第23話 アイデンティティ・クライシス
シャリ、シャキ……。
「……ん……」
シャリ、シャカ……。
金属同士がこすれ合うような音が聞こえ、
何かと思って首を巡らせてみれば――まるで黒い雪のように、音もなく舞い落ちる――
髪の毛。
窓から射し込む朝の光に照らされ、自らの髪を切っている少女の姿が目に入った。
「あんどー……さん?」
肩までの長さに切り揃えられた黒髪、露わになった細くて白い首。シャープなラインを描く顔立ち。伏せられた両目は表情を物憂げにしている。陽の射し込む暖かな光景に陰を落とすような――彼女らしい、どこか鬱屈とした横顔。
こうしてちゃんと目にするのは初めてで、ベッドから身を起こしてまじまじと見つめてしまった。
すると
「……そうやって、見るから」
――嫌だったのに。
と、続きそうな口調だった。
(――美人だもんなぁ……。そりゃあ見られるよ。見ちゃうよ)
でも、そうやって見られることが苦痛だったのだろう。
美人であることも得ばかりじゃない。異性からは好まれても、同性から疎まれることだってあるだろう。暗藤は高等部からの編入組のようだから、それまで通っていた共学でそうした経験をしたことがあるのかもしれない。
義理の父親とうまくいかなかったことも、あるいは。
それでも。
「前髪だけ切って、普通にロングにしても良かったのに。けど――似合ってるよ」
「……うるさい……」
美人を隠すのは、やっぱりもったいないと思うから。
「可愛い」
「…………」
「ちょっと待てちょっと待て、ハサミやめい! ハサミ!」
そっぽを向く暗藤の照れ顔があまりにも心に響いたのでからかっていたら、冗談では済まなくなるところだった。
「それにしても、ばっさり切ったなぁ……」
「……別に、お前に言われて切った訳じゃないから。ただ、暑くなってきたから」
「まあ……俺の挑発がうまく功を奏したということにしておくかな。長髪だけに」
「……少し寒くなったかも」
「髪切ったからじゃない?」
暗藤の反応に少しだけ笑ってから――
「……でさ、その……床に落ちまくってる髪の毛、どうすんの?」
「…………」
「せめて新聞紙でも敷いてから切れば良かったのに」
きっと勢いが必要で、後先考えていたら進めなかったのだろうけれど。
「だけど……ちょっと、困ったなぁ」
「……なんで」
「このままビデオ出演となると、ワカさまが俺に嫉妬しちゃうと思うんだよね」
自分が言っても聞かなかったのに、歩子に言われたら髪を切る――
あの性格だ。可愛らしく拗ねてくれるに違いない。
ただそうなると、ロクに話を聞いてくれない可能性もある。
「というか……私、ビデオに出るとか言ってないから」
「決意の断髪じゃなかったんですか」
むしろ企画を潰すための断髪なのか。
「うっとうしかっただけ」
お節介も、少しは功を奏したのか――
「……手入れとか、面倒だったし」
「そうなんだ……」
最後の方は間違いなく本音だった。
■
ぱたぺたという足音が二人分、校舎の廊下に響く。
「俺の――こほん、私の計画はこうだったの。暗藤さんの学校生活を
「暗藤さんをメインで撮る必要があるんですの?」
「やっぱり暗藤さんいた方がワカさまも映像に興味を持ってくれるはずだわ。それに暗藤さん効果で、ワカさまも学校に行こう、手術を受けようと思ってくれるはず。そうなるように話をつける」
「……まあ、百歩譲ってそれは認めるとしましても――」
「あぁ……だけど、暗藤さんは髪を切ってしまった。今の暗藤さんを撮ると私の計画的に支障が出る」
「確かに、あの髪でなくなっていたから、朝食の時は見かけてもすぐには気付きませんでしたけれど……別に、構わないのでなくて?」
「ダメなんだ。昔、ワカさまは暗藤さんの髪を切ろうとしてたらしくてさ……ワカさま相手には断ったのに、私が言ったら切ったとなると、ほら、ワカさまのことだからきっと機嫌を損ねて話聞いてくれなさそうだから」
「ワカさまなら……なるほど。ついこのまえ会ったばかりですのに、歩子さんもワカさまのことをよく分かってますわね」
「それくらいしか特技と呼べるものがないもんでね。……まあ、そういう訳でさ、私に嫉妬しちゃって、もしかすると拗ねて、軽くヤケになるかもしれない。暗藤さんは私のことなんてもうどうでもいいんだーって具合に。……暗藤さんが会いにいってくれれば、髪を切ったこともワカさまの期待に応えるためってことでいい感じにまとまると思うんだけど……」
「暗藤さんは会うつもりもなければ、映像に出るつもりもない、と」
「困ったことにな。自分の元気な姿を見せちゃったら、ワカさまが安心して……手術を受けない、そのまま死ぬことを受け入れるんじゃないかって考えてるんだ」
思い残すことがなくなって、なんて。
教室のある廊下に入る。
「でもまあ、それは私も一理あるって思ったから、無理強いは出来ない。心のつかえがとれるっていうか……暗藤さんにとってあの髪は、自分を守るためのもので、人を遠ざけるためのものだ。ワカさまもそれは知ってると思う。というか、ワカさまも似たようなものだから……そうだからこそ暗藤さんのことを気にかけてるんじゃないかな」
「……猫かぶりですわね」
「そういうこと。人見知りレベルで言えば暗藤さんの方が上だろうし。けど――その暗藤さんが、髪を切った。……これはワカさまにとって、もう自分がいなくても暗藤さんは大丈夫って、ちょっとした寂しさもあるだろうし……やっぱり、安心して、思い残すことがなくなっちゃうと思うんだよ」
「……ふん」
「いや、別にお前のことはどうだっていい訳じゃないって。ちゃんと気にかけてるさ。だから昨日、あんな『質問』をしたんだ。私はワカさまの期待する答えを返せなかったけど――」
「質問?」
「……良い意味で、お前のことは心配してないんだよ……たぶん、お前がいたから、ワカさまは暗藤さんを"気にかけられる余裕"を持てた。ワカさまにとってお前は特別な友達だと思うよ。暗藤さんとはまた別の意味で」
「……最後の方が引っかかるのだけど」
「お前に憧れてる……というのは違う気がするな。対等な存在……? かな。一方で暗藤さんの方は……なんだろう、手のかかる後輩とか妹?」
「なんとなく分かりましたわ。つまりわたくしの方が上ですのね!」
「……まあそういうことでいいよ」
校舎に入ると、遠くから人の気配が伝わってくるようになる。
「――ともかく、髪を切った暗藤さんを撮るのはあまり効果的じゃないと思うんだ」
「それこそ、自分は必要ないって拗ねてしまいそうですわね」
「会いにいってくれるならまだ説得のしようもあるんだけど……気まずいみたいで。それも、分からなくもないから、やっぱり無理には連れていけない。……でも、登校はしてくれるらしい。そこで俺は考えた」
「本題ですわね」
「そう、お前がかつらをつけて暗藤さんのふりをするんだ」
女装用のかつらを前後逆に装着し、綾野は現在、ホラー映画のヒロイン(?)のようにやたらと長い前髪をしている。これで猫背になれば、遠目には暗藤と区別がつかないはずだ。
「この作戦は暗藤さんの存在が重要だ。ワカさまがいなくなってからというもの、暗藤さんは寮に引きこもって不登校気味。その暗藤さんが、ワカさまのために頑張って登校した……という感じでいく」
「登校したはいいけれど、見ていると心配になるように振る舞えばいいんですのね」
「そうだ。暗藤さんにはまだまだワカさまが必要だって感をアピールする。映像を見せながら、暗藤さんがワカさまの帰りを待っていて、ワカさまの帰る場所を守るために寮で怪談騒ぎすら起こしてるって話もする。心配をあおってあおってあおりまくるんだ」
今の暗藤を見ればその心配も吹き飛ぶだろうが――
とにかく和花が学校に戻ってさえくれれば、こっちものだ。
当の暗藤は一人で先に行ってしまったが、あれはおそらく勢いが必要だったからだろう。
ひとがせっかく準備を整えて、じゃあ撮影しようというその日の朝だったのだが、これは良い兆候だ。
(誰かに何か言っちゃったり、やっちゃったりして、気まずくなるっていうのは俺も嫌というほどよく分かるけどさ……)
その逃避や気まずさは「後悔」から来るもので、暗藤の場合それはまだ取り返しのつくものだ。直に会って話し合ったり謝ったりすれば解決できる。
だけど、もしも解決しないまま抱え続ければ、それはいつまでも彼女の心に〝しこり〟として残り続けるだろう。「心残り」というやつだ。
それがあるから和花はいつまでも自分のことを気にかけ続ける――暗藤のそれは、絆を鎖に、過去を重荷に変える、不健全なものだと思う。
(それもこれも、ワカさまが戻ってきてくれて、暗藤さんと会えば……なんとかなるのかな)
なんとかなるのだろう、きっと。
お互いに思い合っているのだから。
■
教室が近づいてくると、空気がざわつくのを感じて歩子は微かな緊張を覚える。
いよいよ〝本番〟だ。
とはいえ、別に歩子が何かをする訳ではないのだが――
(暗藤さんはちゃんと綾野の席に座ってる。これから撮影する映像は綾野が撮ってるって体でいくからこれでいいんだけど……)
ただ、綾野の席に見慣れない顔が座っていることで、クラスメイトたちがしきりにそちらの様子を気にしている。暗藤は準備万端といったように机の上にカメラを仕込んだ鞄を置いているものの、歩子の目には委縮しているように映った。
「みんな、たぶんほぼ全員が、暗藤さんの素顔を見るのは初めてなのですわ……。それでもなんとなく暗藤さんだと分かるでしょうけど……そこに今のわたくしが現れたら」
想定していた事態ではあったが、暗藤の様子が心配だった。
偽暗藤こと綾野が現れれば注目は分散するかもしれない。しかし、第二の暗藤の登場にざわめく教室の空気が、映像の中で不自然に映ってしまうと困る。
(まあ
他にもう一人くらい協力者を用意しておけば良かったかな、などと思っていた時である。
「あなた……暗藤さん、よね……?」
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