第4話 宝来先生

 夏休みの期間中で校内にいる人は少ないとはいえ、他校の制服を来たまま、一人でうろうろするのは気が引ける。音楽室へ続いているらしい階段を登りながら、誰にもすれ違わないで欲しいとみなこは切に願っていた。


 もとはといえば、替えの弦を持ってくるのを忘れた自分のせいなのだけど。偶然、「音楽準備室に同じメーカーのものがあるはず」、と明梨に言われて、有り難く頂戴することになった。練習時間を割くのは申し訳ないので、こうして一人で音楽室に向かうことになった。もちろん、案内してくれると申し出てくれた部員もいたけど、明梨の説明によれば、音楽室は思いの外講堂から近く、鍵だけを詩音から受け取った。


 音楽室が入っている棟も建て替えられてまだ間もないらしく、廊下も壁もすべてがピカピカだった。曇りのない窓から差し込む夏のキラキラとした陽射しは、真っ白な廊下を教会のように仰々しく、そして光を吸い込む何もかもを清らかにしていた。


 音楽室の扉がわずかに開いていることに気がついたのは、準備室に鍵を挿し込んでからだった。


 がさがさと扉の付近に人の気配を感じ、ふいに鍵を回す手が止まる。明るくて分からなったが、灯っていた照明が消えて、ほんの少しだけすりガラスの向こうの色の明度が下がった。


 次の瞬間、ゆったりとした速度で扉が開いた。


 白い世界にぽつりと浮かんだ細みの黒いジャケットは、周りの明るさのせいか、一際引き締まって見えた。襟のない黒のインナーシャツの上には、美形で凛々しいと形容できる男性の顔が付いていて、こちらを険しい表情で見つめている。ところどころに年季を思わせる皺が何本か見えるけど、ワックスでしっかりとまとめられた短くはない髪が、本来の年齢を不透明にさせるほど清潔感のある印象を与えていた。


「おや、他校の生徒の子だね? ここになにか用事かな?」


 低く渋い声が甲高い蝉の声の中に溶けていく。真っ黒な眼に揺るぎなど微塵もなく、ただまっすぐにみなこのことだけを見つめていた。けど、不思議と、ここにいることを咎められているような感覚になったのは、みなこ自身の被害妄想だろうか。勝手に校内を物色していた疑いを持たれていないだろうかと心配になる。


「いいえ、準備室にギターの弦を……。あっ、鍵は詩音ちゃん……、ジャズ研の安原さんから借りて。そもそも、私は宝塚南のジャズ研の部員で……」


「冗談を言って申し訳ない。宝塚南の生徒さんが来ていることは知っているよ」


 どうやら意図して疑いを掛けたふりをしていたらしい。思わずこぼれた微笑みを包み隠すことなく、「ギターの弦か。欲しいのはエレキギターだね?」と彼は準備室の鍵穴にぶら下がったままの鍵をひねった。


「そうです」


「確か、清瀬さん?」


「は、はい」


 どうして自分のことを知っているのだろう、とみなこは準備室の電気を点ける男性の背中を見ながら首を傾げた。


 そのみなこの仕草を見ていたわけではなかったはずだが、男性は準備室の小物が並んだ棚からギターの弦を探しつつ、「私は此花学園ジャズ研の顧問の宝来ほうらいです」と小さくお辞儀をした。


「顧問の先生でしたか」


「生徒たちの自主性に任せているから、あまり練習には顔を出さないんだけどね。ちなみにこの学園では音楽の授業を担当している」


 自分のことを語るのが恥ずかしいのか、宝来は自嘲気味に口端を緩める。渋さが混じった笑顔には重ねて来た年齢の重みと上品さが兼ね備えられていた。


「おかしいなぁ」


 棚に並んだカラーボックスを漁っていた手を止めて、宝来は首を傾げた。「どうしたんですか?」と、扉付近に立ちすくんだまま、みなこは訊ねる。


「エレキギターの弦は、この辺りにしまっていたはずなんだけど、見当たらないなぁ。もしかすると軽音部が使用したのかもしれない。音楽室内に併設されているスタジオが軽音部の部室だから、そっちも見てみよう」


 宝来は丁寧な手付きでカラーボックスを元の場所へしまった。「ちゃんと片付けないとは、叱っておかないとね」なんて、少し恐ろしい声色を、冗談めかした笑顔で綺麗にコーディングして、彼は浅いため息をこぼす。棚にしまわれていたボックスや備品類は、どれも綺麗に整理されていて、几帳面な彼の性格を表しているようだった。


「清瀬さんは、ジャズを初めてどれくらい?」


「高校に入学からです。ギター自体は中学生の頃から少しだけやっていたんですけど」


「ほぉ、高校からで、あれだけ弾けるのか」


 感心したように宝来は顎を人差し指でさする。細身のジャケットの上からでも分かる腕の筋肉は細いながら、力強さとしなやかさが両立されていた。引き締まったその体躯から、この人はドラムを叩くのかもしれないと直感が働く。


「ありがとうございます」


 他校の先生に褒められるというのは初めての経験で、思わず笑みが表情に出てしまった。みなこはニタニタしてしまった顔を隠すように、音楽室の扉に手を掛けた宝来から目をそらす。暑さにへばった鳩が、中庭の影で羽を休めているのが見えた。「どこかで私の演奏を聴いて頂いたんですか?」と訊ねれば、「去年の大会の時に」と言って、宝来は音楽室の扉を開いた。


 音楽室もやはり立派なものだった。森の中にいると錯覚してしまうほど、木を貴重としたデザインに部屋の中は統一されている。そんな温もりのある空間に、威風堂々と鎮座する漆黒のグランドピアノ。汚れのない五線入りの黒板に、壁の棚に並んだ楽器の数々。何もかもが新品のように真新しい。羨ましいという言葉がつい出てしまいそうになるほど、素敵な音楽室だった。


「探してくるから待っていて」


 そう言って、宝来は黒板の横にある、これまた木製の遮音扉の中へ入っていった。あそこが軽音部の使っている部室らしい。ジャズ研には専用のスタジオがあると言っていたから、また別のところにあるのだろうか。


 宝来を待っている間、みなこはぼんやりと音楽室を見て回る。


 というのも、夏休みの間は吹奏楽部が音楽室を独占して使っているらしく、指揮台を中心に、半円状に椅子が何十脚も並べられた状態のままになっていた。それなのに広さにはまだまだ余裕があって、冒険心がふつふつと湧いたのだ。


 他校の施設をまじまじと眺めるのは行儀が悪いと思いつつも、大きな大木を切り抜いた高価そうな棚には、ガットギターと一緒にアコーディオンが並んでいて、近くでみたいという欲求が抑えられなかった。アコーディオンは初めて生で見たかもしれない。授業で使うこともあるのだろうか。楽しそうだなぁ、とアコーディオンを弾きながら愉快に踊る七海の姿を思い浮かべる。


 それから壁に飾られていた吹奏楽部の賞状を見やりながら、ゆっくりと奥にあったグランドピアノの方まで歩いていくと、教師用の備品が収められた棚の隣に、胸の高さほどのガラスケースが飾られているのが目に入った。あまりに仰々しく飾っているものだから、賞状やトロフィーかと思ったのだけ、それらは壁や校門に飾ってあったはずだ。やはりと言うべきか、違った。


 飾られていたのは、何枚かのCDと音楽雑誌だった。それもジャズ雑誌。黒を貴重とした表紙には、どこかで見覚えのある若い男性がドラムスティックを持って重々しい表情を作っている。


「ギターの弦、これで良かったかな?」


 声を掛けられてみなこは振り返る。


「もしかしてこれって宝来先生ですか?」


「見つかってしまったか」


 それなりに本気度の強いため息をこぼして、宝来は眉根を下げた。「校長には、やめて欲しいとお願いしたんだが、相手にされなくてね」と苦い声で続ける。


「先生はミュージシャンだったんですね」


「しばらく前に一線は退いたけどね。それに若い頃のものばかりで恥ずかしいよ」


 本人はそう言ったが、飾られているものの中にはこの数年の間に撮ったと思われる宝来の写真もあった。もしかすると、最近まで音楽活動を続けていたのかもしれない。こういうことは、沖田姉妹が詳しく知っていそうだが……。


「先生になられたのは最近のことなんですか?」


 目の前に本人がいるのだから、本人に聞くのが手っ取り早い。


「教師になったのは、この学校にジャズ研が出来た年からだ」


 ジャズ研が出来たのは二年前のはずだから、宝来は教師になって今年で三年目ということになる。見た目こそ若いが、彼はすでにそれなりの歳のはずなのに。掲示されているものが見つかれば、聞かれることは覚悟していたらしい。こちらが訊ねるまでもなく、宝来は自白するように話し始めた。


「ここの校長先生に誘われたんだ。指導をしてみないかって。初めは吹奏楽部かジャズ研の顧問の話かと思ったんだが、まさか音楽教師までやらされるとは……。『やらされる』は失言だったか、いや言葉の綾だな。もともと学生の頃、ミュージシャンになるか教師になるかを悩んでいた時期があってね。そのことを校長は知っていたから。感謝しているんだ、手を差し伸べてくれたことをね。一線から退く決断をした私に……」


 宝来の顔の皺の一本一本の深くまで、やるせなさが刻まれている気がした。こちらまで後ろ髪を引かれたような気持ちになる。不安げなみなこの表情を見てか、宝来の皺はすぐに明るい感情に書き換えられていった。


「校長には感謝しているんだ。どんな形であれ、音楽に関わることが出来ている」


 最低でも三年前だろう。ミュージシャンの引退にすれば、宝来は明らかに若すぎる。確かに還暦が近くなれば、若い頃に比べて、スピードや瞬発力はピークアウトしていくのかもしれない。それでも技術に衰えなどなく、むしろ渋さを増して、さらに演奏が熟練していくはずだ。あれだけ雑誌に取り上げられ、CDを何枚も出せる実力があるなら尚更。そういう歳を迎えたはずのタイミングで、宝来は一線を退いた。


 それがどういうことを意味しているのか、理由を聞くのは野暮に思えた。だから、追求はしなかった。きっと調べれば出てくるとも思ったのもあるけれど。


「それじゃ講堂に戻ろうか。少しは顧問らしく指導をしてあげないと」


 扉の方へ踵を返した宝来を追うとしたけど足が出ない。まるで木の床に来客用のスリッパが打ち付けられてしまったように重たかった。きっと、宝来の背中が偉大なミュージシャンのそれだったからだ。つい言葉が湧き上がってしまう。


「私の演奏は本当に良いものでしたか?」


 言葉の真意を理解したのか、宝来は立ち止まって少し逡巡した。暑さで歪む窓の外を見つめながら、彼は楽器をチューニングするみたいに、ピシャリと合う正しい言葉を探している。二秒ほどして、彼は真面目顔をして振り返った。


「先程の言葉に嘘はない。去年の大会で、君は素晴らしい演奏をしていた。けど、実力の話をすれば、それは一般的な高校生のギターを基準にした時の話だ。厳しい言葉を聞きたそうだと思うから続ける。いいかい?」


「はい」


「いまの君を具体的に評価するなら、高校生の中では並より少し上と言ったところだろう。一年前に一度聞いただけで、と思うかもしれないが、立場上、色々なところから生徒たちの評価や話を聞くことがあるんだ。それも踏まえて、『君は、これから毎日練習を続けていけば、プロになれる日も遠くない!』と断言できるほどの力があるとは言えない」


 思いの外、悔しさはなかった。むしろ清々しい気持ちと言ってもいい。心のどこかで自分は佳奈や桃菜のような存在ではないことを自覚していたんだと思う。もしかすると去年の文化祭での杏奈のことがあったから余計かもしれない。だから、腑抜けた顔や悲壮な表情はしていなかったはずだ。


 宝来は、少し意外そうに黒目を左右に揺らして、こちらの様子を伺いながら言葉を続けた。


「もちろん、一年でパっと変わる人もいる。そういう人は並々ならぬ努力をした者や、良いコーチが付いて、秘めていた才能が開花した者と理由は様々だろう。けど、そういうのは本当にごく一部だ」


 遠回しに君はそうではないと言われたはずだ。去年よりもちゃんと上手くなっている自信はあるが、覚醒のようなものをした自覚はない。コンボのオーディションで大樹に勝てないのがその証拠だ。


「才能というのは残酷なものだと思う。どれだけの気概があっても超えられない大きな障壁となって凡人の前に立ちはだかる。初めは超えられない壁だなんて思わない。頑張れば駆け上がれる坂のように見えているんだ。けど、やがてその坂が垂直なことを知る。そして気づくんだ、その壁は想像するよりもずっと高く、手前に倒れてきていることを」


「宝来先生はどちら側だったんですか?」


「今のは大学の友人に言われた言葉だ。それがきっかけでミュージシャンを目指した。教師を選ぶなんていうのはおこがましいし、申し訳ない気持ちになったんだ。音楽の道を歩みたくても歩めない者たちに、『俺たちの壁になったくせに』と言われてしまう気がしてね」


 迫られるような選択だったのではと心配になったが、「結局は背中を押してもらいたかっただけなんだろうな。友人もそれを分かって言ってくれたのかもしれない」と宝来が破顔して、みなこは少しだけホッとする。


「けどね、」


 宝来は、どこか遠くまで来てしまったような寂しい色に双眸を濁してから、そっと瞼を閉じた。「音楽はそれだけじゃない」と同じ言葉を二度繰り返す。


「才能だとか、技術だとか、それらは大切なものだけど、根幹にあるべきものではないんだ。もっと重要なものの上に音楽は成り立っている。君にはちゃんとそれがあったから、もちろん自覚しているかは分からないけれど。だからこそ、私は良い演奏だったと言ったんだ。それをふいに忘れてしまっている人も多いからね」


 根底にあるというものが何かを聞けば、彼はちゃんと答えてくれるだろうけど、みなこは敢えて聞きたくはなかった。みなこ自身の中にあると彼が教えてくれたのだ。自ら探して答えを見つけたいと思った。それに問題の先回しはお手の物だ。


「まだ宝来先生の言う大切なものが何か私には分かっていません。けど、いつか自分で見つけたいと思います」


 質問には答えたよ、と言いたげに宝来は肩をすくませて、また踵を返した。音楽室の電気がパット落ちる。けど、夏の陽射しをいっぱいに取り込んだ部屋の明るさはさほど変わらなかった。

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