第6話 半分半分

 翌日の全体練習にも桃菜は姿を見せなかった。


 綺羅びやかな照明に照らされているのに、ステージ上はどんよりと暗い空気が淀み、みんなの出す音も鈍く重たいものとなっていた。


「集中してや」


 鋭い里帆の言葉が曲を切り裂いていく。まばらに鳴り止んだ楽器は、バラバラになった部員の心のようだった。


「これはお客さんの前で演奏する曲。その意味を分かってる? 本番と同じ集中力で練習しないと意味ない」


 至極当然な里帆の注意に皆が顔を伏せる。部員の反応に、里帆が少しだけ臆したように見えたのは、桃菜のいない演奏が、核のない球体のように感じたからだろう。僅かな拍子で凹み、指で押しつぶせば簡単に歪んでしまう。そんな脆さを肌で、耳で、たしかに感じていた。


「桃菜先輩は大丈夫なんですか?」


 佳乃が訊ねれば、部員の何人かが顔を上げた。里帆の方を向く部員の表情には明確な不安が現れていた。たとえ不調であったとしても、桃菜の実力が部全体にもたらしていた安心感は計り知れない。


「いま、集中しなくちゃいけないことは何か分かってる?」


「はい。でも心配で」


「東妻ちゃんが気負う必要はない。問題はあの子自身のことやから」


「でも、私が……!」


「佳乃ちゃん、」


 里帆が語気を強める。佳乃がなんと言葉を続けようとしたのか、みなこは予想がついた。自分に責任がある旨を告げようとした佳乃を、里帆は止めたかったのだろうと思った。


「考えすぎ」


「……でも」


 里帆はおもむろにストラップからサックスを外す。半分ほど残ったスポーツドリンクを豪快に煽り、濡れた唇を拭きながら、「少し、休憩しようか」とため息まじりに呟いた。



 *


 ジメッとした暑さが肌を焼く陽射しと一緒に全身に絡みつく。休憩の間、楽屋に閉じこもっているのも息苦しい感じがして、外へと出てきてみたが、ひどい暑さにすぐに後悔の念が押し寄せてきた。今日の彦根は真夏日だ。


 大正時代を思わせる洋と和が入り混じったデザインの家々の一角に花屋を見つけ、みなこは涼感を求め立ち寄る。鼻をかすめる緑の匂いと一緒に聞き馴染みのある声が鼓膜を揺らした。


「実際のところどうなん?」


「何が?」


「桃菜さ。心配なんやけど」


「一応、ホテルでじっとしているだけみたい。部屋は美帆と相部屋やし、心配する必要はないと思う」


 ガラスケースの中に入った花々を前に、里帆と杏奈が並んで会話をしていた。また盗み聞きの容疑をかけられてはたまったもんじゃない。みなこは近づいて、「お疲れ様で」と声をかける。


「あれ、清瀬ちゃん? また盗み聞きぃ?」


「挨拶したじゃないですか。違いますよ! またなんていうのはやめてください……人聞きが悪いです」


「ははは、ごめんごめん」


 夏の花々に囲まれているせいか、杏奈の声はいつもよりも明るい色に聞こえた。その隣で里帆は真面目な面差しを崩さない。


「もしかして、清瀬ちゃんも空気の悪さ感じて逃げてきた?」


「……いえ、まぁそんな感じです」


 うまく否定できなかったみなこに、杏奈はわざとらしい無邪気な笑みを浮かべた。悪い空気をごまかそうとする大人な表情は、夏の暑さのように湿っぽい。


「ほらー部長、後輩もそういうところ感じちゃってるよ」


「ごめんて」


「いえ、別に里帆先輩のせいじゃ」


「ううん。私の力不足やから」


 ガラスケースに反射した表情を隠すように、里帆はわずかに視線を下げた。水滴に濡れた花弁の煌めきが、暗く重たい色を一層助長させていた。


「里帆先輩の判断は間違ってはいないと思います。桃菜先輩の調子は日に日に悪くなっていっているのは他の部員も感じていたことですし……」


「ありがとう、清瀬ちゃん。けど、どれだけ判断が正しくても、部全体の空気を壊してるようでは部長失格。本当ももっと穏便にことを進めたかったんやけど」


 部が崩壊している要因は、里帆のせいなんかではない。いつの間にか、桃菜の実力にすがっていた自分たちの甘さだ。自分たちは、桃菜一人が抜けたくらいなんてことない、と胸を張れるだけの自信を持てていない。


「責任感強くて非情な采配を下せるのは、里帆の良いところ。尊敬してる。けど、一人で抱え込もうとするのは里帆の悪いくせやで」


 杏奈の言葉に里帆が俯く。頬の筋肉がこわばっているのが見えて、唇を噛み締めているのだと分かった。杏奈は里帆の表情を伺うことはなく言葉を続ける。


「桃菜の問題を部長一人が抱える必要はないはず。もちろん美帆はサポートしてくれてるみたいやけど。桃菜も美帆には甘えてるフシがあるからさ。ここは我が宝塚南が誇る、解決役に一肌脱いでもらうっていうのはどう?」


「解決役? そんな人がいるんですか?」


 聞き馴染みのない役職名にみなこは首を傾げる。冗談交じりの言い回しだと分かりつつ、純粋に杏奈が期待を寄せる生徒が誰か気になった。


「あら、清瀬ちゃん謙遜ですか?」


「もしかして私ですか?」


「裏で幾度も暗躍してきたやん!」


「面倒なので、もう否定しませんけど」


 杏奈の言い回しに苦笑いを浮かべつつも、この一年間、自分がいくつかの問題に首を突っ込んできた事実は否定できない。褒められるようなことをしてきたつもりこそないが、当事者から感謝されるのはやぶさかではなかった。


「どう里帆?」


「でもこれは……!」


「三年生の問題? そうやって後輩を疎外するのは良くないで」


「そんなつもりじゃない」


「部長として自分が収めなくちゃって思ってるんやろ? 里帆は十分よくやってると思う。それに後輩に頼るのは悪いことじゃない。去年、私に手を差し伸べてくれた時は清瀬ちゃんを頼ったやん。それは将来を見据えて。それが清瀬ちゃんに役職を与えた理由でもあるはず。里帆が部長になったらその判断は変わってしまうん?」


 杏奈の退部騒動に、みなこを巻き込んだのは里帆だった。自分だけの力じゃ杏奈の気持ちには寄り添えないから力を貸して欲しいと頼まれた。だから、こうして自分の中だけで抱え込もうとしている里帆の姿は少しだけ違和感がある。


「清瀬ちゃんに余計な重荷を背負わせたくない」


「それは本音? それとも建前? 気負ってるのは今の里帆やろ?」


「……きっと建前」


「そうやろうね。これは失敗した部長経験者の意見やけど。他人を上手く使えないと上に立つ資格はない。言い方は悪いけど、これは必要な素質。心配しなくても後輩はちゃんと里帆のことを慕ってくれてる」


 照明で茶色く光る杏奈の双眸がこちらを向き、みなこは大げさに頷いて見せる。里帆のこれまでの働きを、部長としてのカリスマ性を、みなこはしっかりと肌身で感じていた。この人になら着いていけるし、力になりたいと心の底から思えている。


「それに桃菜も清瀬ちゃんになら話す気がする」


「どうしてです?」


「勘!」


 ふん、と膨らんだ杏奈の鼻孔に冷たい視線を向ければ、抜け落ちたように息を吐き、肩を落とした。「ごめん、冗談」と言いたげな瞳がみなこを見つめる。


「だって、清瀬ちゃんは他人の懐に入るのが上手やから」


「それって褒められてますか?」


「半分半分!」


「うそでも褒めてるって言ってくださいよ!」


 後輩らしい拗ねた言い回しをしたみなこに、思わず里帆も破顔した。その表情を見て、安心したみなこは、任せてください、と言わんばかりに胸を張る。


「それじゃ頼める?」


「はい」


 里帆の口端が僅かに揺れた。


「あの子の話を聞いて上げて欲しい」

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