第7話 愛しさ半分、憎たらしさ半分


 ホワイトボードに此花学園との合同イベントの曲目が記されている。大樹の書いた少々荒い字だ。その字を見ながら、「うーん」と里帆がうめき声に近い音を出した。何も大樹の字に納得がいかないわけじゃない。


 マジックのキャップを腰に当てながら閉めて、大樹がふっと息を吐く。


「さて、どうしたもんか?」


「まさか『Rain Lilly』をやるとは」


 此花学園との会議があった翌日の練習開始前、朝から幹部たちで集まり、文化祭の選曲を行っていた。部員が集まり出す午前九時頃より一時間早い集合時間だが、普段から朝練をしているみなこにとっては朝飯前の時間だ。


「イベントの曲と被せれば、なんとかなると思ってたのになぁ」


 机に肘を付き、里帆は重ねた手の甲の上に顎を乗せる。持ち上げられた唇が不機嫌な形に歪んだ。昨日、里帆が模試に行っていたため一日遅れての報告となったのだが、それがさらに里帆を悩ませているらしい。本番まで一ヶ月あるとはいえ、一、二年生はイベントも控え、三年生は受験などもあるのが現状。余裕はあるとはいえない。


 特に今回は、文化祭のステージ全体を通して、ビックバンドで統一することを里帆は目論んでいたらしいからなおさらだろう。まだ経験の浅い一年生たちは、短期間で何曲も仕上げなければいけない。


「『Rain Lilly』は入れてええんやろ?」


「去年もやったからなぁ。もちろん入れてもええんやけど」


「ビックバンドだけで通すならさすがに必須ちゃう?」


「そうなんよな。向こうのイベントでやるなら入れる他ないよな」


 去年の大会で演奏した『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス』は、去年のJSJFで宝塚南が演奏した楽曲で、その速度は言わずもがな、かなりの技術を求められる高難易度の曲である。去年のみなこたちは、五月頃の花と音楽のフェスティバルの手前から半年ほどに渡って練習をして、ようやくものにできた。


 里帆が悩んでいるのはそこだろう。イベントの曲目に『Rain Lilly』がある以上、この二週間、一年生はイベントの練習に注力しなくてはいけなくなる。そうなると文化祭の練習時間はかなり削られてしまう。


「すみません。何も考えずに決めて」


「ううん。伊藤ちゃんは謝らんでもええんやで。お客さんがお金を払って見てくれる外部のイベントは重要やし。もとより、そこの選曲を見てから文化祭は決めようと思ってたから」


 里帆としては、イベントでスタンダードナンバーを四、五曲練習してくれれば、文化祭でもその経験を活かせると踏んでいたのだろう。被っている練習期間はうまく活用したかったに違いない。ただその思惑は外れて、一年生が参加する曲はわずか三曲。そのうち、スタンダードナンバーは一曲だけ。当初の里帆がやりたかったセットリストを実現しようとすると、なかなかハードなスケジュールを組むことになってしまう。


「『ルパン三世のテーマ』は盛り上がりそうやからええんんちゃう? お客さんからの受けも良さそう」


「それはそうやと思う。『明るい表通りで』も三年生は演奏したことあるしいけそうやな。『私は虹の麓を探さない』は、大会に向けての練習も兼ねてるからやるとして。あと四曲は必要や。清瀬ちゃんは何かアイデアある?」


 椅子に座った里帆が体ごとこちらに向く。低い位置で束ねられた髪が背もたれを駆け上がった。


「そうですねぇ……」


 里帆の進行はしっかりしているけど、眞莉愛を見た今は少し拙く思えた。それは彼女にこの場を掌握しようという算段がないせいかもしれない。里帆は純粋に部員の意見が知りたいのだ。その一方、眞莉愛は思惑通りに会議を進めていく。どちらが正しいというのはないはずだけど、どちらかと聞かれれば、みなこは里帆が醸し出す空気の方が好きだと答える。


「会場は今年も視聴覚室なんですよね?」


「そうそう。ジャズ研と有志のバンドは、あのステージを交代で使うのが伝統になってるから」


 視聴覚室にパーテーションを並べて作られる簡易的なステージ。それを思い浮かべ、脳内で再生されたのは、ステージ上ではなく楽屋での出来事だった。杏奈の決意と奏の思い。それに翻弄された文化祭だったのかもしれない。


「去年は確か、織辺先輩のリサイタルからスタートやったなぁ」


 大樹が思い出しているのはステージ上の出来事だったようで、懐かしむように腕を組みながら感慨深く息を吐いた。


「織辺先輩だからこそ聴かせられる入りやったな。伊藤ちゃんもしてみる?」


「いやいや、さすがにあのクオリティを求められるのはきついです」


 過度な謙遜をする方ではないめぐがこれほどまでに否定するのは、去年の知子の圧倒的な演奏を目の当たりにしたせいだ。視聴覚室にキース・ジャレットが降臨したのかと錯覚させる知子の演奏は、ジャズをよく知らない宝塚南の生徒たちをも魅了した。


「伊藤ちゃんが無理なら谷川ちゃんの歌でもええけど? クリスマスライブでは好評やったし!」


「拒否されると思います」


「やんなー」


 どないしよ、と太ももで肘を支えて、里帆は両手で頬杖を付く。その横顔は出会った頃よりも少しだけ大人びているように見えた。


 執拗に見つめていたつもりはなかったのだけど、こちらの視線を感じたのか、手に顎を乗せたまま、里帆が視線をよこす。くりっとした目が僅かに細くなった。見つめていた理由を問いただされる前に、思わず言葉が出てくる。


「冒頭は三年生だけでコンボの演奏をしてはどうですか?」


「私たちだけで?」


「はい。せっかく学校のみんなに聞いてもらえる機会ですし。これが、……最後かもしれないので」


 言葉が詰まったのは、最後であること可能性を口に出すのが怖かったからだ。文化祭のあとは、大会モードへと完全にシフトしていくため、三年生がイベントに出演する機会はほとんどなくなる。口にすると、形なんてないはずの寂しさが、胸の奥底で鋭さを持ったように突いて来た。


 大樹が、「ええんちゃう? 俺も三年だけのコンボやってみたい」と朗らかな笑みを浮かべる。


「一、二年生はイベントがあるんやし妥当な判断かもなぁ。清瀬ちゃんの言うように学校のみんなに私たちの演奏を聴いてもらえる最後のタイミングかもしれんし、ええ機会かも。ママも見に来るし」


「その歳になってママって」


「なんか文句あんの?」


「なんでもありません」


 里帆が腰を浮かせると、大樹は即座に頭を下げた。クスクスと笑いをこらえる下級生の二人を見ながら、二人は息を合わせたようにケタケタと笑い出す。


 和やかな空気を纏ったまま会議は進み、すんなりと残りの二曲は二年生だけのコンボで演奏することに決まった。


「ビックバンドだけっていうのはよかったんですか?」


「あー、やれればって感じやったし。現実問題、イベントがあるんじゃ厳しくなっちゃったしなぁ。はじめから計画書通りにことが運ぶとは思ってへんよ」


 可愛らしくウインクして、里帆はすっと立ち上がる。自分が里帆を尊敬しているところはこういうところなんだな、とみなこは心の中でごちた。自然と着いて行きたくなる背中。それは知子が持っていたものともまた違う。知子はみんなを導く灯台だった。目指すべき場所でもあり、その光を見なくては、先に進めないような感覚。


 でも里帆は、懐中電灯を持って一緒に先を目指してくれている感じがする。「どっちに進みたい?」と時々振り返ってくれるような優しさを持ち合わせていた。


「決まったならここからはマネージャーさんのお仕事や。時間がないから急がな!」


 そう言って、里帆は慌てた様子で部屋を飛び出していく。


「走ると転ぶで」


「やかましい!」


 閉まりかけた防音扉の向こうから里帆の怒鳴り声が聞こえて、「聞こえてたか」と大樹が渋い苦笑いを浮かべた。



 *



「おつかれさまっす! これはみなこ先輩用の文化祭の楽譜です」


 クリアファイルの中に収められた楽譜を、つぐみから手渡される。みなこが小スタジオで朝練を行っている間に、大スタジオはすっかりミーティング仕様に変わっていた。すでに何人かの部員は着席している。自慢げな顔を見るに、つぐみ一人で準備をしたらしい。小スタジオにいることは分かっていたのだから、声を掛けてくれれば手伝ったのに。「偉いねー」とみなこが褒めると、つぐみは「どんなもんす!」と鼻息を荒くした。


「楽譜、昨日の今日で用意したん?」


 彼女が里帆から選曲の報告を受けたのは昨日のことだから、半日でこれを用意したらしい。わざわざ個別でクリアファイルに入れて、と凝った仕上がりだ。


「コピーして入れるだけですから、人数もそれほど多くないですし。こういう作業は好きな方なんっす!」


「マネージャーは天職だ」


「そうとも言えます!」


 目の前で誇らしげに胸を張る後輩を愛おしいと思うのと同時に、つぐみがジャズ研で居場所を見つけてくれたことを心から嬉しく思った。ギターの上達に苦しんでいたこの数ヶ月の彼女とは見違えるような表情に、思わずみなこは胸を撫で下ろす。


「どうしたんすか? 寝不足ですか?」


「違う違う。なんでもないから」


「そうですか? 寝不足なら言ってください! 膝を貸しますよ」


「たとえ寝不足でも貸してくれなくてええから」


「けちですね」


 どうして借りる側がけちだと言われなくてはいけないのか。不満そうなみなこを余所に、入室してきた佳奈につぐみがファイルを手渡す。


「おはようございます! こちらは佳奈先輩の楽譜です」


「ありがと。わざわざファイリングしたん?」


「へへ。もっと褒めてくれてもいいんっすよ!」


「うん、偉い。ありがと」


 素直な佳奈からの賛辞に照れたのか、つぐみはこちらに視線を向ける。ニンマリとするその表情を見て、愛おしいと言った前言を撤回しなくてはと思った。愛おしさ半分、憎たらしさ半分だ。

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