第一章 引きこもり改めお飾り王妃の結婚事情
リーネことロイスリーネは大陸の東部に位置する小国ロウワンの第二王女だ。半年前にルベイラ国王ジークハルトに嫁いできた。
もちろん、正式な王妃である。
大国の王妃となったロイスリーネがなぜ『緑葉亭』でウェイトレスなどをしているのか。それは二人が結婚する前にさかのぼる。
ロイスリーネの祖国ロウワンは、領土が狭く、人口も少なければ特産もない弱小国だ。各国の王侯貴族やごく一部の特殊な人たちの間では有名だったが、一般の平民たちには無名もいいところで、商人たちが聞いたこともない国だと言ったのも無理はなかった。
その弱小国であるロウワンの第二王女ロイスリーネ宛に、強国ルベイラから縁談が舞い込んだのは今から三年ほど前のことだ。
西の大国ルベイラとロウワンは友好関係にあるものの、国同士の距離が遠く離れていることもあって交流は少なかった。それなのに、いきなりロイスリーネをルベイラ国の王妃として迎えたいという話が持ち込まれたのだ。当然城中が大騒ぎになった。
――なぜルベイラ国の国王が私を?
重臣たちは強国と繋がりができるということで大喜びだったが、当のロイスリーネはこの縁談に非常に懐疑的だった。
何しろ強国がこんな小国の王女を娶る利点はない。『豊穣』の祝福を持っている姉王女のリンダローネが相手ならばまだ分かるが、ロイスリーネはギフトも持たず、魔法も使いこなせない「期待外れ」の王女だ。
『本当に私なのですか?』
ルベイラ国王ジークハルトの使者としてロウワン国を訪れた、当時宰相補佐だったカーティス――今現在は宰相――に何度も尋ねて確認してしまったのは、無理からぬことだった。
『もちろん。ジークハルト陛下が望んでおられるのはロイスリーネ殿下です』
無駄にキラキラな美貌を持つカーティスの言葉を信じたわけではなかったが、ロイスリーネは縁談を受け入れた。
どのみち強国からの申し出を断る術もなかったが、ロイスリーネは自ら受け入れるという選択をしたと思っている。
――何か裏がありそうだけど、この結婚はロウワンにとっては利点だらけだもの。利用しない手はないじゃない?
数百年ほど戦争もなく、ロウワン国内は平和そのものだが、脅威がまったくないわけではなかった。周辺国にいくつか政情不安な国もあるし、ロウワン国の唯一の特産……いや特殊性を我が物にしたいと狙う国も実は多い。
強国ルベイラにロイスリーネが嫁げば、それらの国々への大きな牽制になるだろう。
ロイスリーネはそう考えてこの婚姻を承諾した。十五歳になったばかりの頃のことだ。
それからの二年半は、王妃教育やら嫁入り支度やらであっという間に過ぎていった。その間、婚約者であるジークハルトからは豪華な装飾品や手紙が送られてきたりしていたが、彼自身がロウワンを訪れてロイスリーネと顔を合わせることはなかった。
ジークハルトも王太子時代と違い、ルベイラを離れて遠い異国へ行くことはできないのだろう……とロイスリーネは吞気に考えていたのだが、実際には違っていたようだ。
「そりゃあ、そうよね。名前だけの王妃にするつもりの相手にわざわざ会いにはこないわ。可愛くて、愛しい恋人が傍にいるんだもの」
ランタンを手に慣れた様子で地下道を歩きながら、ロイスリーネはひとりごちる。
何か裏がありそうだというロイスリーネの勘は当たっていた。それが分かったのは、輿入れのためにロウワン国を離れてルベイラに向かう道中のことだ。
泊まっていた宿でロイスリーネが夜風に当たろうとバルコニーに出た時、庭で警備をしているルベイラ側の兵士たちが話しているのを聞いてしまったのだ。
『陛下は、ミレイ様のことはどうするおつもりだろうか?』
『そのままガーネット宮に囲うんだろうさ。まもなく王妃を迎えるというのに、未だに毎晩ミレイ様のところに通ってるって話だぜ? 陛下はミレイ様を手放す気なんてないさ』
『王妃になるロウワンの王女様、可哀想だな……』
『まぁ、王族の結婚なんてそんなものだ』
どうやら夫となるジークハルトにはすでに恋人がいたようだ。
ショックではないと言ったら嘘になるが、同時にすべてが収まるべきところにストーンと落ちた気がして納得できた。できてしまった。
やはり得にもならない弱小国の王女を王妃に選んだのには理由があったのだ。
それからの道中、ルベイラ側の兵士や侍女や女官たちの話を注意深く聞いているうちに、おおよその事情を把握した。
ジークハルトには王太子時代から恋人がいたのだ。それも平民の。
お忍びで訪れた王都でミレイという女性を見初めたジークハルトは、彼女を懇意にしている貴族の養女にして王太子妃に迎えようとした。
けれど、いくら貴族の養女になり身分を得たとしても所詮は平民。階級は低くとも貴族だったならともかく、王族はとにかく血統が重要だ。将来の国王に平民の血が混じっては困ると家族や重臣たちに大反対され、ミレイを王太子妃にすることは断念せざるを得なかったようだ。
結局ジークハルトは恋人――と言えば聞こえはいいが、要するに妾としてミレイを王宮内の離宮に囲うようになった。
――でも国王がいつまでも独り身でいるわけにはいかない。どうしたって王妃が必要だわよね。でも陛下としては、なまじ国内の有力貴族の令嬢を王妃として迎えるわけにはいかなかった。ミレイ様の安全のために。
そこでジークハルトと彼の側近たちは弱小国の王女を王妃に据えることにしたのだ。つまり、ロイスリーネを。
「考えたわよね。一応王女なのだから血統に問題ないし、王宮内で権力を握れるほど国力のない国だから、謀の心配もないうえに、結婚前から愛人を囲っていても文句は言わないだろうと踏んだのね。ええ、そうよ、その通りよ。文句など言いませんとも。ロウワンに益がある限りは」
歩きながらロイスリーネはぶつぶつと呟く。
「お飾り王妃で結構だわ。公務は必要最低限でいいし、気が楽だもの」
ミレイの存在とジークハルトの真意を知ったロイスリーネは、さっさと割り切ることにした。国の規模が違いすぎる政略結婚などこんなものだと。むしろ名ばかりの王妃となってジークハルトとミレイの盾になってやろうじゃないかと。
そう気持ちを切り替えたせいだろうか。ルベイラ国の王宮に到着してジークハルトが自ら出迎えに現われた時も、冷静に彼を見ることができた。
『久しぶりだね、ロイスリーネ王女。遠路はるばるようこそ、我々はあなたを心より歓迎する』
婚約してから一度も顔を合わせてはいないものの、二人は初対面というわけではない。六年ほど前、まだジークハルトが王太子だった頃、東方諸国を外遊していた彼はロウワン国に立ち寄ったことがあり、その時に顔を合わせていた。
『出迎えていただいて、ありがとうございます。ジークハルト陛下。お久しぶりでございます』
婚約が決まってから必死で覚えたルベイラ式の淑女の礼を完璧な形で披露しながら、ロイスリーネはジークハルトをちらりと見上げた。
――相変わらず美形だわ。
ジークハルトは今現在二十二歳。冴えた月の光のような銀色の髪に、青と灰色が混じった不思議な色合いの瞳を持つ美丈夫だ。顔だちは端正というより美しいと表現した方がいいだろう。
涼やかな目元に、高い鼻梁。左右対称に配置された顔のパーツはまるで計算された彫像のようで、完璧な位置に収まっている。
背は高く、体つきはしなやかだ。中性的な美貌ながら、決して女性には見えない力強さがある。
道中聞いたところによると、ジークハルトは自分にも他人にも厳しい王だが、公明正大で国民にも部下たちにも慕われている善き王だという。
その話が嘘でないことは、遠い国からやってきた見知らぬ王女ロイスリーネを出迎えるために彼の周辺に集まった王宮の人たちの様子からも窺える。
そしてジークハルトは集まった皆の前でロイスリーネを歓待することで、自分が望んで迎えた王妃だと示しているのだろう。
――お優しいことで。
もし何も知らなかったら、ロイスリーネはきっとこの場で夫となる男性に恋をしていたかもしれない。
けれど、あいにくと目の前にいる男はロイスリーネを利用する気満々なのだ。恋などするはずがない。
ロイスリーネはにっこりとよそいきの笑顔を向けてジークハルトに言った。
『どうか末永くよろしくお願いいたします、陛下』
その後、ジークハルトと落ち着いて個人的な話をする暇はなかった。次々と訪れるルベイラ国の重臣たちと挨拶を交わし、三日後に行われる結婚式とパレードの準備を整えるので忙しかったからだ。
結局、ジークハルトと再び話す機会を得たのは、結婚式もパレードも終わった後。諸外国からやってきた賓客を招いての宮中晩餐会が始まる前のほんの短い休憩時間のことだった。
宰相のカーティスと従者のエイベルを伴ってやってきたジークハルトの表情は、どこか少し強張っているようにも見えた。
『ロイスリーネ。少し話があるんだ。本当はもっと前に説明しなければいけなかったことだが……』
そのいつにない緊張したような声音に、ロイスリーネはピンときた。きっとジークハルトが話したい内容とは恋人のミレイのことに違いない。
婚約していた二年半もの間、ジークハルトの恋人の話が一切耳に入ってこなかったのは、ルベイラ側がその情報をひた隠しにしていたからだろう。
――式も挙げたことだし、もう隠さなくてもよくなったというわけね。そういうことなら手間を省いて差し上げなければ。
ロイスリーネはにっこりと笑った。
『まぁ、陛下。ミレイ様のことなら、説明しなくとも大丈夫ですわ』
『……え?』
ジークハルトだけではなく、宰相も従者もポカンと口を開けた。控え室には女官長もいたが、彼女も唖然としたようにロイスリーネを見ている。
きっとロイスリーネがミレイの存在を知っていたことに驚いているのだろう。
『お二人のことを応援しておりますのよ。私のことはお気になさらないでくださいませ。私と陛下は政略結婚ですもの。よくあることだと割り切っておりますから。安心してミレイ様との愛を育んでくださいませ』
言いながらジークハルトの表情が驚愕から苦虫を噛み潰したような顔に変化していくのを見て、ロイスリーネは内心で首を傾げる。
――どうなさったのかしら? 隠していたことがバレていたのが苦々しいのかしら?
『うわぁ、自業自得とはいえ、これはキツイ……』
従者が小さな声で呟くのが聞こえてきたが、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。
結局、ジークハルトはその後何も言わずに控え室から出て行ってしまった。
そしてその日、初夜を迎えるはずだった寝所にジークハルトがやってくることはなく、ロイスリーネは一人で過ごした。
――そりゃあ、私のことは気にするなと言ったし、応援するとも言ったわよ? でも少しは配慮してほしかったわ。
夫はどうやら初夜にもかかわらず、ミレイのいる離宮に行ってしまったらしい。ルベイラ側の侍女たちの申し訳なさそうな顔を見て、ロイスリーネはため息をついた。
――これは白い結婚になるのは確実ね。
予想は外れなかった。次の日の夜も、そのまた次の日の夜も、ジークハルトがロイスリーネの元へやってくることはなかった。結婚して半年たった今も。
「別に寂しくなんてないのだけれどね。陛下なんかいなくても、共寝をしてくれる相手はいるのだから」
そうひとりごちながらも、地下道を進むロイスリーネの足取りは重かった。
内情を知らないルベイラの国民たちはロイスリーネがジークハルトの世継ぎを産むことを期待しているだろう。きっとロウワン国でも心待ちにしている。
でも皆が待ち望んでいる「おめでた」なんて永遠に来るわけないのだ。
――ロイスリーネは名ばかりの王妃なのだから。
「お帰りなさいませ、リーネ様。ご無事で何よりです」
長い地下道を抜け、こっそり離宮の自室に戻ったロイスリーネを侍女のエマが迎えた。
「ただいま、エマ。何もなかった?」
「はい、大丈夫です。王妃様は読書をするので邪魔しないでほしいと言ったら、誰も来ませんでしたから」
「そう、よかった。いつもありがとうね、エマ」
礼を言うと、ロイスリーネは豪奢な猫足のソファに座っている女性の元へ向かった。
ロイスリーネが近づいても微動だにせず、手にした本に視線を落としている女性は、ゆるやかに波打つ艶やかな黒髪と、若草色の大きな目をしていた。
淡いピンク色の高価なドレスを身にまとい、美しい宝石で飾られた姿はそれなりに美人で、それなりに気品があり、一国の王妃として恥ずかしくない容姿をしている。
彼女こそ強国ルベイラ、ジークハルト王の妃だ。ただし、偽物の。
「お疲れ様、ジェシー」
女性の肩にロイスリーネは手を置いた次の瞬間、ポンッと小さな音を立てて王妃の姿が掻き消え、ソファの上にはピンク色のドレスを着た黒髪の人形が置かれていた。
それを確認したロイスリーネは眼鏡を外し、おさげに結った髪の毛を解く。するとそこには先ほど消えた王妃と寸分たがわぬ姿の女性が立っていた。
「いつもながらすごいわね、エマの魔法は」
ソファから人形を抱き上げて頬ずりしながら称賛すると、エマはほんのり頬を赤く染めた。
「いえ、たいした術ではありません。自己流ですし。もっと力のある魔法使いなら、ジェシー人形を動かせたり、受け答えさせることもできますのに。私ができるのはせいぜい、姿を似せるくらいです」
「それでも魔法がからっきし使えない私にしてみたら、とてもすごいことだわ。エマが身代わりを作ってくれるからこそ、私は安心して『緑葉亭』に行けるんだから」
そう、先ほどまでソファに座っていたロイスリーネのそっくりさんは、エマの魔法。エマはロイスリーネが留守の間、彼女の不在が知られないようにジェシー人形を大きくして、ちゃんと王妃が部屋にいるように見せかけてくれているのだ。
エマはロイスリーネがロウワン国から連れてきた唯一の侍女だ。もっと多くの侍女を伴ってもよかったが、家族と離れて遠いルベイラ国に連れていくのも気の毒なので、エマ一人だけを連れていくことにしたのだった。
四歳年上のエマは、ロイスリーネにとってはもう一人の姉のようなものだ。幼い頃に孤児院から城に引き取られて以来、ロイスリーネ専属の侍女としていつも一緒にいる。ロイスリーネがルベイラ国に輿入れする際も当然のように侍女としてついてきたのだ。
『幸い私に両親はおりませんから。どこまでもリーネ様にお供いたします』
その言葉を聞いて嬉しくなるのと同時に、ルベイラでエマにお似合いの男性が見つかるといいなと思っている。
――そんな余裕なんてちっともなかったけれど。
この半年の間に起こった出来事が脳裏に浮かび、ロイスリーネは内心ため息をついた。
これでも結婚して最初の一ヶ月は、ジークハルトが居住する本宮と呼ばれる宮殿で過ごしていたのだ。王妃の部屋で、ジークハルトが用意した大勢の侍女や女官に囲まれて。
ところがある日突然、ロイスリーネはエマともどもこの離宮に移された。
理由を問えば、『王妃の身の安全のためだ』と言う。その言葉を証明するかのように、すぐさまこの離宮の内外には厳重な警備が敷かれた。
でもロイスリーネにしてみれば、これは外からの侵入を防ぐためのものではなく、中にいる人間――つまり王妃を外に逃がさないためのものだとしか思えなかった。
現にロイスリーネは公務以外の理由で離宮から出ることはできないし、会いにくる人間も厳選されているようだ。
拒否しても仕方ないので従っているが、この扱いにはいくら吞気なロイスリーネも納得できないでいる。
――陛下の大事なミレイ様に私が危害を加えるとでも思われたのかしら? 心外だわ。王妃としての務めはきちんと果たしているし、あれほどお二人の味方だとお伝えしたのに。
それともあまりに主張しすぎたため、逆に疑われたのかもしれない。最近のジークハルトはロイスリーネがミレイのことを口にするだけで、不快そうに顔をしかめるのだ。
――でもそのわりには、捨て置かれているわけでも冷遇されているわけでもないのよね。
ロイスリーネが今いる建物は、数代前の国王が自分の母親である王太后のために建てた宮殿だ。規模はさほど大きくないが、王族が住むように整えられただけあって、装飾品や調度品も一級品で、外見や内装は豪奢で美しい建物だ。
半ば軟禁状態とはいえ、ロイスリーネはこの美しい離宮で使用人たちにかしずかれながら、十分贅沢な暮らしをしている。ドレスも宝石も頻繁に届けられるし、何かが欲しいと言えば、すぐに用意してもらえる。
もし本当にジークハルトが冷遇するつもりなら、もっとみすぼらしい宮に入れられてもおかしくないのに。
これも祖国への配慮なのか、もしくは大国のプライドなのか。
判断はつかなかったが、ロイスリーネにとってはどちらも変わらない。豪華で贅沢が許されているとはいえ、自分が軟禁状態にあることに変わりはないからだ。
「あの時地下道を見つけて、城下町に下りられるようになっていなければ、きっと私は今頃退屈でヒステリーを起こしていたかもしれないわ」
ソファに腰を下ろし、ジェシー人形を抱えながらしみじみとした口調でロイスリーネは呟いた。
ロイスリーネの寝室にある鏡は地下道に通じる扉となっている。おそらく非常脱出用の出入り口なのだろう。地下にある長い坑道に続いていて、何かあった時はそこから王宮外へ脱出できるようになっている。
王族が住む宮殿や城にはよくあることだ。ロウワン国の城にも同じような脱出口があり、普段は魔法で封印されている。
鏡に見せかけた隠し扉と地下道を見つけたのはほんの偶然だった。それもロイスリーネの小さな友だちのおかげだ。
もっとも、数ヶ月前までのロイスリーネだったら、地下道の存在を知っても使おうとはしなかっただろう。まがりなりにも王妃なのだから、冒険などできはしないと。
けれど、軟禁生活が二ヶ月も続いて鬱屈した生活を送っていたロイスリーネにとって、地下道の発見はわずかに見えた希望のように感じた。
「祖国にいた頃はよくお兄様やお姉様と一緒に街に出たものだわ。ルベイラでは無理だと思っていたけど、念のためにお忍び用のワンピースを持ってきておいてよかったわね」
「私はまさかこれが使われることがあるなんて思ってもみませんでしたわ」
エマは大きなため息をついた。
普通なら一国の王女が気軽に街に出るなど許されることではないが、ロウワン国に限っては違う。
何しろ国の頂点に立つ王妃が率先して街に下りてしまうのだ。父である国王もお忍びで街に出た際に母親を見初めたこともあって、王子や王女たちのお忍びを誰も止めることはできなかった。
護衛騎士は大変だったかもしれないが、国民の生活を自分の目で確かめることができたし、結果的にその経験が今になって非常に役に立っている。
「給仕の経験がこんなところで活きるとは思わなかったわ。お母様に感謝しなくては」
冗談半分でロウワン国がある方向に感謝の祈りを捧げると、エマが呆れたように言った。
「リーネ様、普通は一国の王女様が給仕などすることはありませんからね? ロウワン国の王族の方々が変わっているだけですから、そこのところを間違わないでください」
「もちろん、うちの国が変わっていることは分かってるわ。何しろ祝福持ちの魔女とはいえ、平民で、しかも街の食堂のウェイトレスだったお母様を王妃として仰いでいる国だもの。普通じゃないでしょう」
ロイスリーネは朗らかな声で笑った。
祖国であるロウワンは、領土も小さく、たいして産業もない国だ。けれど、ある一点だけ他国に長じている部分があった。
それが、「魔法使い」や「聖女」、そして「魔女」を多く輩出している点だ。
魔法は呪文一つで火を操ったり、あるいは雷を呼んで攻撃したりできる特殊な力だ。それを操る魔法使いたちはどの国でも重宝されている。魔法陣を用いて結界を張ったり、遠くに一瞬で移動したりできるからだ。
そのため、今では魔法使いを数多く擁することができるかで国力が決まるとまで言われている。
ただし、魔法は努力すれば誰でも使えるようになるわけではない。魔法を使うには生まれ持った魔力が必要だし、たとえ魔力があったとしても魔法を使いこなせない場合も多い。だからこそ、より一層魔法使いたちは貴重なのだ。
だが、この世界には貴重な魔法使いよりさらに貴重な――いや、稀有な力を持つ者が存在する。それが『
ギフトは神からの贈り物だ。この世界を総べる神々が、己の気に入った人間が生まれた時に与える祝福だとされている。
彼女たちが行使する力は魔法より強大で、魔力の量も関係なかった。魔法のように使い方を修行する必要もなく、ギフト持ちは生まれた時から息をするように与えられた力を使いこなすことができる。
あるギフト持ちの女性は祈るだけで水を生み出すことができた。
またあるギフト持ちの女性の周囲には必ず草木が芽生えた。
そしてまたあるギフト持ちの女性は病気やけがを触れるだけで治すことができた。
神から授かった奇跡の力――それが『
それゆえ、彼女たちは「聖女」あるいは「魔女」と呼ばれ、その能力にかかわらず尊敬を集めている。
ロウワン国では魔法使いのみならず、このギフト持ちも数多く生まれている。風土のせいなのか、それとも民族的にそういう性質があるのか真相は不明だが、ロウワン国に限って特殊な能力持ちが多い。
その恩恵で、小国ながらも数多くの国と友好関係を結び、周辺国と比べても十分に豊かだったのだ。
国民もそれが分かっているので、「魔法使い」や「聖女」、それに「魔女」たちはこの国では特に優遇されている。
平民の、それも下町のウェイトレスだったロイスリーネの母親が、父親である国王と結婚できたのも、彼女が「魔女」だったことが大きいだろう。
ロイスリーネの母親は『解呪』のギフトを持って生まれた平民だった。「どんな呪いでもたちどころに解いてしまう」という能力を持っていたが、どの神殿にも席を置くことなく、市井で暮らしていた「魔女」だ。本人も魔女を自認している。
「聖女」と「魔女」という名称に明解な決まりはない。彼女たちの所属する組織と、ギフトの中身によって人々が勝手に呼んで区別しているだけだ。
神殿の保護を受け、彼らの一員として活躍しているギフト持ちは「聖女」と呼ばれ、神殿に所属していないギフト持ちを「魔女」と呼ぶ場合が多い。
「魔女」だったロイスリーネの母親は、父親に見初められて結婚するまで、ウェイトレスとして働く傍ら、呪いに悩まされている人々の相談に気軽に応じていた。
王族の一員となり、表だって「魔女」として活動できなくなったものの、時々お忍びと称してロイスリーネや姉を連れて街に下りては、かつての職場に顔を出して人々の相談に乗っていた。
ロイスリーネが王女という高貴な生まれなのに、他人の、それも平民の給仕をすることに忌避感がないのは、母親のお忍びに付き合った時、戯れにウェイトレスの真似事をしていたからだ。それを面白がった母親は、給仕のコツを娘に仕込んだ。
『いつでもどんな時でも笑顔は忘れないようにね、ロイスリーネ。どれほど忙しくても、嫌味な客に絡まれようとも、朗らかに笑っていればたいていのことは切り抜けられるわ』
――お母様の言葉は正しかったわ。にこにこ笑っていれば、なんとかなるものね。
『緑葉亭』で働くようになって、ロイスリーネは母親の教えが正しかったことを身に染みて知った。
ちなみにロイスリーネだけではなく、姉王女のリンダローネや王太子である兄も彼女と同じように給仕をこなすことができる。
『これで万が一、王家を追放されて平民に落とされても、食いっぱぐれなくてすむわね』
『どの国にだって食堂はあるからね』
そう言って笑っていた姉と兄を思い出し、ロイスリーネは家族が恋しくなった。
――みんな元気かしら。離れて半年しか経っていないけれど、お兄様とお姉様、それにお父様やお母様にも会いたいわ。
しんみりとした気分でいると、エマが淹れたばかりのお茶をテーブルに置いた。
「リーネ様、お疲れになったでしょう。お茶をどうぞ。宰相様が持ってきてくださった最高級の茶葉ですわ」
「ありがとう、エマ」
ジェシー人形を脇において、ロイスリーネはカップを手に取った。芳醇なお茶の香りが鼻腔をくすぐる。一口飲んで、ホゥと息を吐く。
「さすが最高級のお茶ね。とても美味しいわ。悔しいけど、お茶の品質はロウワンよりルベイラの方がはるかに上ね」
「大陸中からよりすぐりの品が集まりますからね、ルベイラは」
「国に戻る時には美味しいお茶をお姉様へのお土産にしようかしら」
「いいですね。リンダローネ様もきっと喜ばれますわ」
ロイスリーネもエマも祖国へ戻ることを前提に話をしているが、いつ戻れるか、あるいは戻ることができるかも分かっていない。
これは単なる希望だ。
――お飾り王妃はいつまでやったらいいのかしら? いつか解放されるとは思うけれど、あまり早く国に返されても困るのよね。
何しろ「ルベイラ国の王妃」という立場は祖国にとって非常に有益だ。その恩恵にしっかり与るまではジークハルトの妻という立場を死守しなくてはならない。
そのために、離宮に軟禁されても唯々諾々と従っているのだ。
――我慢して名ばかりの王妃をやっているのだから、多少ハメを外して息抜きしたっていいわよね?
働いている間は自分の不安定な立場を忘れることができる。城下町に下りてウェイトレスをすることは、ロイスリーネにとって重要な息抜きなのだ。
それが分かっているから、エマも本音では心配でたまらないだろうに、ロイスリーネのやることに反対せず協力してくれている。
「いつもありがとうね、エマ」
唐突に言うと、エマはキョトンとした。
「何がですか?」
「エマがここにいてくれるからこそ、私は自由に動けるの」
ロイスリーネが祖国でお忍びをする時は、いつもエマを連れて歩いていた。けれど、ルベイラでそれはできない。ロイスリーネの不在がバレないようにエマはここに残らなければならないからだ。
せめてあと一人くらい侍女を連れて来ればよかったと後悔したが、後の祭りだ。
「私がリーネ様にして差し上げられるのは、そのくらいですから」
エマは苦笑を浮かべながら、優しい声で答えた。
「確かに心配ですけれど、このままここで閉じこもっていれば、いずれリーネ様の御心が死んでしまうのは明らかです。私は萎れたリーネ様なんて見たくない。緑葉亭で働くようになってからの方がリーネ様は生き生きしてらっしゃいますもの。だったら私がやることは一つ。リーネ様が自由に動けるように協力することです」
「ありがとう、エマ。苦労をかけると思うけど、これからもよろしくね」
しみじみとした口調でロイスリーネが言うと、エマは嬉しそうに頬を染めた。
「はい。おまかせください。リーネ様が自由に動けるようにジェシー人形と一緒にフォローさせていただきます」
「ふふ、そうね。お姉様からいただいたジェシー人形も私の味方ね」
ロイスリーネはジェシー人形を手に取り、胸に抱きしめながら微笑んだ。
二歳年上のリンダローネは『豊穣』のギフトを持つ聖女であり、魔法使いでもある。妹を溺愛するリンダローネは、遠い国に嫁入りするロイスリーネに自分の魔力を織り込んだ人形をお守り代わりに贈った。
――いざとなったら私の身代わりになるってお姉様は仰っていたけど、その通りだったわね。もしかしてお姉様にはジェシー人形が必要になるって分かっていたのかしら?
エマは魔法が使えるものの、正式に魔法使いになれるほどの能力はない。人形をロイスリーネそっくりに変化させることはできても、長い時間維持できる力はなかった。その足りない部分を補っているのが、ジェシー人形に織り込まれたリンダローネの魔力だ。
つまり、エマの魔法とリンダローネの魔力があってこそ、ロイスリーネの身代わりを作り出すことができるのだ。
――さすがお姉様。やっぱりお姉様はすごいのね。
賢くも優しい姉を思い出してリーネの胸はチクンと痛んだ。
リンダローネはロイスリーネの自慢の姉であり、ロウワン国の至宝でもあった。
すごいのは姉だけではない。父王も魔法が使えるし、王太子である兄などは宮廷魔法使いになってもおかしくないほどの使い手だ。
魔女である母親。才能にあふれた家族。……その中にあって、ロイスリーネだけが平凡だった。
ギフトもなく、魔力はあれど魔法を発動させることができない期待外れの姫。それがロイスリーネだ。
家族はギフトや魔法の能力に関係なくロイスリーネを愛してくれるが、新たな聖女か魔女の誕生を期待していた一部の臣下たちからは、失望されているのを知っていた。
魔力は遺伝することが分かっているが、ギフトはあくまで神からの贈り物であり、子どもに継承することはできない。ギフト持ちの子どもがギフトを持って生まれることは稀で、人々は偶然ギフトを授かった子どもが生まれることを祈るしかなかった。
ところが、唯一例外が存在する。それがロイスリーネの母親である王妃の家系だ。彼女の家系では昔からよくギフト持ちの女児が誕生していた。
王妃の母親は『薬師』のギフトを持つ魔女だったし、伯母は高名な聖女だ。従姉も『解析』のギフトを持つ聖女として神殿で活躍している。
リンダローネも農業国では喉から手が出るほど望まれる『豊穣』のギフトを持って生まれている。だからこそ、ロイスリーネが誕生した時、臣下も国民も期待したのだ。
ところがロイスリーネは何のギフトも持たずに生まれた。皆ががっかりしたことは想像に難くない。
面と向かって王女のロイスリーネにそのことを告げる者はいなかったが、臣下たちから失望され、役立たずの烙印を押されていることは肌で感じていた。
――持って生まれなかったんだから、仕方ないわ。
今でこそそんなふうに割り切っているものの、幼い頃は落ち込んだり泣いたりもした。家族の愛情がなければ、あるいは吞気で楽天家な気質でなければ、きっとロイスリーネは卑屈な性格に育っていたことだろう。
――どうにもならないことにくよくよしたって時間の無駄だわ。私は自分にできる範囲のことをすればいいのだから。
ジェシー人形を撫でながら、ロイスリーネは気持ちを切り替えるとエマに声をかけた。
「エマ、この後、公務は何もなかったわよね?」
「はい。宰相様からも変更の連絡はありませんでした。夕食までのんびり過ごされても大丈夫だと思います。リーネ様、お疲れでしたら、少しお休みになられてはいかがですか?」
しばし思案したロイスリーネは、ソファの端に転がっていた本を手に取った。
「昼間から寝るのもどうかと思うので、せっかくだから本でも読んでいるわ。ふふふ、部屋に閉じこもって読書なんて、引きこもり王妃に相応しい行動ね」
『緑葉亭』で聞いた商人たちの会話を思い出し、ロイスリーネはくすくすと笑った。
「引きこもり王妃? なんですか、それは?」
エマが怪訝そうに尋ねる。ロイスリーネは笑いながら商人たちから聞いた言葉を面白おかしく伝えた。
その後は「引きこもりですって? なんて失礼な!」と憤慨するエマを宥めたり、誰もいないのをいいことにソファに横になって本を読んだりして、ロイスリーネはお飾り王妃としての楽しい時間を過ごしたのだった。
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