第5話 餌

「宝来昌利まさとしは、有名なジャズドラマーやで」


 真っ赤なミニトマトが黄緑色のお箸で器用につまみ上げられて、隣に座る里帆の口の中へと運ばれていく。可愛らしいうさぎのキャラクターの描かれたお弁当箱の中は、冷凍食品よりも手作りの品の方が多い。「私が作ってるんやで」とみなこの向かいに座る美帆が威張るように胸を張った。


「感謝してますよ」


「いくらしても足りない!」


「まぁ確かに」


 そう言って、里帆はタコの形になったウインナーの頭を噛みちぎる。どうやら、美帆がお弁当を作り出したのは、三年生になってかららしい。理由は、花嫁修業だそうだ。ジャズ研OBで現在は大阪の大学に通う中村健太との交際は順調らしい。


「いつもありがとうございまーす」


 里帆は頭頂部が見えるくらいまで頭をさげた。恩着せがましいと非難しているように聴こえるのは気のせいということにしておく。


 普段のお昼休みは、教室か食堂で食事をしなくてはいけない決まりがあるのだが、夏休みなどの長期休暇の間、そのルールは適応外となる。グラウンドの隅にある階段や部室、中庭のベンチなど、普段は昼食を取ってはいけないところで、部活や委員会に顔を出している生徒が食事をしているところを見かけることも多い。


 午前中を個人練習の時間に割いていることがほとんどのジャズ研は、それぞれが思い思いのタイミングと場所でお昼を済ませることが多った。もちろん仲の良い部員たちで食べることもあるけど。今日は、スタジオで一緒になった七海と奏を誘おうかと思っていたところ、里帆と美帆の二人に声を掛けられた。


「清瀬ちゃん、一緒に食べようや」


 別に断りなんてしないのに、みなこの肩にぽんと手を置いて、脅しと言いたげに里帆はぐっと力を込めた。食堂に来てから真意を訊ねると、「怖がるような演出をしてみたくて」だなんて言って、はにかむ先輩に「全然怖くなかったですよ」とは言えなかった。


 沖田姉妹が宝来の話をしてくれているのは、昨日の音楽室での出来事をみなこが話したからだ。里帆の謝辞を軽くスルーした美帆が首を横へと向ける。


「宝来昌利ってドラマー、桃菜も知ってるやんな?」


 少し不機嫌そうにコンビニのおにぎりを咀嚼する桃菜が、「知ってるで」と頷いた。普段から美帆としか昼食を取らない桃菜は、みなこの同席を桃菜は嫌がりそうなものだが、この間の合宿での出来事で、少しは……ほんの少しは心を許してくれているのかもしれない。


 ズラッと並んだ真っ白な食堂のテーブル。みなこたちの一つ奥の列ではサッカー部の男子とバレー部の女子の集団が、自販機のジュースを手に仲良く談笑していた。閑散とした炊事場の前のテーブルでは図書委員が本の整理をしている。そのおかげで人数が少ないのに、食堂は程よく賑わっていた。


「でも、先生になってるってことは、ミュージシャンを引退したってことですよね?」


 みなこの手の中のツナサンドは、一口かじられただけでなかなか進んでいない。話に夢中で食べるタイミングを失ってしまっていた。


「五年前やっけ?」


 みなこの質問に答えたのは美帆だった。言葉ではなくスマートフォンの画面をこちらに向ける。


「私らが中学生になってすぐの頃やったから、確かそれくらいやったはず」


 美帆のスマートフォンの画面に表示されていたのは、『宝来昌利』の検索結果だった。ツールバーの下には、若々しいものから最近のものと思われる宝来の写真が並び、ウィキペディアのリンクが表示されていた。さらに下の方にはいくつかの記事が並んでいて、そのトップにあったのが、里帆と美帆が話す五年前の記事だった。


 見出しはこうだ。


『ジャズドラマー宝来、局所性ジストニアで引退へ』


「病気やったんですか?」


 コクリと頷き、里帆は美帆のスマートフォンの画面をタッチした。一瞬の読み込みが始まり、記事が表示される。


『今春から体調不良により活動を休止していたジャズドラマーの宝来昌利が、音楽活動を引退することが発表した。宝来は去年の年末ごろから局所性ジストニアを発症しており、音楽活動を継続することが困難になったという。』


 略歴の下には、続けて宝来のコメントが引用されていた。


『宝来昌利の公式HPからの引用:応援してくださっているファンの皆様へ。わたくし宝来は、ミュージシャンとしての人生にピリオドを打つ決断を致しましたことを報告させて頂きます。去年の年末ごろから思うような演奏が出来ず苦しんでいたのですが、ライブが立て込んでいたこともあり、なんてことはないだろうと、しばらくの間、症状を放置していました。医師に相談したのが三月の末。すぐに局所性ジストニアだと診断され、活動を休止する運びになりました。懸命な治療を半年間続けて来たのですが、改善の兆しはなかなか見えず、回復したとしても、かつてのようなパフォーマンスを披露できる可能性は限りなく低いという医師の判断もあり、今回の決断に至った所存です。ジャズを、音楽を、ドラムを失ってしまったこれから先の人生、何を目指すべきかまだ何一つ見えてはいませんが、前だけを向いて生きていくつもりです。この場を借りて、これまで応援してくださった皆様、支えてくださった皆様へ、感謝を申し上げます。』


 あまり聞いたことのない病名に、みなこが唖然としていると、里帆が弁当箱の縁に箸を置いた。


「音楽家にはよくある病気。本人の意思とは無関係に筋肉が収縮してしまう。ピアニストやギタリストは指、ドラマーは腕、ヴォーカリストの場合は喉って例も。もちろん、ミュージシャンだけでなくいろんな職種で起こることがある。スポーツ選手や画家、同じ動作を繰り返すする人に起こりやすいと言われてる。神経系の異常で、脳梗塞とかの後遺症として出ることもあるらしいけど、基本的には原因不明なことが多い」


 昨日、宝来から感じた何ともいい難い切なさの正体を見せつけられ、みなこは思わず息を飲む。突然、自分の大切なものが奪われる辛さは計り知れない。これまで歩いて来た橋の先が目の前で忽然と消えてしまう喪失感を想像しただけで、喉の奥がひりひりとひくついた。


「いわゆる職業病な側面があるから日常生活には支障はないはず。宝来さんは元気やったやろ?」


「はい。むしろ、元気だったのに、あの年齢で一線を退いたって話をしていたのだけが、どうも不思議で。昔の話をするのがほんの少しだけ物悲しそうにしているような気がしたので」


「人生をかけてきたものを失うって、なかなか簡単には切り替えられへんやろうからな」


 里帆はお弁当の縁に置いていた箸を手に取ると、手作りだと思われるミニハンバーグを半分に割った。みじん切りにされた玉ねぎとピーマンが断面から顔を覗かせる。


「私らも宝来さんの引退はショックで驚いた。けど、此花学園で先生をやってるって聞いた時はもっと驚いたな。知ったのは、一昨年の大会あと。会場に宝来さんが来ているって目撃証言が多数あって、翌々聞くと教師になってジャズ研の顧問をやってるって。此花学園のジャズ研の部員が創部以来増え続けている要因はそれかもな」


 有名なジャズミュージシャンが顧問をしているとなれば、全国から入部希望者が集まるのも納得だ。創部二年で優秀賞を獲得出来たのも、彼の指導のおかげだろう。でも何かが腑に落ちない気がした。もやもやは晴れないまま、みなこはツナサンドにかじりついた。マヨネーズの甘い風味とマスタードの刺激が鼻の奥をなでていく。


「里帆の言うように確かに驚いた。でも、先生になって良かったよな。昔から宝来さんは、教育に興味があったみたいやし」


「それも話してました」


「うぅ、直接色んな話を聞けるって羨ましいー」


 歯をぐっと噛み締めて悔しがる美帆は、その表情とは裏腹に淡々とスマートフォンを操作して別の記事をみなこに提示した。そのページは、Web版のジャズ雑誌のインタビュー記事で、まだ四十代前半くらいと思われる宝来がこちらに優しい微笑を浮かべていた。


『Q.宝来さんは、学生時代に教員免許を取得されているとお伺いしたのですが』


『A.音大時代に習得しました』


『Q.そちらの道に進むことも考えていたのですか?』


『A.かなり悩んでいましたね。まさか自分が、これだけ音学を続けられると思っていなかったので』


『Q.教師に興味を持っていたのはどうしてですか?』


『A.子どもたち、子どもだなんて失礼かもしれないですが。学生たちですね。心が成長する過程において、音楽が役立つことがあると私は考えています。』


『Q.具体的にはどのような?』


『A.人は問題を抱えてしまう生き物だと思うのです。若い頃というのは特に。人生というものの右も左も分からない中で、多くのことを決定していかなくてはいけない。友人関係や家族、受験勉強に将来の展望、大人になって忘れてしまっていますが、あの頃の毎日は一寸先が闇の中で選択を迫られる日々の連続だったはずです。

 街中ですれ違う輝かしい時代を謳歌する楽しげな若者たちを我々は羨ましく見てしまいます。けど、彼らの内側ではふつふつと問題が岩漿のように煮えたぎっているはずなんです。自分の中にある熱い何かに、時に苦しみ、時に葛藤して、大人になっていくんだと思います。私もそうだったし、あなただって、みんなそうだったはずなんです。』 


 みなこが記事を読んでいく速度に合わせて、器用に美帆が画面をスクロールしてくれた。Qと明記されている質問者の『分かる気がします。』という相槌に似た同意に続けて、宝来は音楽に対する自分の意見を続けていた。


『A.音楽というのは、それさえも餌にしてしまう恐ろしい生き物なんです。』


『Q.餌ですか?』


『A.はい。何も問題がないというのは深みがない。それが人生であり音楽なんだと思います。苦しみや悩みとちゃんと向き合った時に、心のそこから溢れ出してくる音があるんです。風が一つもない湖のように穏やかだったり、轟々と雨に風に雷が降り注ぐような荒々しさがあったり、表情は様々ですけれど。プロのミュージシャンが学生やアマチュアと違うところは、演奏する曲によって、自分の中にある経験の引き出しを開けているところです。音楽に今日の餌はこれだぞって与える感覚です。』


『Q.なるほど。では学生たちは?』


『A.彼らはリアルタイムで起こっている問題と常に向き合っていなくてはいけません。その瞬間に必要な餌を用意出来ているとは限らないんです。けれど、それが噛み合った時に恐ろしい爆発力を生み出します。ジャズだけではありません。クラシックだって、吹奏楽だってそうです。そして、音楽に餌として己の問題を食い物にされる感覚は何とも言い難い高揚感があります。』


『Q.高揚感ですか?』 


『A.いうなれば音楽が向かうべき場所を示してくれるような感覚です。全員がそうだとは言えないですが、音楽のそういうところに救われる側面もあります。若いうちはとくに。音楽の教師になれば、生徒たちをそういった具合に導いてやれるのではと自惚れていたのです。』


『Q.今の宝来さんの音楽に救われている方も多くいると思います。』


『A.そういった言葉を掛けていただけると音楽をやっていて本当に良かったと思えます。』


 見せたい箇所が終わったのか、記事はまだ続いていたが、美帆はそこでスマートフォンを手元へ戻した。


「十年くらい前のインタビューやけど、宝来さんの気持ちは変わってないんとちゃうかな?」


「そうだと思います」


 宝来は教師になれたことを感謝していると言っていたから、美帆の言う通り信条は変わっていないはず。だとすれば、創部以来急激な成長を遂げている此花学園は、音楽に与える餌がたらふくにあったと言えるのかもしれない。十年前のインタビュー記事を信じるなら、宝来は生徒たちに音楽を通じた心の成長を期待している。此花学園に餌になりうるような問題は見受けられなかったが、餌となっているものとはなんなのだろうか。


「うちには音楽のための餌はあるのかな?」


 みなこと一緒に記事を見ていたらしい里帆がこちらに問いかけるように呟く。


「どうですかね?」


「清瀬ちゃんは、そういうことに度々顔出してるやんか!」


「別に好んで出してるわけじゃないです!」


 こちらのやり取りを制止するように、「ごほん」と桃菜が咳き込む。この間のことを問題だったと捉えているらしい。おにぎりにかじりつく口があからさまに大きくなっている。


「もう、桃菜ったら珍しく感情的になってるやん。大会では期待してるんやからなー」


 里帆をあしらうように、桃菜はふんと鼻から強く息を吐き出した。「演奏なら任せといて」と、半分ほどになったおにぎりを口の中へと放り込み、立ち上がる。彼女のその自信は、宝来に言わせれば、自分の中にある餌を音楽に与えたからあるものなのだろうか。


「もう休憩終わりにするん?」


「コンボの練習まで個人練してるわ。期待されてるみたいやし?」


 食堂から足早に出ていく桃菜の背中に向けて、美帆は微笑ましく手を振った。「合宿明けからコミュニケーションええ感じちゃう?」と、姉が妹を見るような目を桃菜に向けたまま呟く。


「あれで合格点出すのも中々のハードルの低さやけどな」


「私以外の人に、思ってることを素直に言ってくれるようになったのはかなりの成長やって」


「それは分かってる」


 二人が同時にのりたまが掛かったお米を口へと運ぶ。桃菜はちょっぴりだけ、美帆以外の部員とも会話をするようになった。あの合宿の夜、彼女は「みんなと仲良くするつもりはない」と言っていたけど、自分の嫌なこと、好きなことを、ほんの少しずつ共有しているのをみなこは知っている。


 きっと変わるつもりも、変わっているつもりもないはずだ。それでもあの夜に起きたことは事実として、彼女の中に蓄積されている。小惑星に付着物が張り付くと重さに変化が生じ、わずかに軌道が変わるように、無意識のうちに彼女の中に変化が起きているのだろうと思った。


「あのぉ、それで今日、私が食堂に呼ばれたのって?」


「あーそうそう、」


 昨日の練習はどうやった、から始まった軽い世間話が大きく脱線してしまっていた。本題を思い出した里帆は声のトーンの一つ真面目な物に変える。


「学年リーダーと書記を決めんとあかんねん。清瀬ちゃんは誰がいいと思う?」


「私が決めるんですか?」


「ノンノン、伊藤ちゃんと相談してや。去年は即決やったけど、今年は難しい気がするから、存分に悩みたまえ」


 即決だったと言われると、複雑な思いがこみ上げる。めぐに異論はないけど、自分が副部長になるポジションを任されるのは、未だに重荷が過ぎると思う。こちらの表情から気持ちを読み取ったのか、「次期副部長さん、ここは来年以降のために責任重大なことやで!」と向かい側からやじが飛んできた。


 誰が良いかと聞かれると確かに困る。部長候補として、まず浮かぶのは、すみれだろうか。生徒会などを兼任してきた経歴があると言っていたし、リーダーになれる素質があるように思う。


 けれど、自分の考えを人に押し付けてしまう嫌いがあるのは否定できない。愛華との揉め事だって、それが原因だったはずだ。そんな彼女が、様々な考えを持つ部員がいるグループを、うまくまとめられるとは必ずしも言い切れない。


 佳乃は適任のように思えるが、自分のことを責めてしまう傾向にある。つぐみは、細やかなところに気が利くし、後輩への接し方も上手そうだけど、マネージャーの役職があるから兼任するのは現実的じゃないし、愛華や竜二が、他人の上に立つ姿は想像できない。


「か、考えときます」


 歯切れ悪く返事をしたみなこに、里帆は色香な笑みを浮かべた。


「どんな選択をしても間違いちゃうから。答えを出すのは可愛い後輩たちやで」


「それって無責任ちゃう?」


「そうかな?」


 二人はまた同じタイミングで、今度はブロッコリーを口に運ぶ。美帆の言うように無責任にも思える里帆の言葉には、どこか優しく深い信頼が込められている気がした。

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