第一章 日常は突然に

1-1 神社

「この神社の注連縄、ふつうと逆なんだってさ」



 そんな話を聞いたのは誰からだったであろうか。覚えてはいなかったが、それでも古びた鳥居をくぐる度に思い出すのは、その言葉だった。


 春先市はるさきしは、数年前の市町村合併により、一市二町二村が一つになった、やたらと面積の広い市である。


 川渡かわと美邑みくにが住む地域はその合併に巻き込まれた村の一つで、かつては一角村いっかくむらという名前であった。今でこそ電車が通り、県庁所在の市まで行くのにも気安くなりはした。しかし、元々が「陸の孤島」と呼ばれるような、何もない田舎であり、その気風は根強く残っている。


 鏡戸神社かがみどじんじゃはそんな一角地区において、地域の中心とも呼べる、いわゆる「コミュニティーセンター」的な役割を担っている。実際、村の集会所は神社の階段の麓に建てられており、神主は地区長でこそないものの、むしろそれを越えた相談役のような立場にいる。

 地域で一番大きな祭りも鏡戸神社で行われており――つまりは、古いながらに今でも寂れることなく、なんとか上手くやっている神社の一つだ。


 美邑はその神社に続く、長い長い階段を跳ねるように登っていた。石造りで、段の高さがまちまちである。一歩踏み出すごとに、長いポニーテールが背中でさらりと揺れた。


 階段の麓にある一の鳥居をくぐり、階段を登り終えた先には、一の鳥居より一回り大きな二の鳥居がある。それを階段の中程から見上げると、階段の一番上に男が一人、腰かけているのが見えた。


 突っ伏しているため、顔は見えない。しかし見事な白髪から、おそらく老人であろうことが伺える。この地域は年寄りが多いため、早朝に老人が一人、神社にいたとしてもさほど不思議はない。ただ、目立つのはその格好だった。鮮やかな緋色の着物は、無地だが派手で珍しいものだ。


 軽く息を切らしながら、美邑はその横を通り過ぎた。ちらりと視線を向けると、老人の背は小さく上下しており、眠っているのだろうかと首を傾げてしまう。


 二の鳥居をくぐると、拝殿が見えた。美邑は制服のスカートの裾を払い、そちらに近づく。財布を取り出そうと、左手をスクールバッグに突っ込みながら歩いていくと、常と違う様子に気がついた。


 拝殿には、太い注連縄が掛けられている。それが、真ん中から切れて垂れていた。



「うわぁ……昨日の風かなぁ」



 昨夜は風が強く、ここに来るまでの道にも、あちこちに枝葉だのゴミだのが転がっていた。ビニールハウスが飛んでいってしまった畑もあるようで、余程の風力だったことが知れる。この注連縄も、そんな風の被害にあったのだろう。


 拝殿をちらりと覗くと、奥の祭壇が見えた。この神社には、御神鏡が祭られているのだが、普段はふたのある箱に納められ、参拝者が見ることは叶わない。神社の関係者ですら、もうかなり長いこと御神鏡本体を見ていないらしい。


 参拝者に見えるよう、立て掛けられるようにして祭壇に飾られた黒い木箱。そのふたが、開いていた。


 ふたのない箱には、鏡が一つ収まっていた。鏡と言っても、歴史の教科書などで見たことがある「銅鏡」に近い形をしている。反射面は、外から射し込む光に輝いてはいるが、おそらく百円均一の手鏡ほどにも鮮明に物を映さないだろう。


 だが。


 その鈍い輝きを見た途端、美邑は思わず目をそらしてしまった。門外不出の御神鏡を見てしまったためだろうか、やたらと胸がドキドキ鳴っている。



「あれ……いいのかな」



 見てはいけないものを見てしまった。


 そんな気持ちにさせられるためだろうか、美邑は鞄を胸の辺りで抱き締めると、きょろきょろと周囲を見回した。神社の人間は、少なくとも見えるところにいない。


 そのことが残念なのか、それとも安堵したのか――自分でもよく分からないまま、美邑は足早に階段を駆け降りた。美邑は階段下に停めていた自転車にまたがると、鞄をかごへと投げ入れてこぎだした。


 ふと階段を見上げると、緋色の着物は見当たらず、美邑は頭を軽く振って駅へと急いだ。

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