第6話 マンハッタンの影

 それから淡々と時間は進み、気がつけば本番の前々日を迎えた。


 中央公会堂のある中之島は、梅田から少し南へ下ったところに位置するビジネス街だ。文化堂島川と土佐堀川に挟まれた細長い島に、多くのビジネスビルが立ち並ぶ。公会堂へ向かう川沿いの遊歩道から街並みを見上げれば、小規模なマンハッタンのような趣があった。


 そもそも中央公会堂とは、明治後期に建てられたネオルネッサンスなデザインの集会室であり、国の重要文化財にあたる建物だ。都会のど真ん中に威風堂々と佇むレンガ色の壁と瑠璃色のアーチ屋根は、自らの威厳をこれ見よがしに風潮しているようでもあった。けれど、それが鼻につかないのは、この建物にそれだけの価値があるからだろう。ビル群を背景にしても、断じて負けない強さは百年近い時代の風を超えてきた自負で溢れているように見えた。


「今日って演奏できるん?」


 荷物がドラムスティックだけの七海は、軽荷のスクールバックを中指の指先にぶら下げている。


「今日は音出しだけっすよ。軽くセッティングして、明日がゲネプロです」


 何度も言わせるな、と言いたげな態度を取りつつも、つぐみが律儀に返答した。「作ってるんっすから、ちゃんとスケジュール見てくださいよ」


 夏休みは此花学園に出向くなど学年別で不規則な練習が多く、間違えないようにと、わざわざつぐみが個人ごとのスケジュール表を作成してくれた。みなこが「すごい」と褒めれば、「エクセルで作るので一瞬っす」と素っ気ない言葉が返ってきたから「褒めて欲しそうにずっとアピールしてきたのはそっちやろ」とみなこは可愛い後輩の頬に指を押し付けてやった。


「このイベントは出演組数が多いからね。三日間に渡ってリハーサルを行う予定らしい。我々の前にはプロの参加者がゲネプロを行っているようだね。少し早く大集会室へ向かえば、演奏を聴けるかもしれない。客席は空いているだろうから、特等席から聴けることだろう」


 重厚感のある立派な階段の踊り場で振り返った眞莉愛は、まるで映画の登場人物のように見えた。もしくは、絵画だろうか。彼女の背後にある窓枠から差し込む夏の陽射しが、ルノワールが描く光の色彩のようにも思えた。


「ええんかな?」


「客席から音の反響を確認するのも大切なことさ」


 楽屋として通されたのは、三階にある小集会室だった。宝塚南、此花学園の部員が使っても、広さにまだ余裕があるため、楽屋は他の演者と共有だと聞いていた。普段は講演会などを行っている立派な一室らは、演者が多いため、公会堂内にある会議室などを分散して使う手はずになっているらしい。


 古めかしい木製の扉を開けて、まず視界に入ってきたのは、部屋の壁一面を飾っていた黄金色のカーテンの掛かる大きな窓だった。反対側の壁には英国の趣を思わせる刺繍が入ったタペストリーが飾れていて、天井付近にはステンドグラスがあしらわれている。


 まるで王室のような雰囲気に思わず立ち尽くしていると、「早く準備をしようじゃないか。リハーサルを見学するのだろう?」と眞莉愛に肩に手を掛けられた。


 制服を着ていなかったら、危うく王室の方と見間違えてしまっていただろうと思った。そんな冗談は口に出さず、みなこは急いで準備を始める。


 出演者用に準備されたステージへと続く動線から客席に繋がる廊下へ抜けて、大集会室へと向かう。


 ステージ上では今まさに女性のピアニストがリハーサルを行なっていた。バンドを従えていたが、彼女がメインであることはピアノの配置から推測できた。プロで活動されている方らしいが、あまり詳しくないみなこは彼女のことを知らない。けれど、彼女が生み出す音を聞いた瞬間、彼女が音楽で生活していることをまじまじと感じた。


『Ornithology』


 音の粒が鳥のように幻想的なホールの中を飛び交っていく。どこまでも自由に、転調しては高度を変えて飛んでいく。それは自由でいたいと言う反発から生まれる衝動だろうか。


 音が跳ねる。スタッカートに合わせて、ドラムがシンバルを鳴らす。アメ車のクラクションのようなトランペットがそれを追いかけていく。公会堂の雰囲気も相まって、自分たちは今その時代にいるのだと錯覚させられた。


 ビバップの生まれた40年代のアメリカだ。


 風景はおろか、匂いも音も知らない。だから、モノクロ映画のように風景が白黒になっていった。綺羅びやかながら、モダンで落ち着きのあるシャンデリアも、ステージを華やぐ朱色の袖幕も、優雅な彫刻のような壁も。タイムカプセルのように、あの時代の空気を閉じ込めているこの建物の中にだけ、ふっとあの頃の風が吹き抜けていく。お酒の香りと雨上がりのアスファルトから剥がされた砂埃の匂い。今よりもほんの少しだけ背の低いマンハッタンのビル達。点滅を繰り返すLEDライトの灯りは、ニューヨークの裏路地に差し込む太陽の煌めきのように感じた。やがて、鳥たちはイースト川のほとりへと消えていく。


 素晴らしい演奏にも拍手は送られなかった。心では目一杯拍手をしたいけれど、邪魔になるので控える。目の前では、淡々と音の確認や照明の修正が行われ、スタッフによる細かい調整がなされていた。問題の箇所を何度か繰り返して、納得のいく演出や音を作り出していく。


 その光景を眺めながらみなこが思いふけっていたのは、佳奈が目指そうとしている場所だった。きっとニューヨークの情景を見せられたせいだろう。無意識のうちにいまの自分たちがいる場所からブルーノートまでの距離感を測ってしまう。


 佳奈はいつかブルーノートに立てるのだろうか。その姿を想像するのは容易い。ネット検索で出てくるブルーノートのステージに、演奏する佳奈の姿を重ねるだけだ。ただそれだけでみなこの脳内ではイメージ映像が完成した。


 けど、音がない。ミュートにしてしまったかと、音量をあげようとしても、みなこのイメージは、無声映画のように淡々と流れていく。それは佳奈の実力がまだ遠い異国のジャズバーに届いていないことを示していた。佳奈ならいつか届くと思っていた幻想が、日焼けした後の皮膚のようにめくれていく。もちろん、佳奈は上手だ。去年の大会では、陽葵に負けたけれど、それは選曲や周りの演奏に起因することだ。


 それでも、プロの力と比べれば、佳奈の力はそれに遠く及んでいない。ビバップ時代のニューヨークを思わせる演奏をした彼女は、ここをブルーノートに変えることだって出来るはずだから。


「どうしたん?」


 つい、ぼーっとしてしまっていたらしく、佳奈に肩を揺すられた。「なんでもない」と首を左右に振って返すと、「演奏に魅了されてたん?」と佳奈は色っぽい笑みをこぼした。


「プロってすごよな。私もあんな風になりたい」


 ステージを見つめる佳奈の瞳の黒には、ニューヨークの裏通りの影が写り込んでいた気がした。

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