第32話 素直になれない自分

「さようなら」


 極限まで冷め切った声を残して去っていく陽菜に、俺はただフンと鼻を鳴らして答えた。



 一人残されたこの部屋は静寂に満ち溢れていて。

 この状況にどこか物足りなさを感じてしまった自分に嫌気が差す。

 ―――物足りない?馬鹿な。そんなものを感じている訳が無い。これはただの残りカスだ。


 俺達は普通ならくっ付かないものを、利害の一致という名の接着剤で無理矢理くっつけた関係。

 そこに喧嘩という大きな衝撃が加わり、俺達は別れた。今感じている物足りなさは、接着剤の残りカス。


 こんなのは、気に留める必要もないちっぽけな感情だ。


「―――結局、俺達はくっ付くことの無い存在だったんだよ」


 自分一人しか居ないこの部屋でボソッと口から零れ落ちた言葉は、俺の鼓膜を震わせただけだった。



 翌朝。

 俺は右腕に違和感を感じて目を覚ました。

 なんとなく、自分の腕に触れる。……何も変なところはない。全くの普通だ。

 強いて言うならば、いつも感じていた温かさが無いことくらい。だが、それだけ。

 これが普通。今までの方がおかしかったのだ。


 昨日はあれから夕飯も食べず、シャワーも浴びず、むしゃくしゃした思いを抱えながら眠りに落ちた。

 そのおかげでいつもより早く目が覚めた。

 二度寝するにも微妙な時間。

 ……いつもより早く行くか。


 ゴールデンウィーク明け初の登校日の今日。

 学校に行くことへの億劫さを普通なら感じるはずなのに、俺は学校に行く意欲が高かった。

 理由は簡単。

 この家にいると、陽菜がいないことに違和感を感じてしまう。


 朝食もぼーっとしながら作れば、気付いたら二人分作っていたり。

 お弁当も二つ作っていたり。

 洗濯物を干す時、ついつい陽菜に手助けを求めたり。


 嫌と言うほど陽菜の存在を意識させられる。

 それならいっそ、学校の方がマシだ。授業を受けなければいけないので、別のことを考える必要がない。


「いっ…………はぁ」


 家を出る時、勝手に口が動いて「行ってきます」と言おうとしてしまった。誰も反応しないのに。そんなこと、わかっているはずなのに。

 思わず溜め息が出てしまった。

 頬を両手でパシッと叩き、気持ちを切り替える。

 そして、駅に行くために歩き始めた。いつもより速いスピードになっているのは、気のせいでは無いだろう。



 週の最初の方は大変だった。

 朝一緒に登校していなかっただけで周りから「どうしたのか」と聞かれ、一ヵ月ぶりの質問攻めにあった。そんなに俺達が一緒に登校しないことが意外なのかよ。

 瞬や岩屋にもいろいろと聞かれた。まあ、ダブルデートに誘った翌日にこんな風になってるんだから、気にはなるか。ちょっと申し訳ない。

 彼らに昼食に誘われることもあったが、丁重にお断りしておいた。やっぱり、俺は人と関わるのを避けたいらしいな。


 だが、そうやって色々聞かれるのは最初のうちだけだった。

 ちょっと経てば、気を遣ってくれたのかわからないが、陽菜のとのことについて聞いてくる人はいなくなった。


 これで、完全にぼっちに戻ったな。

 でも、後悔はしていない。俺にはこっちの方が合っていたというだけだ。

 あれからというもの陽菜とは口を聞くどころか目すら合わせていない。

 偶に駅で見ることがあるが、お互い不干渉といった感じだ。

 恐らく、これが正しいのだろう。これが普通。


 もう陽菜に対して、何も思っていない。

 

 俺達の関係は、完全に「他人」だ。


 そして、日曜日になった。

 俺は久し振りに本屋に来た。陽菜がいた時はそんな余裕がなく、最近は全然来れていなかったのだ。

 遂に解禁された本屋で何冊か購入した帰り、ふと俺の目にあるものが留まった。


 ―――それは定期券だった。


 まさかこんな短期間で二度も拾うことになるとは。

 その時、俺の記憶がフラッシュバックした。


 それは、陽菜との記憶。

 俺が目を背けていた、楽しかった日々の記憶。

 一緒に登校した時のことや、陽菜が初めてうちに来た時のこと。一緒にゲームをしたり、一緒に寝たりもした。温泉に行く計画を立てた。陽菜のお父さんと交渉して、同棲の許可をもぎ取った。姉ちゃんと一緒に夜ご飯を食べて、二人が酔っちゃったこともあったっけな。そして―――あの夜頬に感じた、柔らかい感触も。

 全部全部、楽しい思い出だった。

 それぞれに色があり鮮やかな日々。でも、今は黒一色でできている。

 暗闇の中にいるような、そんな日々。陽菜と出会う前も、こんな感じだったな。


 だが、陽菜がいた時は違った。

 まるで、太陽に照らされているような、明るくて、目に入ってくる情報量がとてもとても多い日々。俺はそんな日々を、楽しいと思っていた。


 何が「二度とお前と関わるのなんてごめん」だ。


 素直になれよ、俺。


 本心ではどう思っているんだ?

 本当にそんなこと考えているのか?





 ―――そんなわけ、ないだろ。



 ずっと一緒にいたい。

 これからも、暗闇の中にいる俺を照らしてほしい。


 ―――やっぱり、俺は陽菜が好きだ。


 悲しませないと決めたのに。

 たった一つの失いたくないものだったはずなのに。


 俺は、本当にしょうもないクズ野郎だな。


 昨日の喧嘩だって、俺の醜い嫉妬が原因だ。完全に俺が悪い。

 陽菜なら自分が親切にされていることくらいわかっているはずだ。あれはただの冗談。今ならわかる。陽菜はそんなこともわからないような人じゃない。

 でも、昨日の俺はそんなこともわからないようなクソ人間に成り下がっていた。

 ただ陽菜が瞬のことを褒めただけで、大袈裟に嫉妬していた。


 本当に大切なものは、失ってから気付く。

 だが、失う前から気付いていたならばそもそも失わずに済むかもしれなかった。

 俺は知っていたはずだ。陽菜が大切だということを。

 ―――なのに、自らそれを捨ててしまった。


 後悔してもしきれない。

 時間を戻せるなら、なんとしてでも戻したい。

 だが、それは不可能だ。

 事実として、俺達はこうして「他人」となっている。


 ―――ならば、頑張って関係をやり直す。意地でも元に戻して見せる。


 俺はいつの間にか流していた涙を自分の腕で拭き取り、両手で頬を叩く。

 この前より強く、自分を罰するかのように。




 決めた。

 俺は素直になる。

 自分の心に正直になる。






 翌日の放課後。

 俺は陽菜と関わるきっかけとなった場所―――陽菜の定期を拾った場所に立っていた。

 しばらくそこに立っていると、お目当ての人がやってくる。

 その人は俺の姿を見つけるが、特に反応はしない。……まあ、予想通りだ。あんな風に喧嘩したんだから、当然だろう。

 そしてその人はそのまま俺の前を素通りしようとするが―――俺はその手を掴んだ。しっかりと、二度と自分から離さないと誓うように。


「……なんですか」


 睨むような目で見られる。

 だが、俺は素直になると決めた。こんなところで臆するわけにはいかない。

 小さく息を吸い―――









「―――好きだ、陽菜」





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