6-2 頭痛

 昊千代の姿が見えなくなった頃、ようやくスピードを緩めると、息を切らしながら理玖が「おい」と呼びかけてきた。



「なんだったんだよ、一体。あの、コスプレ不審者」


「分かんないよ、あたしだって……」



 美邑を「家族」だと呼び、どこかへ連れていこうとしている昊千代。格好からして異質で、例の不審者――朱金丸とか呼ばれていたか――と知り合いでもあるらしい。



「なんか……あたしが、なにか忘れてる……って、言ってた……」



 引っかかる部分は多数あるが、特に気になったのはその言葉だった。「本当に、全く覚えてない」? 「朱金丸の言う通り」?



「あたし……物覚え悪いから、忘れてるものの候補がありすぎるな……」


「アホか」



 呆れたように、理玖が呟く。



「不審者の言うことなんて、いちいち真に受けてんなよ。知らない奴なんだろ? 無視しろ、無視」


「……うん」



 理玖なりに、気にかけてくれての言葉だろう。そう思うと、頷く顔がにやけそうになる。


 そうだ。本当は、あの不審者――朱金丸のことだって、忘れようと思っていたのだ。今更もう一人現れたところで、気にしたって仕方がない。



「もう、忘れちゃった方が良いよね」



 モモだって、そう言っていたではないか。明るく美邑が言うと、しかし理玖は眉を寄せた。



「忘れる……って。不審者が近寄ってきたの、二回目なんだろ? 同じ奴じゃないにしても、似たようなのが。さすがに、大人に相談した方が良いだろ」


「そう……かな」



 言われてみれば、確かにそういうものなのかもしれない。だが、「変わった格好をした人達が、迎えに来るの」――どうも、言葉にすると陳腐な感じがする。



「そう言えば。今日の人はあたしのこと、家族って……」



 言ってた、と。言い切る前に理玖を見ると、眉間の皺が深くなっていた。



「それじゃ、今いっしょに住んでる川渡のおじさんとおばさんは、本当の家族じゃないってことか?」



 そうきっぱり訊ねられると、それはそれでにわかに信じがたい話ではある。美邑が黙ると、理玖は続けてきた。



「おじさんとおばさんに訊くのか? 本当の親じゃないのか、って。急に、家族だって言って迎えに来た奴らが現れたから、気になるんだって」


「それ、は」



 途端、それはそれでおかしな感じがする――と言うか、両親が驚いてしまいそうだ。娘が不審者に狙われているというだけでもショックだろうに、そんなこと言えるわけがない。


 美邑がうつむくと、小さくため息が聞こえた。



「言っただろ。不審者の言うことなんて真に受けるな、って。ただ、おかしな奴らに二回も声かけられたんだって、そうとだけ言えば良い話だろ。そうすれば、またおかしな奴が近づかないように、なんか考えてくれるかもしんないし。警察に相談するとかさ」


「うん……そっか」



 確かに、言われれば全くその通りで、美邑は自分の頭が上手く働いていないことを自覚した。理玖も不安に思ったのだろう。「おまえ、大丈夫かよ」としかめ面のまま訊ねてくる。



「うん。大丈夫、大丈夫。ちょっと、混乱してただけ」



 頷きながら、まとまらない頭をなんとか整理していく。



「えっと、言われたことは気にしない。でも、忘れるんじゃなくて、不審者に声かけられてることは、ちゃんと大人に相談する」



 口に出せば、本当に当たり前のことでしかなくて、美邑はほっと息をついた。



「今日、帰ったら親に話してみる」


「あぁ……俺も、昨日話してたの奴のこと、じいちゃんに訊いても分かんなかったけど、今日あったこともつけ足してもう一回訊いてみるわ」



 「あいつ、俺のことも知ってるみたいだったし」と、理玖が頷く。



「うん……ありがとう」


「別に。うちの前であったことだし」



 そう、素っ気なく流しながら、理玖は駅への道をまた歩き出した。美邑も、そのあとに続く。



 記憶よりも広いその背中を見つめながら、美邑は理玖に言っていないことを思い浮かべた。


 あの不審者が、人間ではないと。そう、思ってしまったと――それこそそんなこと、誰にも言えるわけがなく。美邑はまた、深く息をこぼした。



(なんか……頭、痛くなってきた)



 混乱したまま、頭を使いすぎたせいだろうか。脈打つような痛みが、両方のこめかみを中心に広がっていく。



「それか、あれかな。おじさんかおばさんの、どっちかの隠し子、とか」


「はは……少なくとも、あのお父さんにそんな甲斐性あるとは思えないけど」



 ふざけるような口調の理玖に、美邑が半笑いで答える。浮かぶのは、母親のカレーをにこにこと掻き込むへらりとした父親の顔で。軽口を続けようとしたが、ずきんとした強い痛みに、口を閉じる。



(やだ……ほんとに、痛い)



 足が止まり、すがるように理玖の背中を見つめる。手を伸ばすが、こちらには気づかずに、どんどん遠ざかっていってしまう。



「りっくん……っ」



 呟くも、声に力が入らない。痛みばかりが加速していく。



(頭……割れそう)



 本当に割れるわけもないだろうが――美邑はいよいよ身体を支えることもできなくなってきた。自転車ががしゃりと倒れ、その上にへたり込む。あまりの痛みに、吐き気さえしてきた。



「……やだ、もう……ッ」



 ぎゅっとつむった目が、熱くなる。思わず、泣き出しそうになった、そのとき。


 手を。誰かに握られた。



「っモモ――」



 反射的に呟き、抱き締める。が、無意識に想像していた手応えとは、違うものが返ってきた。自分よりも、ずっと大きな身体。少し汗臭い香り。潤んだ目を開けて、はっとする。



「お、まえ……なぁッ」


「ご、ごめんりっくん!」



 慌てて離れると、理玖が眉をつり上げていた。怒りのためだろうか、顔が赤いような気がする。



「全く……急に、後ろででかい音したと思ったらへたってるし。マジ焦ったかんな」


「ご、ごめん。頭が、すごく痛くなって……」



 わたわたと言い返すと、さすがに理玖の表情が変わった。



「マジかよ。大丈夫か? さっきの奴に、なんかされたんじゃないのか?」


「特に、そんな覚えないけど……あ、でも。今はだいぶ楽になってきたから」



 こうして話している間に、確かに痛みがすっと引いてきた。先程まで、頭が割れるのではと思っていたのが、嘘のようだ。


 理玖が大きく息をつくのが聞こえ、美邑はびくりと肩を震わせた。それに気づいたのか、「別に怒ってねぇよ」と理玖が頭を掻く。



「良くなったらいいけどよ。おまえ、汗すごいぞ」


「え。やだ、自転車こいだからかな」



 ポケットからハンカチを出そうとすると、「冷や汗だろ」と呆れた声が返ってきた。



「さっきまで、そこまで汗かいてなかったし。よっぽど痛かったんだろ」


「まぁ……でも、もう平気だし」



 そう、立ち上がって腕を振ってみせたが、返ってきたのはやはり「あっそ」という呆れ声だった。理玖はそのまま黙って、美邑の足元に倒れた自転車を起き上がらせた。



「あ、大丈夫だよりっくん。あたし、それくらい全然」


「だろうな、馬鹿力。マジ身体痛ぇし」



 自転車のハンドルを美邑に示しながら、理玖が素っ気なく言う。美邑はそれを受け取りつつ「ごめん」と小さく唸った。



「大丈夫なら、さっさと行くぞ」



 理玖の言葉に、一つ頷く。登り坂だが、ここを越えれば駅まではすぐだ。美邑はまたがるのを止め、ハンドルを握りしめたまま自転車を押すことにした。


 頭がまた、ずきりと痛む。振り返る理玖にへらりと笑い、自転車を押し続ける。



(大丈夫。ちょっと、痛いだけ。気にしない、気にしない)



 また一つ。ずきりと、脈打つ痛みが頭に走った。

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