カップに口をつけると、紅茶はもう熱いとは言えないくらいくらいの温度になっていた。


 けっこう長い時間、一方的に話し続けてしまったと気付いて、明庭あけにわ先生の顔色をちらりと窺うが、やっぱりその目はどこまでも感情に乏しかった。


 それでも、本来の契約ならばとっくに勉強を始めている時間だというのに話を続けさせてくれるのを見るに、この不思議なお話に付き合ってやろうという気はあるらしい。


 先生の手元を見ると、紅茶はすでに二杯目がなくなりかけている。

 しかし、肝心のクッキーには手をつけないままになっていて、好き嫌いがあるのかもしれないけど、やっぱり少し不愉快だ。


 先生は、けだるそうな口調で話し始めた。


「単純に、驚かせてやろうと考えて後をつけたのではないですか。数学準備室に入ったのを見て、油断したころを見計らって、こう、後ろからがつんと」


 真顔で、なにか重いものを振り下ろす穏やかでないジェスチャーをしているのが面白かったが、別に私は花澄かすみに襲撃されたわけではない。冗談を言うタイプでもないので、本気で言っているのだろう。面倒だけど諸々訂正する。


「私が勝手にびっくりしただけで、別に襲われたわけではないです。花澄は、確かに粗野なところはあるけど、故意に暴力を振るってくることはないので」


 そうでしたか、と涼しい顔をして紅茶を啜る先生に、さらに続けて訂正する。


「それに、それも多分可能性としては低いんです。というのも、特別棟の突き当りの部分には窓が嵌まっていて、その奥にはちょっとした学校林があって、外は本当に暗くなっていたんです」


「つまり?」


「つまり、今日みたいな雨の日には、内側が明るくて外側が暗くなって、窓ガラスが鏡みたいになる現象が起こるんです。ちょうど、夜の電車から外を眺めるみたいに。もっとも、私が鏡の中の花澄の姿を見落としただけといわれればそうかもしれませんが」


 後ろをつけてきたのではないかとは、私もさんざん考えた。だけど、人気の少ない校舎だ。流石にそんなことをされていれば私だって気付くとは思う。


 それに、これは単なる直観に他ならないのだけど、あの時の花澄のしたり顔は、もっと面白い悪戯を仕掛けて見せた時の顔だった。

 論理的ではないかもしれないけど、一年間仲良くしていた相手だ。その直感が大きく外れているとも思わなかった。


 先生はティーカップすらも置いて、扉をノックするように指の背で眉間を叩いている。もしかして、珍しく真剣に考えてくれているのかな。


 じっとその目を覗き込む。


 こういう時にはまつ毛の長さに気付いて不意に胸を高鳴らせたりする場面なのかもしれないけど、別に明庭先生のまつ毛はそこまで長いというわけでもなかった。


 だけど、伏せられていた目が突然私に向けられて。

 私は虚ろなその目の奥に、なにかを期待してしまう。


 不思議な話を持ち掛けておいてこんなことを思うのもなんだけど、やっぱり、これが一番の謎だと思う。


 どうして、この人はこんなに私を惹きつけるのかなぁ。


「では、可能性をどんどん消していきましょうか」


 明庭先生は、なんでもなさそうにそんなことを言った。

 喉を潤すためだけのように、味を楽しむ気もなさそうに機械的に紅茶を口元に運んで。また置く。


 ……可能性を消していく?


「――それって、いくつか方法が思いついているってことですか?」


 驚いて問いかけると、まったく得意気でない、いつもの調子の声が返ってきた。


「そうですね。私が持っている情報は西寺さいでらさんから頂いたものだけなので、条件が少ないんです。安楽椅子探偵を気取るにも、情報に過不足があると真実がぶれますから。

 だから、私はこれから、可能性を挙げて、さらにそれを否定していこうかと思います。勉強と同じで、駄目な解答のどこが駄目かがわかれば、正解に近づいていくのではないかと」


 私が驚いているのは、その可能性をいくつも持っていることなんだけど、どうやらそれは先生には伝わっていないらしい。


 本当、底の知れない人だ。


「ではまず一つ目から。最初に考えたのは、匂いです」


「匂い?」


 先生は袋に綺麗にラッピングされたままのクッキーを指差した。


「アリが行列を作る方法は知っていますよね? 偶然食料を見つけたアリは、巣と食料を往復する際にフェロモンと呼ばれる化学物質を分泌します。他のアリはそれを感知して、辿り、その結果列が生まれるんです」


「なるほど……?」


 突然始まったアリの話になんとかついていこうと、頭をフル回転させる。


「このクッキーは贅沢にバターを使っているからか、その匂いがかなり濃く出ています。それは、私がこの家に来た時にすでにバターの香りがしていたことからもわかります」


 先生はおもむろにリビングの扉に指を向けた。ペットショップのケージに並べられた子犬のように、私はそれを目で追いかける。


「本来、クッキーから香るバター程度の匂いならばすぐに消えてしまうでしょう。ですが、今日という日の天気の特徴を考えると、検討の余地はあるように思いました。西寺さん。この家と、特別棟の共通点はわかりますか」


「共通点……? 入り口が一つしかない、とかですかね……?」


「その情報は初めて知りました」


 どうやら不正解だったらしい。少ししょげながらも、先生の解説に耳を傾ける。


「私の考える共通点は二点。一つ目は、雨が降っていたから窓が閉められてていたのではないかということ。それからもう一点。人の動きが少ないということが挙げられます。つまり、この家と同様に、匂いが残りやすい条件は整っていたというわけです」


 前半部分のアリの喩えはいらなかったような気もしたけど、朧気ながらに先生の言いたいことがわかった。


「もしかして、花澄はその匂いを辿って私を追いかけたんですか?」


 だけど、先生はそれをつまらなそうに否定した。


「一瞬、そう考えました。ですが、それもおかしいことに気付きます」


 私の方こそ、明庭先生の口ぶりに、一瞬それが答えなんじゃないかと考えてしまったのだけど、それをあっさり否定されると、なんだか自分一人だけ踊らされているような気がして釈然としない。


「条件が同じなら、花澄さんは匂いを辿ることなんてできません。理由はシンプルです。西寺さんは今、バターの匂いに気付いていませんでしたよね」


「……つまり?」


「生物学に、ヴェーバー・フェヒナーの法則というものがあります。ざっくりと説明すると、五感というものは主観的なものであるので、その変化に気付くためには実際の変化量ではなく、その変化の割合が重要なのだというものです。

 分かりづらいので例を挙げると、手のひらに乗っている1グラムが10グラムになればすぐに気付くでしょうが、1キログラムが1キロ9グラムになっていても気付かないだろうということです。つまり」


 明庭先生は、間を空けるようにティーカップを傾ける。

 そんな気を持たせる真似をする人ではないから、これは偶然なんだろうけど、なんだか推理小説に出てくる探偵みたいな間の取り方だと思った。


「バターの香りの充満した家庭科室から出てきた花澄さんに、バターの香りを辿ることはできないということです。ちょうど、今の西寺さんが、廊下のバターの香りに気付いていなかったように」


 先生は、変わらない涼しい顔でカップを置いた。


 仮説の立て方やその否定の切り口よりも、それを行うなんでもなさの方に、私は気を取られてしまう。


「こんな調子で、あと二つほど誤答例を挙げていきます。ここまでで、なにか質問はありますか」


 この人が生活してるところ、やっぱり想像できないなぁ。普段、ご飯とかなに食べてるんだろう。


 そんなことを考えながら、ゆっくりと首を横に振った。

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