第10話 移動開始

 打ち合わせと出発準備を終えてから、俺たちは洞窟の出口まで移動した。


 アトリの魔力の回復具合から見て、今はだいたい朝の七時くらいだろうか。木々の間から漏れる光はまだ淡く、気温もそれほど高くない。

 移動を開始するには、最適な時間帯だ。


「じゃ、行くか」

「……はいっ」


 アトリは少し不安そうだったが、懸命に勇気を振り絞って応じてくる。

 それを横目で見ながら、俺は『隠密』と『魔力感知』をレベル1で使用した。


『隠密』をレベル2で使うことも考えたが、どのみちあの洞窟内には俺たちの匂いがすでに残ってしまっている。今更洞窟にいたことを隠す意味はないだろう。

 むしろ、洞窟から一度別方向に臭跡を残しておいてから、『隠密』レベル2で臭跡を消すながら西に移動する――というほうが、魔物たちの撹乱にもなるだろう。


「それじゃ、失礼します」

「……おう」


『隠密』の効果範囲を一人分に絞るため、アトリが俺の腕にしがみついてぴったりと身を寄り添っている。

 やわらかい感触が腕で潰れていかがわしい気分が湧いてくるが、俺は必死に無視して、周囲を警戒しつつ森を進み始めた。

 なるべく音を立てないよう静かに移動しようとするが、運動神経が悪いのか、アトリはやけにもたついた感じで歩みを進めている。


「……大丈夫か?」

「す、すみません……なんだか歩きにくくて」


 ……完全に忘れていた。そういえば、こいつの靴はヒールだったな。

 俺が歩幅を小さくし、よりゆっくりと足を動かすようにすると、アトリはすぐにそれに気づいたようだった。

 嬉しそうに弾んだ声が、甘く耳をくすぐる。


「ほんとに、セツナは優しいんですから」

「……なんのことだよ」

「セツナ、返事に困るとすぐそう言いますよね。ちょっとかわいいです」


 なにを言ってもからかわれそうな気がして、俺は無言で前進を続けることにした。


『隠密』と『魔力感知』をかけ直しながら一時間ほど進み、そこから西に向けて進路を取り直す。

 今度は『隠密』をレベル2で発動させ、『魔力感知』は1のままだ。

 それにしても……


「ぜーっ、はーっ……す、すみません、セツナ」

「無理にしゃべるな」


 息を切らしながら歩くアトリを横目で見つつ、俺は自分の見通しの甘さを呪っていた。


 湿った土の道、木の根っこや石などの障害物、地面の見えない茂み――これだけ歩きにくい道を、一時間もヒールで歩き続けたせいで、はやくもアトリは体力切れを起こし始めていた。

 ただでさえ、アトリは十年以上も砦に幽閉されていたのだ。長時間歩く経験など少なかっただろうし、この点は予測してしかるべきだった。


 正直、このペースで歩いていては、いつまで経っても森を出られる気がしない。

 休憩を挟むにしても、俺の魔力にはまだだいぶ余裕がある。効率を考えるなら、ある程度魔力を減らしてから休みを取りたい。


 …………しょうがない。


「アトリ、腕を離すぞ」

「え……?」


 アトリが親に見捨てられた子どものように、不安そうな表情で俺を見てくる。

 だが俺はそれに構わず、俺の腕に絡んだアトリの腕を強引にほどいた。


 そして――俺は、アトリの身体を横に抱き上げた。

 いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。


「――――っ!?」


 アトリが大声を出しそうになって、あわてて自分で口を押さえていた。

 自制を効かせてくれたことにほっとしつつ、俺は『俊敏』を発動させて西に向かって移動を開始する。


 人ひとり抱えているだけあって、さすがにそれほど速度は出ない。

 だが、少なくともアトリを無理に歩かせるよりは、確実に前進速度が上がっている。

 当のアトリは顔を赤くして目を回しているが、今の内に距離を稼いでおくことにしよう。


 そのまま二時間ほど移動してから、俺たちは小休止を取ることにした。

 茂みが深く、木陰になっている場所に腰を下ろす。二時間もアトリを抱えて歩いたせいか、腕と脚の筋肉がすっかり悲鳴を上げていた。

 アトリも隣に腰を下ろしたが、気落ちしたように暗い顔をしていた。


「セツナ、本当にすみません……わたし、完全に足手まといですね……」

「あー……」


 否定してやることもできるが、きちんと現状認識するのは大事なことだ。

 少し考えた結果、俺は正直に思ったことを伝えることにした。


「……まぁ正直、ここまで移動に時間がかかるとは思ってなかったな」

「うっ」

「この3時間で、移動できたのはだいたい10キロくらいか? 最初のペースだと時速2キロいってたかも怪しいから、ここからは俺が抱えていったほうがよさそうだな」

「うぅ……」


 アトリはすっかり落ち込んでしまったようだが、俺はその頭の上に手をのせた。


「まぁ、このくらいは想定内だ。今は無理だが、街についたらちゃんと体力も鍛えるぞ」

「……そうします」


 そのまましばらくアトリの頭を撫で続けたが、結局、彼女の暗い表情を消すことはできなかった。

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