪いけれど、君には関係ないことだよ」



 美邑が口を開くよりも早く、昊千代が言った。先程までとはうって変わって、ひどくつまらなさそうな声で。



「君は、美邑の友人ですらないだろう?」


「俺は……」



 理玖が、言葉に詰まって顔をしかめる。仕方のないことだ。当人たる美邑の前で、まさか「友人だ」と言い切るには、理玖は善良でなにより正直過ぎる。



「……知り合いが、自分の家の前で変な奴に絡まれてて、ほっとくわけにもいかねぇだろ。だいたい、俺ら今から学校だし。もう行かないと。な? 川渡」


「う、うん」



 庇ってはくれるらしい。美邑はそのことに少し励まされつつ、こくこくと頷いた。ちらりと昊千代を見遣る。



「一緒には……行けない。ごめんなさい」



 昊千代は、なにか言いたげな顔をしていただろうか――それを確認する間もなく、理玖に背中を押され、美邑は急いで自転車を漕ぎ出した。理玖も、その勢いのまま走ってついてくる。


 ちらりと後ろを見ると、昊千代はじっとこちらを見つめているようだった。離れても、その紅い目が自分の心の奥まで見透かしているように感じ、美邑は足に力を込めた。

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