第33話 大好きな表情(陽菜視点)
「さようなら」
そう言い残して、私は先輩の家を去った。
私は悪くない。
ただちょっと冗談を言っただけで怒る先輩が悪い。
ここ一ヶ月、ずっと居た家を去るのは少し寂しいけれど、元々はあり得なかったこと。先輩が優しかったから―――いや、先輩は優しくなんてない。優しかったら、怒らないはずだ。
私はもうこれ以上ここに居たくない一心で、ただひたすらに歩いた。
既に外は暗く、道を照らすものは月明かりと街灯のみ。そんな道を私はスタスタと早足で歩く。
駅に行く為の道と、自分の家に帰る道の二つが存在する分かれ道に着くと、私は一旦足を止めた。
いつもここに来る時は先輩と一緒にいて、駅に行く道を歩くことしかなかった。
でも、今私が行くのはそれとは別の道。実に、一ヶ月ぶりに歩く道だ。
普通ならここで感慨深いものを感じたりするかもしれない。だが、今は怒りでその感慨深さを上塗りしてしまう。
結局一瞬しかそこに止まらず、私は家に続く道を歩いていった。
家に着くと、それはもうひどい有様だった。
床には脱ぎ散らかした服。棚を見れば簡単にわかるほどの埃が積もり、流しには無数のカップラーメンの器が重なっている。
さっきの喧嘩での怒りとこの部屋の汚さで私の気分は最悪だ。
風呂場に行って浴槽にお湯を貯める。その間にスーツケースを部屋に上げ、足で衣服をどかしてスーツケースを広げた。
無理矢理詰め込んできたものを取り出し、床に並べる。そして並べた中から着替えを選び、風呂場に行く。
並べている間に浴槽にお湯が十分に溜まっていたので、服を脱いでシャワーを浴びた。
いつもと違うシャワーの水が、少しだけ冷たい気がする。
頭と体を洗い湯船に浸かると不意に眠気が襲ってきた。暴走しそうなほどの怒りを鎮めるために、私はその眠気に身を任せた。
夢を見た。
先輩と一緒に過ごした日々の記憶。
定期を届けてくれた時の不自然な笑みや、先輩が私のことをからかった時の楽しそうな表情。膝枕をしてもらった時に見た、私を惚れさせた笑顔。夜寝るときに先輩の腕に抱きついた時の驚いた顔。お父さんと話し合いをしている時の、真剣な表情。
その全部が、好きだった。
でも、さっき見た表情は、この中にはない。初めて見る表情だった。
初めて見る怒った顔は、私に向けられていて―――
気付いたら意識が風呂場に戻っていた。どうやら、本当に寝ていたみたいだ。
やっちゃった。
お風呂の中で寝たら危ないのに。
失態を犯してしまったことに、私は小さな溜め息をつく。
―――すると、口の中が少ししょっぱいことに気がついた。
え?
思わず口元を押さえる。
だが、その押さえた手には、二本の、ただの水滴ではないはっきりした線が描かれていた。
その線のうちの一本を辿っていく。
辿り着いたのは―――目。
「う、嘘……」
私、今……泣いてる?
嘘だ。そんなはずはない。
そもそも泣くようなことなんて……
そして私は、先程まで見ていた夢を思い出した。
見ていたのは、そう―――先輩との思い出。
嘘だ。だって私は……
先輩のこと、もう嫌いなはずなのに。
なのになんで。
―――なんで涙が止まらないの?
嫌いなはずなのに。
もう顔も見たくないと思うのに。
でも、ずっと先輩の顔が頭から離れない。心臓がきゅーっと締め付けられて、どんどん痛くなる。
忘れたいのに。
傷ついて、傷つけて。
一緒にいることも辛いのに。
でも―――
「―――もう一緒に居れないなんて、やだよぉ……」
大好きな人の。
自分が初めて恋した人の、大好きな表情は、もう見れない。
嫌いになんかならない。なれるはずがない。
忘れられるわけがない。
だって―――
―――あんなに好きになったんだもん。
それから一週間が経つ。
私は先輩と極力近づかないようにしていた。
私に先輩といる資格なんてない。
あの時の喧嘩の発端は私だ。
先輩をからかおうと思って瞬先輩を引き合いに出したせいで、先輩を不機嫌にさせた。
悪いのは私。
先輩は悪くない。
だから、私は先輩の近くにいる権利が無い。
先輩を見つけて駆け寄りたい衝動も抑え。
一ヶ月間過ごした、あの思い出の詰まった家に戻るのも我慢して。
手作りのご飯じゃない不味いカップラーメンを貪り。
そうやって距離を置いてきた。
これは自分への罰だ。
そう言い聞かせて。
だから、あの場所に先輩がいた時は驚いた。
私が定期を落とした、その場所に。
どうしたんですか?と、先輩に聞きたい。
でも、私達は「他人」。
普通なら関わることのない人。
そして先輩の横を通り過ぎる時。
―――腕を掴まれた。
へ?
呆けている私に、先輩は告げた。
「好きだ、陽菜」
え?
なんで?
あんなにひどいことを言ったのに。
私には先輩と一緒にいる資格なんてないのに。
それなのに、なんで……
私を側に置いてくれるの。
気付いたら体が動いていた。
でも、止めようだなんて思わない。
だって、だって。
「私も好きです、せんぱいっ!」
私は、先輩に抱きついていた。
あったかい。
ずっとこのままでいたい。
離したくない。
二度と、離れたくない。
「俺と、付き合ってくれませんか?」
「喜んで」
ありふれていて。
それでも、私達らしい、どこか不器用な告白。
少し離れて先輩の顔を覗くと、そこには―――
―――大好きな先輩が、大好きな表情を浮かべていた。
そして、私達はどちらともなく、顔を近づけて―――
生まれてはじめての、キスを交わした。
はじめてのキスは、何味だったか。
それは、人によって違うだろう。
私達の場合は、少ししょっぱく、でも、脳がとろけそうな程、甘美だった。
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