第7話 マスカレード

 里帆から桃菜のことを頼まれたその日、最悪の空気感の中では中々練習は捗らず、早々に打ち切られた。いつもなら門限ギリギリまで夕食を取ることもしばしばだったが、今日は余裕を持ってホテルへと戻ってこられた。短く自由時間の多くない合宿期間の中で動くなら今しかない。


 同部屋の佳奈には、適当な理由を付けて別れ、みなこは桃菜と美帆の部屋の前にまでやって来た。チョコレートみたいな茶色いドアをノックする。


「はーい」


 明るい声がして、すぐに扉が開いた。


「あれ、清瀬ちゃん? 桃菜かと思った」

 

「え、桃菜先輩は留守なんですか?」


「さっき出ていってもうた。たぶん、夜ご飯を買いにコンビニかスーパーに言ったんやと思う」


 買い物ですか? と首をかしげたみなこに美帆はくすりと頬を緩めた。


「生きてる限りお腹は空くからなー。門限は破らんはずやから、一時間以内には帰ってくると思うけど」


「そうですか」


「あれ、もしかして、里帆?」


「え? あ、その。はい」


「ごまかすの下手くそか!」


 つい出てしまったらしいおどけた声をぐっと飲み込むように、美帆は真面目な顔つきでドアノブを握り直した。


「近すぎて言いづらいことだってあると思わへん?」


「そういうことは往々にしてあると思います」


「人に相談できるタイプの子じゃなかった。私がそばにいることで、言えない気持ちが和らいでくれればって思ってた。やけど今、必要なんは私じゃないんやと思う。抱えきれない思いが溢れて、どうしようもなくなってるんやと思う」


「美帆先輩に言わないのに、私に話してくれるでしょうか?」


「どうやろ。けど、そうやってぶつかってくれる子がこれまであの子にはいなかった。清瀬ちゃんならあるいは――」


 桃菜の帰りをロビーで待っていても良かったのだけど、ソワソワとする心を落ち着かせることが出来なかった。遠い問題なら後回しにするけれど、目の前の問題はすぐに解決しなくては気がすまない。


 *


 赤いテールランプが山肌を削ったような広大な敷地の駐車場に伸びている。駐車場に隣接している大型のスーパーマーケットや家電量販店も営業終了の時間を迎えつつあり、みな帰路に着こうとしているらしい。


 街灯がまばゆく照らす階段を登り、みなこは桃菜を探す。スポーツ用品店とドラッグストアの横を抜けて、桃菜がいるかもしれないスーパーの方へ向かった。夜の闇と同化する山の影から吹き降りる涼しく柔らかい風が汗ばんだ頬をなでる。


 静けさとは打って変わって、店内には明るいBGMが流れていた。レジの横の掲示板に自分たちが出演するイベントのチラシが貼ってあるのを見つけて、少しだけ恥ずかしい気持ちになる。


 一通りスーパーの中を見たけれど、桃菜の姿は見当たらなかった。ホテルからは大通りを通って来たから、入れ違えになる可能性は低い。ここの前にコンビニも覗いたが、その時にすれ違ってしまったのだろうか。


 もうすでにホテルに戻っているかもしれない。そう思いつつ、最後にもう一度、レジの方を覗けば、サッカー台の横に並んだ電子レンジの前に桃菜の姿を発見した。


 買ったお弁当を温めているらしく、無表情のまま、オレンジ色に発光したレンジの中を見つめている。


「お疲れ様です」


 みなこが声をかけると、この人はこんなにも素早い動きが出来たんだと感心するほどの速さで桃菜は首を向けた。それから無表情だった表情は崩れ眉がピクリと跳ねる。左右に微動する瞳にみなこは映し出される。繊細な絹織物が風になびくみたいな瞳の動きに、少し離れた位置でみなこは固まってしまう。


「……桃菜先輩」


 ピンと張り詰めた緊張の糸をたゆませるように、みなこは一歩踏み出した。その瞳に揺らぐ警戒心をなるだけ踏まないように。それだけ気をつけていたはずなのに、みなこが近づくやいなや、桃菜はその場から走りだしてしまった。台の上に置かれていた白いビニール袋が床にゆっくりと落ちていく。


「桃菜先輩!」


 みなこの叫び声と同時に、レンジから温め終了のベルの音が鳴った。遠ざかる桃菜を横目に追いながら、みなこは落ちたビニール袋を拾い上げる。熱々のお弁当を急いで袋に詰めて、みなこも走り出した。



 *


 荒い呼吸がひんやりとした夜風に拐われる。視界の縁の方へと消えていく車の音。暗闇に近づいているのは自分の方なのに、向こうから迫ってくる恐怖があった。遠かった桃菜の背中はすでに叫ばずとも声が届く距離にある。


「待ってください!」


 少なくなった酸素を目一杯使って声を上げた。開けた大通りに声が、放射状に散乱していく。みなこの声に反応したのか、単純に息が切れたのか、膝に手を着いて桃菜は立ち止まった。


 それを見て、みなこはゆっくりと桃菜のそばへと歩み寄る。逃げた子猫を囲うように慎重に。そっと、一歩ずつ。


 観念したのか、身体を屈めたままこちらに視線を向けて、桃菜は切らした息を整える。桃色のパーカーが、だらんと細く白い彼女の首に垂れていた。


「なに?」


 とつとつと吐かれた息には、熱々の二酸化炭素が混じっていた。透明感のある額から溢れた汗が、彼女の産毛のような眉を宝石のように煌めかせている。


「大丈夫ですか?」


「何が?」


「分かってますよね?」


「また、里帆か」


 もしかすると、去年の文化祭の時のことを言っているのかもしれない。杏奈のために動いていた時に、みなこは桃菜とも会話を交わした。それは里帆に動かされてのことだ。


「みんな心配してます」


 みんなの部分になのか、心配という部分になのか、桃菜はみなこの言葉から目をそむけるようにまぶたを閉じた。額に張り付く前髪を指で掬いながら、パーカーの袖で汗を拭う。落ち着き始めた呼吸を整え、彼女は顔を上げた。


「余計なお世話や」


「……すみません」


 そう言われると否定は出来ない。本来はみなこだって積極的に動くタイプの人間ではないから。どうも周りの人たちは、勘違いしている嫌いがあるようだけど。それを性格や理念ではなく、適材適所なのだとすれば、自分が客観視出来ていないだけだとも言える。


 黄色くまばゆい照明が、桃菜の背後の白い壁を照らし出していた。意識していなかった大きな建物は、西洋風のお城の形をした結婚式場だった。激しいメルヘンさが夜の町にうるさいくらいの彩りを与え、尖った屋根の先にぼんやりと浮かぶ月が、おとぎ話の中の世界みたいな空気感を振りまく。


 まるで逃げ出したお姫様を追ってきたメイドさんみたいだな、と息を吐けば、じっとりと口元に夏の暑さがこびりついた。引き戻された現実には、弁当の入った袋を持った自分を、華奢で傲慢な少女が見つめている。


「どうして練習に来てくれないんですか?」


 何を訊ねるべきか、何を問いただすべきか、そんなことを逡巡している暇はなく、みなこは脳内に浮かんだ質問を口にした。深い夜の闇のように一寸の先も見えない桃菜の思考は、外堀を埋めて、おおよその輪郭を探るしか無い。


「別に参加は強制じゃないやろ」


「そうですね。けど、」


 言葉を詰まらせてしまったけど、大通りを行き交う車の音のおかげで、違和感を与えないものとなった。ヘッドライトが桃菜の青白い肌をなでていく。


 ――――笠原先輩がいないと。


 そんな弱気な言葉を吐いて、媚を売るようにして、桃菜を釣れ戻したいわけじゃない。もちろん、桃菜がいなければ、ジャズ研のクオリティーが下がるのは事実だ。だけど、桃菜を連れ戻したいというのは、部のためだとか、里帆に頼まれただとか、それだけじゃない。


 弱気な本音を打ち消したのは、心の底に沈殿していた小さな感情だ。細かな砂粒みたいな思いだけど決して嘘ではない。口に出そうと喉元を通るうちに、大きく膨らみ、やがて熱のこもった感情に変わった。


「笠原先輩の音が聞きたいからです」


「なにそれ」


 ひどく冷たい声色が、みなこの口から飛んでいった言葉をアスファルトの上に叩き落とす。湿った香りを纏った夏の風を吸い込んで、みなこは細い腕を抱きかかえる桃菜を見つめた。


「練習に来て欲しい理由として駄目ですか?」


 もぞもぞと動く手のひらが、細い体躯の方へ肘をぐっと押し付けた。変わらない表情は仮面のようで、その奥に隠された感情を読み解くことを許さない。桃菜の背後にそびえるお城も相まって、まるでマスカレードだな、とみなこは心の中でひとり冗談を呟く。


「笠原先輩は、私たちに心を開いてくれていません」


「そうかもしれない。けど、それは駄目なこと?」


「いえ、構わないと思います」


 返答が意外だったのか、桃菜の丸い瞳に貼った薄い膜がゆらゆらと揺れた。じわじわと持ち上げられた眉根が桃菜の表情を変え、ようやく仮面にヒビが入ったのだと分かった。


「無理する必要はないと思いますから」


 踏み込んだ一歩に、桃菜が拒絶することはなかった。あまいフローラルの香りは、彼女が使っている柔軟剤の香りだろうか。けど、その香りは、みなこが手に持った袋から漂う、お弁当がかき消していく。


「東妻さんがずっと話しかけてくんねん」


「え?」


 不意に外された仮面に、思わず驚きの声が漏れた。いきなり素顔をみるのは憚られるので、視線をそらすように、みなこは優しく語りかける。

 

「佳乃ちゃんですか?」


「そう。ずっと」


 桃菜が語気を強めて「ずっと」と繰り返す。彼女が重きを置いているのは、「佳乃が」ではなく「ずっと」であることに、みなこは少しだけ安心感を覚えた。佳乃という個人が嫌われているわけではないらしい。


「佳乃ちゃんも心配してました。笠原先輩の調子が悪いんじゃないかって」


「私は話しかけられたくない」


 突き放すような言葉の割に、目の前にいるみなこに対して、それほど圧がないのはどうしてだろうか。距離感を間違えないように、本音を吐露し始めた桃菜の言葉に耳を傾ける。


「昔から人と関わるのが苦手やった」


「それは薄々感じていました。あまり積極的ではない先輩だなと思っていたので」


「私も清瀬さんは距離感を分かってる人やと思ってた」


 きっと今の状況を揶揄されているに違いない。笑っていいのか分からず、みなこは思わず夜空を見上げる。きらびやかな照明に黄色く塗りつぶされた白い外壁。車の音だけが鼓膜を揺すっているこの景色は、遊園地の園内を外から見ている時の感覚に近いと思った。


「人の心には必ず打算がある。思惑がある。私は他人に振り回されたくない。だって、私が傷ついてしまうから」


「嫌なことは嫌だと言えば良いんじゃないですか?」


「それは他人を傷つけるやろ。私は傷つきたくもないし、傷つけたくもない。だから、人とはなるだけ関わらないし、関わりたくない」


「時には嘘も必要なんじゃないですか?」


「それは駄目。嘘はもっと嫌い」


 素直に真面目な理由だと思った。自分に嘘をつけない真面目な性格であり、同時に人を傷つけることを本当に嫌っているらしい。桃菜の言っていることは正しいとは思う。筋も通っている。けど、お城の中のみたいな狭い世界にいるような窮屈さがあるのはどうしてだろうか。


 すらりと細い体躯から伸びる腕が、首に纏わりついているパーカーを掴んだ。薄桃色は夜の町に溶けない強さがある。彼女の心はその色に染まっているのだろうか。何色にも溶けないように、染まらないように。桃菜の心は透明になっている気がした。


「嘘なんかじゃなく、笠原先輩の言いたいことは分かったつもりです。私自身も感じていた距離感を言語化された気がします」


 意外そうな表情はそのままに、桃菜は視線をみなこの手の方へ向けた。自分の買ったお弁当を忘れていることにようやく気づいたらしい。


「ごめん」


 ぽつぽつと謝罪を口にして桃菜は腕を伸ばす。重さのない言葉は、湿った一陣の風に持ち上げられて、ふわふわと夜空の彼方に消えていった。


 みなこはとっさにお弁当の入った袋を自らの身体に隠す。


「けど――、」


 こわばった桃菜の指がピクリと動く。人差し指の第二関節から先だけが動揺を隠せていない。


「それじゃどうして美帆先輩とは仲良くしているんですか?」


 おもちゃを取られた子どもみたいな双眸が、みなこを見つめていた。拗ねた黒が夜の町に浮かぶみなこを映しだす。涼し気な世界に浮かぶ自分の表情は、我ながら怖いものだと思った。


「美帆は他の人と違うから」


「違うって、何がですか?」


 桃菜の声色がお城を照らす照明のように明るくなった。好意だとか、心酔だとか、とはまたニュアンスの何かが、鮮やかな彩りを持って、桃菜の唇から放たれる。


「美帆は音楽みたいな人やから」


「音楽ですか?」


 抽象的な比喩にみなこは首を傾げる。手のひらを漂うお弁当の温もりが肌の温もりと同化し始めていた。じんわりと湿った皮膚がプラスチック制の袋の感触を曖昧にする。


「音楽だけが私を傷つけない。どれだけ思いのままをぶつけても、怒らないし喚かない。すべてを受け入れてくれる。美帆はそれと同じ。私の素直な思いをぶつけても、いつも笑って受け入れてくれる」


 とっさに出てきそうになった言葉をみなこは慌てて飲み込んだ。都合の良い相手だとか、利用しているだけだとか、あまりにひどい言葉が溢れ出てきそうになったから。


 きっと、桃菜にそんなつもりはない。ただ純粋に心地のよい毛布に包まれてたいだけなのだ。孤独な桃菜を、その優しさで包む美帆との関係を否定できるほど、自分は出来た人間じゃない。


 けど、確認しておかなくちゃいけないことはある。


「美帆先輩は笠原先輩にとってなんですか?」


 難しい質問ではないはず。外から見た二人の関係は、単純な言葉で表現できるはずだ。けど、桃菜は口を噤んだ。心のどこかで、自分自身と美帆との関係性に疑問を抱いているらしい。


「美帆先輩は優しい人です」


「優しいことは悪いこと?」


「そんなわけないと思います。良い関係だと思いますから」


 二人の関係にヒビをいれるつもりなどなく、それが今回の問題の解決にもならないことは明白だった。その関係の名を友人と呼んでも支障はなく、関係性のあり方など人それぞれだと思うから。それでも桃菜の音楽に対する姿勢を聞けたことで分かったことがある。


「練習に来なくなった理由は分かりました。佳乃ちゃんにも上手く伝えておきます。でも、佳乃ちゃんは笠原先輩を慕ってるだけですから、それは分かってあげてください」


「分かった、東妻さんに悪意がないことは。だから、もう――」


 今度は奪い取りそうな勢いで、みなこの手の中にある袋に桃菜は手を伸ばした。持ち手を掴んだ桃菜の手を、みなこは逆の手で止める。


「いいえ。そもそも、私の質問が間違っていたのだと思います。練習に来なくなった理由を聞くべきではありませんでした。……笠原先輩の音が変わってしまった理由はなんなんですか?」

 

 深く関わろうとしてくる佳乃を避けるために練習に顔を出さなくなったというのは、筋が通っているし理解できる。けど、本来の問題は、桃菜が練習に顔を出さなくなったことじゃない。彼女の出す音が変わってしまったことだ。


「音楽は、すべてを受けいれてくれるんじゃないんですか?」


 桃菜の音が変わった原因があるとすればそこしかない。信頼していた音楽の裏切り、演奏することへの畏れ。それらが彼女の身に降り掛かった。だから、素直な感情を吐き出せなくなったのではないか。人に対する閉所的な性格のように、音楽に対しても心を閉ざしてしまったのではないかと思った。


「もしかして、文化祭ですか?」


 自分の知る限り、桃菜の心に変動がありそうな出来事は、杏奈との一件しかない。みなこの知らないところで別の問題が起こっていることも考えられたけれど、袋を掴む桃菜の手にさらに力が込められたことで、その勘は的中しているのだと分かった。


「音楽で人を傷つけてしまったと思ったんですね」


 杏奈の退部騒動の原因を告げた時、桃菜は「知らない」と冷たく切り捨てた。だから、気になんて留めていないと思っていた。他人の機微を気にしないタイプだと、みなこが……部員たちが誤認していたから。けど、その時のことを、彼女はずっと気にしていたらしい。


「負けた人が傷つくなんて知らなかった」


 桃菜が嗚咽のような息を吐き出す。


 人と深く関わろうとしなかった弊害だろうか。それとも妙か。音楽に出会ってからの三年間で、彼女は一度も敗北を経験していないし、敗北した人の内情を知ろうともしてこなかった。それが奔放な音を出せる要因だったのだ。


 なんというべきことか、それを崩してしまったのは他でなくみなこだ。知りたくもない他人の感情を桃菜に伝えてしまった。


 ただ、それが原因ならどうして今さら……。浮かんだ疑問と同時に、明白な答えが脳裏に浮かぶ。


「……もしかして、佳乃ちゃんと仲良くしないのって」


 この人は、本当は優しい人なのかもしれない。みなこの手から力が抜けていく。支えを失っても桃菜の手があるので袋は引力に逆らい続けた。桃菜の手を掴んでいた手も同時に緩んだはずなのに、桃菜は袋を奪おうとはしなかった。


「笠原先輩は怖い人だと思ってました」


「……私は人と仲良くするつもりはない」


「それは分かってますし、これからもそのままでいいと思います」


「どうして?」


「それが笠原先輩らしさですから。けど、負けた側のことなんて気にしなくてもいいと思います。笠原先輩の思っているように音楽は誰かを傷つけるためのものじゃないので。たとえ、それが利己的にうまくなりたいという欲求に基づかれたものだったとしても。負けた側の力が及ばなかっただけです」


「でも、負けた側は傷つく。鈴木さんは、悲しそうな顔をしていた。東妻さんもいずれは」


 そう思うのは、今回のオーディションで彼女が敗北を経験したからだろうか。音楽、……いや人生の中で他人を負かす場面なんて数え切れないほどある。そのたびに他人の心傷に触れていては、いつか心が壊れてしまう。


「傷つくのは頑張るための準備です。出来ない、勝てない、その悔しさでしか前に進めない時だってあるはずなんです」


 杏奈の顔が脳裏に浮かぶ。SF映画みたいに別の世界線があるのだとすれば、桃菜に敗北しなかった彼女は、どんな人間だったのだろうか。作る笑顔も選ぶ言葉もその声色も考えも心情も、何もかも別の彼女がいたはずだ。


 悔しさを、敗北を、乗り越えたからこそ、今の杏奈という人間がいる。その事実を桃菜に否定されるわけにはいかない。


「正当な勝負の世界での白黒に異議を申し立てるような人がいるなら私が許しません。だから、笠原先輩も負けないでください。何度でも立ち向かってください。そこに恨みや妬みはありませんから。今の先輩もそうじゃないですか?」


 無言で桃菜は頷いた。みなこは完全に桃菜の手を放した。重力に引っ張られて、お弁当を持つ手がだらりと下る。


 自分はどこまで桃菜の気持ちに寄り添えたのだろうか。ヘッドライトの光が流れていく桃菜の瞳を見つめながら考える。適任はやはり美帆だった、と。


 とぼとぼと桃菜がホテルの方へ向かって歩き始めた。門限までの時間はもうすぐそこに迫っている。自暴自棄になっていたとしても、彼女は部のルールを破るような人間じゃない。


 みなこが桃菜の少し後ろをついていけば、彼女は歩くスピードを少しだけ落とした。初めに出来た距離をなるだけ詰めないように意識する。それがみなこにできる先輩への最大限の敬意だったから。前を歩く桃菜の華奢な背中は折れそうなほど細く頼りない。けど、うごめくようにこちらを睨むむき出しの山肌が怖くなかったのは、先輩と歩いている安心感がそばにあったからだ。

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