第10話 おしゃかになる。
「……?」
気が付くと、目に入る見覚えのある天井。遅れて、自分がベッドに寝かされていることを把握した。
「…………」
「さっ、さだ……!?」
「誰よ」
猫背がちなうえに長い黒髪が顔を覆っているせいで寝起きには悪霊のたぐいにしか見えないものの――それは、
ベッド横に置かれたパイプ椅子に座っており、膝の上には教科書が乗せられている。
「暗藤さん……? え? 夢? まさかの夢オチか!?」
「は……? 頭打っておかしくなったの?」
「頭……、」
言われてはじめて、後頭部と鼻のあたりに痛みを覚えた。後ろに手を回してみれば、痛みの感じる位置に小さなこぶができている。痛い。触らなければ良かった。
「もしかして、ほんとに憶えてない? ここは保健室。お前は体育の授業で頭を打ってここに運ばれてきたの」
「あぁ――、」
少しずつ、何があったのか、ほつれていた糸が絡み合ってたしかな記憶へと繋がっていく。
そうだ、午前最後の授業、体育――そこで、なぜか、いたのだ。
おじさんが。
■
はじまりは、ある女生徒が体育館の入り口に不審な影を捉えたことだ。
それがみんなの見知った女性教師の誰かであれば、ことはこうも大きくならなかったはずだ。
その人影、学校でも数少ないどころか、歩子が転入してきてから一度も目にしたことのない――男性、だったのだ。
お嬢様学校とはいえここも一つの施設で、となれば様々な作業をするのに男性の力を必要とすることもあるだろう。そのために、学園には数人の男性作業員がいる。その一人が、あろうことか体育館で運動する少女たちをこっそり覗き見ていたのである。
哀れ――歩子としては自分のことのようで気が気ではなかったのだが、しかし自分のことではないから心のどこかで安堵し、同情だけしていた。
それが心突き動かすほどの動揺へと変わったのは、
「ち、違うんだ……! 私はただ娘の様子が心配だっただけで……!」
……聞き覚えのある声が、言い訳がましい台詞をのたまったことがきっかけだった。
「ん……!?」
歩子は我が耳を、そして目を疑った。
その声、そして作業服をまとい帽子やサングラスをつけてはいるが、なんとなく分かる――あれは、おじさんだ。
「別に不埒な目的から覗いていたのでは……!」
「はい言質! 今この人、〝覗いていた〟って言いましたー!」
この世に
ついでに言うなら――
「
……え?
■
「……そうだ、ガチ目に試合してた女子バレー部員のスパイクほど恐ろしいものはない……」
試合に夢中になっていて、外野の騒ぎをそこまで気に留めていなかったのだろう。
それが不意に、集中が途切れたのか。
狙いの外れたボールが歩子のもとに飛んできたのだ。
おじさんの出現に慌てて腰を浮かせていたのも悪かったのだろう。
それはまあ、起きてしまったことだから仕方ないとして――
(おじさんはいったいなぜ……。というか
気になることがありすぎて、何から確認していけばいいのか分からない。
そんな歩子の慌てぶりから何か察したのか、脇の暗藤が、
「気を失ったお前を、〝保健委員〟と、作業着の男が運んできたのよ」
「……あぁ……」
これもう終わったな。
歩子をここまで運び込んだ二人のこともそうだが、何より――
「…………」
気付けば伊達メガネもマスクもしてないし、そもそもジャージを着ていない。誰かに脱がされたのだ。
「血塗れだったもの」
鼻が痛いのもそれが理由か。顔面レシーブによって転倒、ついでに頭もぶつけたとかそんなところだろう。この髪は外れなかっただろうか。これからこの学校でずっと後ろ指さされて生きて行くのかな。
気分は沈むが、ふと、目が覚めたとき隣に暗藤がいたという事実に思い至る。
「……あの、暗藤さん? つかぬことをお聞きしても?」
「……何」
「つきっきりで看病してくれたとか?」
「どこの誰がお前なんかに何時間も付き添うのよ」
あれからそれだけの時間が経っているのか。見れば、ベッドを覆うカーテン越しに夕日が射し込んでいる。
「……じゃあ、誰が俺を――いや、私を、こんなあられもない姿に?」
カーテンのせいで分からないが、保健室には他にも誰かいるかもしれないと思って口調を変えてみる。しかし、もはやその必要もないのだろうか。
おじさんであればまだ救いはあるが、だとしてもあまり期待はできない。
「……
「先生は……」
暗藤がちらりと、カーテンの向こうに目を向ける。
「お前を診て、しばらくしてから職員室に」
……終わったー。
今なら悟りを開けるかもしれない。そんな無我の境地。諦めの表情は菩薩のそれに似てはいないか。いないか。そうか。意味もなく何度も頷く。涙が込み上げてきた。
油断していたのは否めない。だけど、まさか、こんな……呆気なく。
これまでの努力が水泡に帰すなんて。
というかこれからの人生がお先真っ暗になるなんて――
これはもう、悟るしかないだろう。
「――あら、目が覚めた?」
はい、現実を見据える準備は出来ています。
「……ところで、私の携帯どこに隠してるの」
「うるせえやい!」
■
そして――放課後である。
「…………」
学校前のバス停で、園辺歩子は市営バスを待っている。
このバスは
それから、隣にもう一人。
「おほほ、高等部の生徒が珍しいのですわね」
「……ソウデスネ」
バスを待つ。
……まさかこんなにも早く、この学園を出て行くことになろうとは。
日常へと帰る、バスがやってくる。
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