第12話 花のように可憐で、猫をかぶったように可愛く(1)




 綾野あやのの母親――おばさんが亡くなったのは今から五年ほど前、振り返ってみると長く感じるようでその実あっという間な、小学校六年生への進級を控えた春のことだ。


 ただえさえ母の死で塞ぎ込んでいた綾野はその春、立て続けに愛犬のダックスフント・どっくすを亡くしている。


 幼い頃から一緒で、おばさんが入院し心細かったであろう綾野の支えだったどっくすは、ある朝、眠りについたまま動かなくなっていた。


 涙すら忘れて呆然としていた綾野を憶えている。


 おじさんが綾野を美知志みしるしの中等部に進学させたのは、それからすぐのことだ。


 美知志学園には学生寮があり、そこなら栄養バランスの配慮された食事も出るし、何より周囲に人がいる。綾野を誰もいない家で一人にさせるよりは、という考えだったのだろう。


 とはいえ、綾野は中等部に上がるまでの一年間、おじさんがたまに帰宅するだけの自宅でひとり、生活していた。

 あるくの母がときおり様子を見て、差し入れをしたり食事に誘うこともあったが、綾野はなぜかそれを断り、歩のことも避けているのか、学校が違うのもあって滅多に会うことがなくなった。


 そして、歩が中学に進学し周りの目を気にして女子と付き合うのが照れくさくなった頃、美知志の学生寮に入った綾野とは休日に姿を見かける程度というところまで関係が希薄になっていた。


 だから少しだけ、顔をあわせることがこわかった。


 仮に会ったとしても、どんな風に言葉を交わせばいいのか。


 ――それは、彼女も同じだったのかもしれない。




                   ■




「ワカさま、起きてるかしらー?」


 ベッドの端に腰かけ、こちらに体を向けていた少女が顔を上げた。

 その背後にある窓から風が吹き込むと、涼しげな印象を受ける短めの黒髪がさらりとなびく。思わずといったように髪を押さえた手は細く、青白い肌には血管が浮かんでいた。


 顔立ちは中性的。髪型もあってともすれば少年のように見えるが、シャツ越しにも分かる胸のふくらみがそれを否定している。


 吊り目がちな瞳が綾野を映すも、視線はすぐに伏せられ、膝の上にある文庫本を名残惜しむように撫でてから再び綾野を捉えた。


「…………、」


 ふと、軽く見開かれる目、視線が揺れる。綾野の後ろに隠れる歩子あるこに気づいたのだろう。それまで感情が窺えず冷ややかだった表情に熱が宿る。目を細めてやわらかく微笑んだ。穏やかで、見ているこちらまでつい微笑み返しそうになる可憐な笑み。


(この子――、)


 知ってる。見覚えがある。

 だいぶ印象が異なるものの、知らない顔ではない。


 立ち尽くす歩子を置き去りにするように、綾野は病室に踏み込んだ。


「今日は転校生を連れてきたのですわ――」


 さっきまでのしんみりした空気が嘘のようなハイテンション。そういえば今はこういうキャラだったと思い出し、歩子は我に返った。

 どういう口調であるにしろ、綾野が明るく元気でよかったと、少しだけ安堵する。


「そういえばそんな話をしてたね、綾野さん」


 霧開きりひら和花わかは思い出したようにくすりと笑みを漏らし、片手で口元を覆った。

 雰囲気といい、そのお上品な仕草といい――


(お嬢様すぎる……!)


 綾野のような色モノと違って、こちらは正統派、〝深窓の令嬢〟とかそういう言葉が似合いそうな美少女だ。ここにきてはじめて、心の底から「お嬢様」と思える少女に出逢った気がする。短い髪がやや残念だが、見た目の印象など補って余りあるその所作に惚れ惚れする。


 おまけに病弱設定まであるのか、口元を隠したまま小さく咳き込んでから、思わず守ってあげたくなるような弱々しい笑みを歩子に向けた。この女装男とは大違いだ、と他人事のように思う。


「ごめんね、綾野さんが無理やり連れてきたんでしょう? 彼女、ひとの都合とか考えないから。迷惑かけちゃったわね、えっと――、」


 和花が言いよどんだところで、綾野が「紹介しますわ」と口を挟んできた。



――女装して学園に転入してきた、わたくしの幼馴染み、御園辺みそのべ歩ですわ!」



 ………………………………………………………………………………………………、



 一瞬、綾野が何を言ったのか分からなかった。

 完全にフリーズしていた。


 しかし歩子の思考はすぐに再起動する。

 シーンと落ちる沈黙は和花の反応待ちだ。

 得意満面といった顔でこちらを示している綾野も和花の顔を見つめている。


(綾野のやつ何考えてるんだよ……!? 気付かれたのは仕方ないにしても、赤の他人の前でバラすなよ! そこはせめて幼馴染みのよしみで……、)


 この状況でヘタに口を開けばむしろ不信感を抱かせるに違いない。ここは彼女の反応を窺ってから、どう取り繕うかを判断するべきだ。


(…………、)


 やたらと長く感じられる時間の中、焦りが募り汗が滲む。額から流れるそれが、本心を隠すメッキじみた表情を溶かさないかと不安だった。


「えっと……、」


 きょとんとしていた和花の唇が花開くように綻ぶ。



「あ、そう……。幼馴染みなら綾野さんのわがままにも慣れっこなのかな。相当苦労してきたんでしょうね、えっと……御園辺さん」



 和花はこちらの返事を求めるように小首を傾げてみせた。

 その仕草の可愛らしいことといったら、そこのエセお嬢様にも見習ってほしいところだ。


「いや、ワカさま? 反応すべきはそこじゃないのですわ」


 さすがの綾野もこればかりは戸惑っていた。


「と言われてもね、いきなり女装してるとか……、」


 和花の視線が歩子の表面を滑る。歩子は平静を装いながら綾野に近付いて、その背中を軽くどついた。


(こいつとは後で話すとして……。とりあえずこの場はなんとか乗り切れそうだな)


 それでも疑いの種は蒔かれてしまった。叶うならこのまま〝歩子〟として和花とは親しくなりたかったのが、これでは難しいだろう。


(美少女とはいちゃいちゃしたいけど、蔑まれて喜ぶような趣味はない)


 そういうリスクを冒す価値のある美少女ではあるが……そんな子だからこそ、なるべくなら〝歩子〟のまま別れたい。


「御園辺さん?」


 不意に声をかけられ、我に返る。不満げな顔をしている綾野の横で笑顔を取り繕う。


「ちょっと、近くに来てくれるかな?」


「?」


 やっぱり疑われているのだろうかと思いながらも、手招きされて拒むのも躊躇われ、歩子はベッドに近付いた。

 和花のハーフパンツから覗く太腿が、すらりと伸びた生脚が目に入った。和花の顔を直視できなかったのだ。

 裾口の広いパンツから伸びる太腿は薄く、肉感的ではないものの十分に魅力的だった。スリッパを脱いでぶらぶらと投げ出された両足は、まるで退屈を持て余した子供のようだ。お淑やかな印象とのギャップを感じられて微笑ましくなる。


(……こういう子にはやっぱり嫌われたり気持ち悪がられたくないなぁ……。しかし〝女の子同士〟という形で仲良くしたくもある……)


 男として接するよりも、同性同士の方がより近付けるし、"良くも悪くも"彼女のいろんな姿を拝めることだろう。この数日の経験がそう語っている。


(俺は紳士だから、見るだけで満足するのです)


 なるべく明るい考えで頭を満たして気分を上向けてから、自然な笑顔を浮かべて顔を上げ、和花のそばへ――



「あぐっ……!?」



 瞬間、目の前に星が散った。

 和花の笑顔が夜空のような輝きを放っていた――というわけではない。



 蹴られたのだ。……股間を。



「うわ、」


 驚いたような声が聞こえ、和花の足下で這いつくばるような格好になった歩子は歯を食いしばって痛みを堪えた。痛みが引くのをただ待つしかない。せめてこれ以上、無様な姿は見せたくなかった。


 涙で歪む視界の隅に青白い素足が無防備に晒されている。にぎにぎと指を開いたり閉じたり、まるで何かの感触を確かめているかのよう。


(き、貴重な経験をさせてもらった――とか思える心境じゃないしそんな趣味はない……っ)


 片肘を床につき、もう片方の手でなんとか身を起こす。まだ取り繕える範疇だと信じながら――



「ほんとに男なんだ」



 致命的な一言に、心が屈した。



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