二幕「大切なもの」

第1話 ドラマー確定

 夏の暑さと蝉のざわめきが嘘のように、ホールの中の空気は、空調のおかげでひんやりとした温度に管理され、しんとした静けさに満ちていた。大会の会場である神戸国際会館を彷彿とさせる立派なこのホールは少し緊張する。もちろん規模は神戸国際会館の方が何倍も大きいけれど。それでも此花学園のホールは、学園の生徒を全員収容できるだけのキャパを誇っていた。


「譜面台などは、セッティングが済めば、バラす必要はなく、そのままで構わない」


 長く真っ黒な髪をなびかせながら、眞莉愛がステージ脇の階段を上がってきた。スカートの裾からは、すらっとした脹脛が見えている。


 ホールの天井を見上げていためぐが視線を平行に戻した。


「ええの?」


「この二週間はジャズ研が貸し切っているからね。もちろん、急遽練習のない日に使用するものが出てくれば、片付けはこちらで請け負うよ」


 前日のうちに此花学園側のセッティングは済んでいたため、すでにステージ上には楽器や譜面台が並んでいる。ところどころ歯抜けになっているのは、宝塚南の生徒のためのスペースだろう。ちなみに今日は練習の最終打ち合わせのために、他の部員に先んじてめぐとみなこだけが到着していた。


「貸して貰ってるうえにそこまでしてもらうのはなんか悪いな」


「ここを指定したのはこちらだからね。それに宝塚南にはここまでの移動を強いてしまっている」


 律儀な眞莉愛に、めぐは少し肩をすくませた。その仕草を眞莉愛は愛らしい瞳で見つめる。背丈もあるだろうけど、眞莉愛の方がお姉さんのように思えた。


「おはようございます」


 恐る恐るという具合にホールの仰々しい扉が開く。「遠慮せずに、ほら入って、入って」と詩音に押されるようにして、奏が中へと入ってきた。以前に二人はまるで姉妹のようだと思ったことがある。お互いに大人しい印象のある二人がどこか似ていたからかもしれない。五月のイベントの時は、明梨の後ろに隠れていた詩音が妹で、それに話しかけていた奏が姉に思えていた、――けど。ここが詩音のホームとあってか、今回は奏の方が妹で詩音が姉に変わった気がする。詩音が積極的になったのは、仲良くなったせいもあるかもしれないけど。


 二人に続いて、ぞろぞろと宝塚南の部員が挨拶まじりに入ってきた。なだらかなスロープ状の通路で待ち構えていた明梨が、注目を集めるように手を打つ。


「セクションごとに譜面台を準備してあるで。うちの部員が到着次第練習を始められるように準備を始めてといて。複数の楽器をする人はその準備も。荷物は座席を好きに使ってくれてええから」


 明梨の指示を受けて、折りたたみ式になっている臙脂色の座席の上にカバンを置き、宝塚南の生徒たちは楽器の準備を始めた。マウスピースの振動やスリッパを踏みしめたパカパカという間の抜けた音が、先程まで静かだった観客のいない座席の上を飛び交い始める。


「おっきい!」


 いつの間にかステージの上に上がってきていた七海が、高い天井を見上げながら明るい声を上げた。「ドラムの彼女は演奏から感じるままの性格だね」と眞莉愛に耳打ちされて、みなこは恥ずかしい気持ちになる。


「元気すぎて困る」


「元気なことはいいことさ。ドラムというのはあれくらいの方がいい」


 すでにセッティングされているドラムに駆け寄り、七海は自身の好みの高さに椅子を調整し始めた。「よーし! やるでぇ」と景気よくくるくるとスティックを回す。


「まだ七海はドラム確定じゃないんちゃう?」


「えっ! うちがドラムじゃない?」


「此花学園にもドラムの子はいるやろ?」


「そっか!」


 大げさに頭を抱えて、七海の髪はへちゃりと持ち上がる。クスクスと笑いをこぼしながら王子様のような手付きで、眞莉愛がその手をそっと取った。片側の髪だけが人工的なくせっ毛の形に戻っていく。


「聞いた話によると、七海くんは他の楽器は出来ないんだね?」


 七海は素直にコクリと頷く。みなことめぐは話していないから、明梨か詩音が教えたのかもしれない。


「去年の大会や今年の五月頃のイベントで、実力は重々承知しているつもりだ。全国大会で優秀賞を取る宝塚南のレギュラーなだけはある。此花学園も三年生にドラマーがいなくて、二年生がレギュラーを張ってはいるが、彼はもともとトロンボーンでね。合同イベントである今回、生粋のドラマーである君の方がふさわしいと思っているんだ。その他のドラムを出来る部員も基本的には、複数の楽器と兼用の子ばかりだから、『Fly Me To The Moon』だけ譲ってくれれば、他の曲は七海くんにドラムを任せたいと思っているよ」


「そういうことなら任せといて!」


「ええの?」


「むしろ、みんなドラマーが来てありがたがってるくらいさ。七海くんだけに負担をかけるわけにはいかないから一曲はうちからも出すけれど。これだけの人数がいて、希望楽器がドラムである部員がいないのも珍しいことだね。ジャズでドラムなんて花形でもあるのに」


 そう言って、眞莉愛は柔らかくはにかむ。宝塚南でもドラムを希望しているのは七海だけ。宝塚南は人数が少ないのと女子の人数が多いせいもあるはずだ。杏奈や佳乃のように吹奏楽やブラスバンドから転向して来たり、めぐみたいに小さい頃からクラシックをしていたりするケースが多いから。此花学園は女子の比率が若干多いものの、半分近くは男子部員だというから不思議だ。 


「ちゃんとお礼言っとかなあかんで」


「分かってるって。子どもじゃないんやから」


 ぷい、とみなこから目線を切ると、七海は眞莉愛に向かって頭を下げた。彼女を礼儀正しくさせているのは、眞莉愛が放つお嬢様の佇まいだろうか。

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