第7話 音の波

 職員室に用があるという佳奈と食道の前で別れ、部室に向かうと、準備室からギターを抱えて出てくるつぐみと鉢合わせた。


「みなこ先輩、おつかれさまっす」


「おつかれー」


「あれ、チョコ食べてるんですか?」


「そ、一粒いる?」


「ありがとうございます!」


 小袋から一粒取り出して、つぐみの口元に運んでやる。嬉しそうに面差しを緩めながら、「ビターですねぇ、好きなんです?」と、つぐみの身体と抱えられたギターが斜めになる。


「甘過ぎるよりかは?」


「大人っす!」


「そうかな?」


 ギターを抱えているつぐみの代わりに扉を開けてやり、二人でスタジオの中へ入っていく。遅れてやって来たせいか、スタジオには誰もいなかった。割り振られている練習用の教室へ、個人練習に出かけたらしい。


「謝ってくれました」


 ゆっくりと閉じる扉の前で立ち止まり、つぐみは荷物を下ろすこちらをじっと見つめる。屈んでギターケースのチャックを開ける手を止め、「愛華ちゃん?」と、みなこは首だけを彼女の方へ向けた。


「はい。みなこ先輩のおかげです」


「そっか。それは良かった」


 朗らかさを孕ませたまま崩した表情は、わざとらしくはなかっただろうか。止めていたギターケースのチャックを完全に開ける。


 自分のおかげだなんて言われて、「そんなことはない」と否定の言葉が出てこなかったのは、つぐみにあっさり否定される未来は見えたからだ。「そんなことないっす!」そこから繰り返される押し問答に意味なんて見言い出せない。


「ほら、練習始めよう」


 みなこに促されて、扉の前に立ち尽くしていたつぐみも、セッティングを始めた。みなこは慣れた手付きだが、つぐみは未だに慣れないらしい。あーでもない、こーでもない、と覚えている手順を確認しながら丁寧な手付きで作業を進めている。


 それをじっと眺めながら、みなこは片手間でセッティングを続ける。丸めていたシールドを解き、まずはギターとアンプを繋ぐ。アンプのボリュームを落としスイッチを入れる。音量を上げていけば、細やかなノイズが次第に部室中に飛び散り始めた。


 無音だったスタジオに音楽のさざなみが立つ。音のボリュームは、まるで水深。大きくしていけばいくほど、水深は深くなり、やがて身体を飲み込んでいく。アンプから流れる細かなノイズは、くるぶしの辺りまで浸る浅瀬。コードを抑える左手で、水遊びをするみたいに弦を弾けば、スタジオに溜まった水に音の波長が広がっていく。


「愛華ちゃんの気持ちは分からなくもないんです」


 ギターのネックを掴んだまま、つぐみが音の水面に声を落とした。波紋を描いた波が、すーっと穏やかになっていく。


「きっと、辛かったんだろうと思うよ」


「私もそう思うっす。だって、愛華ちゃんが間違っていたとは、一概には言えないはずですから。もちろん、すみれの言うことも正しくて、みなこ先輩が私達と仲良くしてくれていたのは嬉しいことなんですけど、」


 つぐみは本当に冷静な子だな、と関心してしまう。普通なら、友人であるすみれの肩を持ってしまったり、部の方針に逆らう愛華のことを否定してしまいそうになるものなのに、彼女はしっかりと穿った見方をすることが出来る。 


「仲良くと厳しさを共存させるのは、容易なことではないと思うので。相手を知れば知るほど、優しさや甘えが出てきてしまうものなんだろうとも思います。……愛華ちゃんの求める部活象が世の中に存在しているのは事実でしょうし。ジャズではあるか分からないっすけど」


 つぐみの言うことは正しい。


 結果を求めれば、厳しさが増していき、やがて不要な馴れ合いはなくなっていく。そういう部活が存在していることや、そういった部活が様々な種目の全国大会で結果を出している印象は決して否定出来ない。


「……みなこ先輩」


 真夏の太陽のようなつぐみの目の輝きを、薄い何かが覆い隠している。息をするのを忘れて、みなこは小さな声を吐いた。


「なに?」


「宝塚南が、愛華ちゃんの考えを否定するのはどうしてなんです?」


 愛華の願う部活象も間違ったものじゃない。だったら――、愛華の考えを取り入れたっていいはずじゃないか。つぐみはそう言いたいのだろう。


 確かに、愛華は間違っていない。けど、宝塚南は、宝塚南の音楽は、彼女を否定してしまう。去年の三年生たち……、知子やみちるから言われた言葉をみなこは思い出す。宝塚南の命題はそこにある。


「楽しみながら勝たないと意味がないから」


「楽しみながらっすか?」


 たとえ、結果が伴わなくとも、そこから逸脱してしまっては、自分たちらしさは完全に失われてしまう。全員で楽しく奏でた音楽で、最優秀賞を勝ち取る。それが宝塚南のやり方だ。甘い考えだと笑われるかもしれない。舐めていると思われるかもしれない。けれど、厳しさだけを持って挑むよりも、困難な道程を自分たちは選択しているのだ。


「そう。笑顔で音楽を奏でないと楽しくないもん」


「音を楽しまないと音楽じゃないっすからね」


 椅子に腰掛けて、つぐみはピックを握った。表情は柔らかく、ネックを見つめる瞳にもう曇りはない。


「どう?」


「うーん。どうしても上手くいかないです」


 つぐみはいつも、みなこが教えた基礎練習を、律儀に懸命に取り組んでいる。けれど、どうも上手くいっていない。指が寝てしまっているために、ミュート音になって、ピッキングをする右手も余計な力が入っているせいで、上手く弦を弾けずにいる。


「もう少し力を抜いた方がいいかも」


「分かりました!」


 その日は、不規則で弱々しい波がスタジオの床にずっと押し寄せていた。


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