第9話 記憶喪失数時間前
それから、数日が過ぎた。
二日目からの学校も難なくやり過ごし、三日目、四日目ともなれば、転校生として注目される頻度も減っていった。このまま
その日が来るまでは。
「――何してるんだ?」
気配を感じたので目を開けてみれば、すぐそこに暗藤の顔があって、歩子のベッドを覗き込んでいた。
「……おはようのちゅー?」
「別に、何も」
「……携帯は渡しませんよ?」
実はさっきから目は覚めていて、暗藤がひとのベッド周辺で何かしていたことには気付いていた。ぼんやりまどろんでいたら暗藤が覆い被さってきたのだ。大方、また例の携帯を回収しようとしていたのだろう。
「あんなもの持ってたら、変な誤解を受けるのはお前よ」
「……〝あんなもの〟っていう自覚はあるんですね」
部屋に置いておくと暗藤に奪われかねないなと思いながら、歩子は起床した。
汗で濡れたパジャマが少し気持ち悪い。
(シャワーでも……、)
この学園には大浴場の他にシャワールームがある。個室になっているため、安心して汗を洗い流せる。タイミングさえ見計らえば誰に見られることなく利用できるのもありがたい。
とはいえ、朝からシャワーを浴びるなんて贅沢をしている暇はない。最近、母の気持ちがよく分かるようになってきた。なるほど女性が出かける前、準備に時間をかけるのはこのためか、と。
(念のため〝三分でそれっぽく見える女装メイク〟やっとかないといけないし……)
そこでふと、前髪のあいだからこちらを窺う暗藤の存在に気付く。
(……結果オーライというか、こいつにバレたのは今思うと良かったのかもな。お陰でわざわざトイレで着替えたりしなくて済む)
正直、自分の正体を知っている人間がいるということはありがたい。
部屋では多少気を抜いて過ごせるし、朝の準備も堂々と出来る。
一応相手は女子なので気を遣う部分もあるが、男であることを隠し続けるよりはマシである。
「ちょっ、脱ぐなら脱ぐって……ッ!」
「あー……」
思ったそばからやってしまった。自分の部屋感覚でパジャマを脱ごうとしたら、暗藤が普段の様子が嘘のように女の子らしく恥じらってくれた。
……別に、わざとやった訳ではない。寝ぼけていたのだ。たぶん。
(なんだろうな、ちょっと命のやり取りみたいなことしたせいか、暗藤さんに対していろいろと感覚が鈍ってるかもしれない俺……)
あの夜以上の恥ずかしいことがあるか、という感じで、こういってはなんだが、もはや暗藤のことを女の子として見ていないような自覚もある。
(というか、妹とかそんな感じ? それとも俺の感覚が女子っぽくなってしまったのか……)
それくらい暗藤に気を許しているということだろう。
――条件がある。
暗藤の出した条件は実にシンプルだった。
お前はいったい何者なの、と。
それなりに真面目な話なのであの夜に全てを話したわけではないが、後日、いろいろ考えた末に全てを打ち明けることにした。
それから、この学園の生徒である暗藤に訊ねてしまった方が、綾野に関してももっとよく知れると思ったのだ。
『――ふうん。てっきりトランスジェンダーとか、性同一性障害みたいな理由で、学園から特別に入学を認められたものかと思ってたんだけど』
『なるほど、もしも誰かにバレたらそういうことにしとこう。……ところで、俺ってそういう風に見えます?』
『……そう偽って入学したのかと』
ともあれ、それで暗藤は納得し、こうして数日これといった事件もなく無事に過ごすことが出来たのだ。
別に暗藤が何かしてくれた訳ではないものの、部屋に彼女がいる、愚痴をこぼせる相手がいるというのはいいものだ。
「ところでさ、暗藤さん……今日も登校しないの?」
「……携帯」
「いや、渡さねーけど?」
「…………」
はあ、と朝から疲れたようなため息。ここ数日で分かったのだが、暗藤はあまり人と話すのに慣れていないというか、苦手な様子だ。
それから、しばらく保健室登校をしているらしい。初日に保健室で遭遇したのもそれが理由のようだ。
「まあ、別に無理強いするつもりはないけどさ……。せっかく同じクラスなんだし、いてくれた方が俺としては心強いっていうか。ほら、今日ついに体育あるじゃん? 準備運動とか、ペアになってくれると助かる、みたいな? いや、深い理由はないんだけど、他の子と組まされて万が一にも、なんてなるくらいならさ?」
「…………」
暗藤は自身の長すぎる前髪を指に巻きつけたり伸ばしたりと、こちらの話を聞いているのかどうかも怪しい素っ気ない態度をとる。
「それに、綾野とも知り合いなんでしょ?」
しかも、綾野がああなった理由にも心当たりがあるようなのだ。
教えてくれと言うと二言目には「携帯」と返ってくるから未だ聞き出せずにいるものの――
(クラスに顔出さない暗藤さんでも〝分かる〟理由があるってことは確かだ……)
そして、歩子の直感はそのことと暗藤の不登校に関係があるのではないかと訴えている。
そうでなくても、ある意味、共犯者ともいえるほど深い仲になった(少なくとも歩子はそう思っている)相手が引きこもっているというのは、なんだか少し放っておけない。他人事とは切り捨てられないものがある。
「……体育なんて、」
ぼそりと、暗藤がつぶやく。
「どうせサボるんでしょ、病弱設定」
「まあ、そのつもりだけども。――それじゃ、行ってきます」
■
保護者――おじさんからの口添えで、園辺歩子は体育での過度の運動は制限されている。
そのため体育の授業も見学扱いなのだが、一応ジャージに着替えて体育館の片隅でボール拾いなどに従事する。
お嬢様学校だから、なんというかこうお嬢様がするようなスポーツでもするのかと思いきや、本日の授業内容は体育館でのバレーボールだ。
ジャージ姿の少女たちがきゃっきゃうふふ――してはおらず、割と本格的にネットを挟んで球の打ち合いをしているから驚いた。
(バレー部とか普通にあるらしいし……)
運動部は数こそ多くはないが、けっこう学校側も力を入れているようだ。
そもそも、この
(良妻賢母を育成する古めかしいお嬢様学校じゃなくて、現代社会で活躍できる女性を育てる先進的な学園……)
資格取得などにも専門の講師が熱心に指導してくれるとかなんとか。
(部活もいろいろあるみたいだしなぁ……。綾野は入ってないみたいだけど、俺はどうしよう。何かやってみたくはある……)
なんて、うつつを抜かしていたのが悪かったのか。
いや――
「先生……! このひと変質者です!」
――それからの、記憶がない。
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