第8話 洞窟の一夜

 飯を食い終えると、明日に備えてさっさと寝ることにした。


 夜が更けるにつれて、夕方の暑苦しかった空気は急速に冷え、いまや肌寒さを感じるほどになっていた。どうやら日本の夏とはまた気候が違うらしい。

 俺は学ランのまま横になり、隣に寝転ぶアトリを見やった。

 薄布一枚だけをまとったアトリは、こちらに背を向けて寒そうに肩を震わせていた。女は男よりも寒さに弱いと聞くし、彼女からすれば肌寒いどころではないのかもしれない。


 俺は学ランの上を脱ぐと、アトリの上にほうった。


「きゃっ! な、なんですか、いきなり」

「なんですかじゃねーよ。寒いなら寒いって言え。体調崩されたら俺も困るんだよ」

「で、でも……わたしはどのみち戦力にならないし、セツナが万全でいたほうが」

「やかましい。風邪ひいてくしゃみでもされたら、いくら『隠密』で気配断っても無駄になるだろうが。いいから黙ってそれ着とけ」


 強引に上着を押し付けてから、ふと思ったことを付け足す。


「……俺の着たのなんか気持ち悪いだろうが、非常時なんだから我慢しろ」

「そんなことないですっ!」


 妙に力のこもった声で言ってから、アトリは唐突に顔を赤くした。

 身体にかかった上着をつかんだまま、俺のほうへとにじり寄ってくる。


「……本当に、セツナはずるいですね」

「なにがだよ」

「こうやって、すぐわたしを甘やかすところがです」


 アトリはくすりと笑いながら、横たわる俺の腕の中に強引に潜り込んできた。

 重なり合った二人の上に、アトリは掛け布団のように上着をかける。


「これで、どうでしょう?」

「ま、まぁ……お前がいいなら」


 しどろもどろになって答えると、アトリはしてやったりみたいな顔で笑いやがった。


 アトリは俺を抱き枕にでもするみたいに、ぴったりと身体を寄せてくる。

 腹でつぶれされた乳房の蕩けるようなやわらかさと、脚に絡みついてくる華奢な脚。そのやわらかい感触と甘い香りが、俺の理性を一気に溶かしにかかる。布越しに伝わる体温が体中を熱くして、俺の心臓はばくばくとうるさい音を立てていた。


「お、おい。近いんだが」

「……ねぇ、セツナ。わたしも、お返しがしたいです」

「は? な、なにを……」

「セツナなら……セツナになら、わたし、なにをされてもいいんですよ……?」


 熱のこもった瞳で見上げながら、アトリは誘惑するように頬に手を添える。

 震える唇の艷やかさ、潤んだ瞳にこもった熱情、腹に押し付けられたアトリの胸のやわらかさ――アトリのすべてが俺の意識をかっさらい、俺は腕の中の極上の女体のことしか考えられなくなる。


 ――だが、俺は内から湧き上がる獣欲に、意地でも抗った。


 この状況でアトリを襲ってしまうのは、俺が最も忌み嫌っていた『強者による略奪』にほかならない。

 他の連中から奪ったりするのは構わない。だが、俺は――俺だけは、絶対にアトリからなにかを奪ったりしたくなかった。


 理性を必死にかき集めて、俺はアトリの肩を押し返す。


「お、お前……こんな時にふざけんな」

「ふざけてなんか、いませんよ」


 アトリの声はどこか固く、震えていた。

 思わず、彼女の瞳をのぞき込む。熱に浮かされた様子は消え、今の彼女の目には冷たい覚悟が据わっていた。


「この際だから、はっきり言っておきます。魔物の追手は、確実にわたしを狙ってきています。当然、戦力は百や二百では済まないでしょう。よほど運がよくない限り、わたしたちが二人とも無事に森を抜けることは……不可能、だと思います。それほど、わたしたちは非力です。だからこそ……わたしは、今の内にセツナになにかを返したいんです」


 アトリはすでに覚悟しているのだ。

 明日、自分が死ぬことを。


「お願いです、セツナ。わたしに思い出をください。生きててよかったと思える、素敵な思い出を」

「……けんな」

「え……っ?」

「ふざけんな、って言ったんだ」


 俺は暗い怒りをむき出しにして、アトリを突き放した。


「なに勝手に死ぬ気になってやがんだ。こっちはな、なにがなんでもお前を生かすことしか考えてねぇんだよ。それをひとりで終わった気になりやがって……」

「で、でもっ」

「いいから聞け。仮に、ここで俺がお前に手を出してみろ。俺は童貞を捨てて浮かれて油断しまくるだろうし、お前は恩を返して未練がなくなる。そうなったら、二人とも死ぬ未来しかないぞ」

「そんなこと……」

「そんなことない、ってか? いいや、絶対に俺の言った通りになるね。はっきり言ってアトリはめちゃくちゃ美人だし、俺は今だってお前をむちゃくちゃにしたいのを必死で我慢してるんだ。もし、一度でも理性を失ってみろ。俺は絶対に歯止めを失って、明日も一日中洞窟でお前を抱き続けるだろうよ。そんで、真っ最中に敵に見つかって全滅ってわけだ」

「あ、あぅ……」


 俺が大真面目に説明していると、アトリは長い耳を真っ赤にして顔をそむけた。


「だから、今は絶対ダメだ。俺は絶対にお前を死なせたくないし、俺も死にたくない。だから……ここでお前を抱かなかったことを俺が後悔しないように、お前も生きるために全力で戦ってくれ」


 ……腕の中の色香にくらくらしていたせいか、なんだかだいぶ危ないことを言ってしまった気がする。

 見てるこっちまで熱くなるほど顔を真っ赤にして、アトリはすねたように呟いた。


「…………本当に、セツナはずるいです。そんなこと言われたら、信じたくなっちゃうじゃないですか。二人で森を抜けられるって」

「だったら素直に信じてくれ」

「……ひとつだけ、約束してください」


 俺が無言で続きをうながすと、アトリは人差し指を突き合わせながら、恥ずかしそうに切り出す。


「あ、あの…………森を抜けて街までたどり着けたら、ちゃんとわたしのこと、もらってくれますか……?」

「……は?」

「だ、だって、街についたってことは、もう即全滅の危機はないわけで……そ、そそ、それならセツナも、わたしに手を出さない理由はなくなりますよね……?」


 あくまで顔は羞恥で赤くなっているが、その目はなぜか期待するように俺にまっすぐ向けられている。

 正直、アトリが俺に向ける感情は、雛鳥ひなどりの刷り込みのようなものだと思うが……それでこいつが前向きになってくれるのなら、利用しない手はなかった。


「…………考えとくよ」

「はいっ!」


 満面に嬉しそうな笑顔を浮かべるアトリとは対照的に、俺は「どうやってアトリの誘いを断るか」という難問にひそかに頭を抱えた。


 それっきり、アトリはあからさまな誘いをかけてくることもなく、数分ほどですっかり寝息を立て始めてしまった。

 だが、依然として俺はアトリと密着したままだ。彼女が寝相で身動ぎしたり、甘やかな寝言が胸をくすぐる度に、俺の一部が無用な臨戦態勢を取ろうとしやがる。


 俺は悶々としたたかぶりをこらえるように、ただただ、ぎゅっと目をつぶり続けた。

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