第1話 心に陽気なBPM




 車載ラジオから聞こえる、パーソナリティの陽気なトーク。

 身体に響くエンジン音が心地よく、ちょうどいい感じの冷房が眠気を誘う。



「もうすぐ着く」



 おじさんの声に、うとうとしていた御園辺みそのべあるくは目を覚ます。


 ここは、車内――私立美知志みしるし学園へと向かう、おじさんの運転する車の中だ。


 美知志学園は都心や住宅街から少し離れた、ほとんど郊外といってもいい地域にある。周囲を森や山という自然豊かな景色に囲まれ、いかにも俗世から隔離されたお嬢様学校という雰囲気だ。

 併設された初等部の生徒たちは専用バスで送り迎えされるらしいが、中等部や高等部は基本的に全寮制。専用バスはなく、市営のバスだと時間が合わない。

 そのため現在、歩はおじさんの車で〝通学〟しているのである。


「もしや、昨夜は眠れなかったのかね?」


 バックミラー越しにおじさんが歩を見る。


「ええ、まあ……今日のことを考えると、緊張して」


「集中力を欠くとマズいことになる。これを飲みなさい」


 信号で車が停まったタイミングで、運転席のおじさんが水筒を歩に寄こす。

 コーヒーだろうか。さすがは元会社員。水筒を受け取り、コップ代わりのキャップに中の液体を注ぐ。


 コーヒーのような色をしているが、コーヒーにしてはどろりとしているような気がする。なんとなしに口をつけて、直前に襲ってきたにおいに咽そうになるも、そのまま喉の奥に流し込んだ。


(苦っ……)


 それも、想像していたコーヒーの苦みとは程遠い。どちらかといえば漢方薬など薬品の醸し出す苦さだ。まさか酒のたぐいだろうか。


「なんですかこれ」


「それを飲めば元気になるはずだ」


「合法……?」


「もはや合法だとか非合法とかいう次元ではないのだよ」


「俺はこれからどうなるんだ……」


 黒塗りの車が停車する。

 振り返るとバス停があり、小学生と思しき一団が初等部校舎へ向かっていくところだった。お揃いの制服に身を包んでいて、一見すると女の子ばかりのようにも見えるが、中にはスカートではなく短パン姿の「これぞショタ」ともいうべき男児の姿もある。初等部までは〝共学〟なのだ。

 近くには中等部の校舎があり、こちらには清楚な印象を受ける制服をまとった女生徒たちが見える。初等部の生徒とそう変わらない幼さを残した女の子もいれば、大人びた印象の少女もいる。


 そして――


 学生寮だろう建物から出てくる、いっそう大人びた印象の少女たち。

 彼女たちが向かうのは、街路樹に挟まれた歩道の先にある、伝統と格式を感じさせるさながら洋館のような白い校舎――私立美知志学園高等部。


 今日から、御園辺歩が――否、今日から彼女は、



「今日から君は、園辺そのべ歩子あるこ……美知志学園高等部二年生、園辺歩子だ」



 高等部の制服を――ブラウンのブレザーに紺のスカートを身に着け、



「では、行きたまえ――」



 車から降り、女子生徒の中へと紛れ込む。




                   ■




 いわく――ふだん男性キャラをメインに描いている漫画家が描いた女性キャラのような出来栄え、らしい。

 つまり、かろうじて女の子っぽく見えるが、男だと言われればそう見えないこともない、というレベルだ。


 果たしてその程度の女装で、本物の女の子たちの前に立って大丈夫なのか……。


 編入試験の際にあった面接の次に厳しいこの難所。それさえ乗り越えてしまえば、お嬢様学校潜入はもはや勝ったも同然――などとのたまっていたおじさんの言葉にすがるように、御園辺歩は教室に足を踏み入れた。


 否、再三言うようだが今日から俺は、



「み、園辺……歩子です、わ?」



 教師に促され、自己紹介をして初めて、歩は――歩子は顔を上げた。


(うっ……)


 すると突き刺される視線の数々。突然の豪雨めいたそれに、女装というちゃちな塗装はいとも容易く剥がれ落とされるかに思えた。


(だ、大丈夫だっ……この前の面接だって怪訝な顔をされながらも深くは追及されなかったんだから……!)


 過去の栄光を持ち出す今や売れない芸能人のように、硬い表情でなんとか笑みを形作る。


 ……とはいえ、口元はマスクで覆っているためその引きつった笑みが日の目を見ることはない。

 加えて、伊達メガネもかけているので、遠目に見ると不審者以外のなにものでもない。ついでにいえば女装もしているから、不審者というよりは変質者に該当する。通報されないよう言動には細心の注意を払わねばならない。


(見た目や口調はなんとか出来ても声だけは厳しいからな……。ちょっと声が低い女子……ぎりぎりそう受け取ってもらえるかどうか)


 変に上ずった声を出さなくても、気を付けていれば女子っぽく聞こえなくもない低音を維持することが出来る。こればかりは生まれ持った自分の声質のお陰だ。恐らくこんな声をしていなければ今回の計画はそもそもなかっただろう。


(それでも一応、風邪を引いていて声はがらがら、病弱なので基本いつもマスクをつけている――まあ、この設定が一番難しいんだけど)


 しかしマスクのお陰で顔の骨格の違和感はごまかせるし、喉が悪いので長時間のお喋りは出来ないという設定を押し通せば、必要以上に声をかけられることはなくなるだろう。


(だけどそれで周囲から浮かないように気を付けないといけない――ここからは、考えることがたくさんだ)


 おじさんの言う通り、完全に周囲に溶け込むまでは集中力を欠いてはならない。


 改めて意を決し、それとなく視線を巡らせた教室の真ん中あたりに――見つけた。


 肩まで伸びた黒髪を緩く巻いた髪型に若干の気品を漂わせ、つり目がちなためにきりっとして見える顔立ちに高貴さを感じさせる少女。

 机に肘を突き、顔の前で指を組んでこちらを凝視しているその様相にはどこかの司令官を想起させるが――


 綾野あやのだ。

 幼馴染みの、高路こうじ綾野。

 歩子がこのお嬢様学校に潜入する原因……もとい、目的の人物である。


(ヤバい、めっちゃこっち見てる……)


 さすがに無理があるか。いくら最近疎遠とはいえ、幼馴染みだ。

 ウィッグをつけて黒髪ロングにし、軽い化粧で女の子っぽく見せているものの、こちらが気付いたのだからむこうも歩だと見破ってもおかしくはない。


 そうなったら、それはそれでプランBに移行するまでだが――


 しかし、それはそれとして。


(目線を隠してたとはいえ、やっぱ実物は映像とはだいぶ雰囲気が違うな……)


 歩の知る昔の彼女のように強気な表情をしているが、お嬢様っぽい髪型のせいか、それとも頭につけた赤いカチューシャや横に結んでいるリボンの影響か。

 それともこの場の空気がお嬢様フィルターでもかけているのか。


(綾野だけでなく、みんな可愛いというかきれいに見える……)


 表情が微妙に緩む。

 半ば強制的に女装して潜入させられた歩だが、そこに下心がなかったといえば嘘になる。

 というより、それがなければこんなところにいない。


(女の子ばかりの秘密の花園で、その中に混じってきゃっきゃうふふ……社会的リスクこそあるが、賭けとしては悪くない)


 幸いにしてこの女装は、おじさんいわく「もちろん君の振る舞い次第だが、うまくいけば王子様系転校生としてもてはやされるはずだ」という、〝カッコいい感じの女の子〟に仕上がっている。

 ……とはいえ、やっぱり男性キャラ慣れした漫画家の描く女性レベル、『女子にしてはカッコいい』程度だが。


(見た目じゃない、イケメンぶりは心で表現するものさ! ……などと、おじさんには言われたが)


 いいかげん、この沈黙には耐えがたいものがある。

 とはいっても、まだ時間にして数秒。緊張からやけに長く感じているだけだ。


(……そうだと思いたい)


 ようやくぱらぱらと小さな拍手が起こりはじめ、それはささやかながら教室全体に広まっていった。


「それじゃあ、園辺さんは向こうの席に」


 担任が二つある空席のうちの一つを促すので、歩子は周りをあまり見ないよう俯き加減になりながらその席へ向かった。

 視線こそ感じるが、訝しむような囁き声は聞こえない。


(勝った……ということにしておこう)


 心から安堵するにはまだ不安も残るが、ひとまず、クラスには転校生として受け入れられたようだった。



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