第4話 フィルター

 佳奈と話したその日の放課後、二、三年の幹部だけが集められたミーティングが招集された。呼び出しを掛けられた理由が分からないまま、みなこはミーティングが行われるスタジオの一つ下の階にある、練習やオーディションの時に使う空き教室へとやって来た。


「おつかれさまです」


 教室内にはすでに里帆、大樹、めぐの姿があった。「遅くなりました」と、みなこが頭を下げれば、「急な呼び出しやったからしゃーないよ」と大樹が表情を柔らかくする。


「今日はどうしたんですか?」


 探り探りの言葉で、呼び出された理由を訊ねて見る。単純に部活の運営方針であったり、今後行われるイベントの打ち合わせだったり、といった内容かもしれない可能性も考えたから。


「特にってわけじゃないやけど、ちょっとした報告会って感じかな。一年生もそろそろ部活に慣れてきたやろうし、変わった様子はないかなって。清瀬ちゃんたちは、一年生と結構仲良くしているみたいやし」


「たまに遊びに行ったりしてます」


「結構、結構。というか、感謝してる。三年生になって、想像以上に忙してくて……、本当は私らが一年生とのコミュニケーションをしなあかんはずやのに」


 里帆が弱音を漏らすというのは珍しいと思った。瞳の輝きが僅かにくすんでいるのは、湿っけを多く含んだ梅雨の空気のせいだろうか。良く効いた冷房が、廊下を歩いて汗をかいた肌を痛いくらいに冷やす。


「私らから見てて、一年生に今のところ、大きな不和は無いように思えるけど、清瀬ちゃんからはどう?」


「……そうですね」


 逡巡してしまったのは、すみれの言葉をすべて鵜呑みに出来ていなかったからだ。もちろん、彼女が悩んでいるのは本当だろうし、誰かを陥れるために嘘をついているなんてことはないとみなこは思っている。


 うまく言葉では言い表せられないけど、すみれが竜二に対して抱いている嫌悪感に、リアリティを感じられなかった。すみれの話している言葉に何かしらのフィルターが掛かっているような感覚。嘘というよりも、ごまかしだとかそういうものに近い。


 それに、今日の体育の授業中に佳奈に相談して、どちらか一方に着くべきでないと言われたことがブレーキになっていたのも事実だった。分かりきっていない状況の中、この会議の場で報告することは、どうも悪手な気がしてならない。すみれの言葉に抱いた違和感をうまく伝えられる気がしなかったから。竜二かすみれ、どちらかが悪者になるような伝わり方をすれば、ギリギリで保っていたバランスが崩れてしまう恐ろしさがあった。


 それでも、すみれが誤魔化しているフィルターの先にいる人物は、否が応でも想像がつく。それをみなこに隠しているというのはどうしてなのか。否定したのはどうしてなのか。少なくともみなこは、愛華との問題だと思っていたのに。素直に話せない理由が何かあるのだろうか。


 こういうフィルターのようなものを以前にも感じたことがある気がした。気がかりの引き出しを開けてやれば、前回のミーティングの時の里帆が顔を覗かせた。あの時の彼女も何かを隠していた気がする。


「それよりも」


 みなこの思考を、めぐの声が遮った。エアコンの吹出口から排出される空気のように冷たい息が、四つ引っ付いた机の上に落ちる。


「笠原先輩のことで話があります」


 めぐの言葉に、里帆が顔をしかめた。初めて見る彼女の苦悶の表情に、みなこは言葉を失う。


「私はてっきり笠原先輩のことで、今日は呼び出されたのだと思いました」


「それは……」


 いつもの里帆らしくない言葉尻に、大樹は視線を伏せたまま。凛と背筋を伸ばして、めぐは威風堂々と先輩たちと向き合う。彼女の放つ言葉は、ハッキリとした意思を持っているように感じた。


「今年の大会は、『私は虹の麓を探さない』でいくつもりなんですよね」


「そのつもり。一年生もしっかりと下積みのある子たちが多いから、秋にはこの曲を演奏できる力を付けていると思う」


「それとは別の意図がありますよね」


「……それは」


「私は初めにこの曲を聴いた時、良い選曲だと思いました。トランペットとトロンボーンの掛け合いは、宝塚南の演奏者たちの腕を客観視した素晴らしい選曲です。佳奈と笠原先輩の為のものやと」


 里帆はそっと目を閉じた。それから一度、ハッキリと頷く。


「あの二人はうちのエースやから」


「私もそう思います。あの曲は、二人の技術が必要な曲です。穏やかさと静けさの中に、情熱と希望を織り込ませなきゃいけません」


「二人ならあの曲を支えてくれるはず」


「つまり、あの二人の出来に今年の大会が掛かってると言っても過言ではないですよね」


「それは間違いない」


「けど、笠原先輩は、最近あまり部に顔を出していないです。週に一度の定例セッションの時だけ……。定例ミーティングにも顔を出さないこともありますよね」


 エアコンの風の音が、四人の呼吸の音を飲み込んでいく。めぐは、参加するべきミーティングに桃菜が来ないことを避難しているわけじゃない。純粋な心配が三年生を責め立てる。


 数秒続いた沈黙を破ったのは、「三年は色々と忙しいねん」という大樹の言葉だった。


「それは分かってるつもりです。けど、笠原先輩の休み方は、……うまくは言えないですけど、他の三年生の方々と違いますよね」


「それは伊藤の主観的な意見やろ?」


「伊坂」


 里帆が大樹を止めた。自分の言葉が荒々しくなっていたことに気がついたのか、大樹は「悪い」と謝罪を口にした。


 里帆と大樹の反応は、桃菜が部活を休んでいる理由が、不調にあることを明確に示唆していた。二人が隠そうとしているのは、心配事に後輩を巻き込みたくない優しさだろうか、知られたくはないという恐れのようなものだろうか。


 震えるような息を吐いて、めぐが言葉を続けた。


「笠原先輩の音がおかしいことくらい、私達は気がついています。先輩たちは、いつからなんですか?」


「……誤魔化しようはないか」


 里帆の顔がこちらを向いて、みなこも頷く。桃菜の異変を察していたのは、みなこだけに留まらない。佳奈もすみれも、佳乃だって。みんな口に出さなかっただけで、それぞれが違和感を抱いていた。


「私も初めは気がつかんかった。でも徐々に様子がおかしいことに気がついて。そのことについて、前にこのミーティングをした時に話そうと思ったんやけど、やっぱり言うべきではない気がして」


 前回のミーティングで里帆から感じていたフィルターの招待はそれだったのか、とみなこは納得する。


 それに、と弱々しい里帆の声が冷えた空気に溶けていった。


「あの子の手綱を握ってるのは美帆やから」


 桃菜の性格は難しく、里帆にはどうにも出来ないことも、美帆にだけ友好的に接していることも、みなこは知っている。けれど、休みがちになっているということは、美帆がコントロールを失っているこということなんだろうか。それがこの問題の重要性をさらに顕著にしている気がした。


「笠原先輩は何に苦しんでいるんですか?」


「分からへん。きっかけがいつだったのか、何だったのか。美帆にも話してくれへんらしいから。私が下手に聞いて、余計にこじらせるわけにはいかんやろ」


 里帆は、桃菜の難しい性格をちゃんと理解しているはずだ。理解している上級生たちが、手を出すべきではないと考えている以上、余計な真似は出来ない、と思った。これ以上先へは進んではいけない。パソコンに表示される警告文のようなニュアンス。クリックをする指が躊躇する。


「時間が解決してくれる問題には思えません」


 めぐがそんな風に思うのは、二ヶ月近い時間が流れても桃菜の不調が悪化の一方を辿っていることに起因するはずだ。上向きにならないなら、どこまでも沈んでいく。もしこれが、心の問題だったなら、そういう厄介さを孕んでいる。


「確かに笠原は不調なんやと思う」


 大樹の視線が下がっているのは、落ち着こうと気を払っているからだろう。なるだけ感情を込めないような話し方は、彼らしくないニュアンスを言葉に含ませている。


「けど、まだ大事にするようなレベルじゃないと思う。外部の人が笠原の演奏を聞いて、違和感を持つかな? あの子は何か問題があるって思うかな」


 大樹の言いたいことは、「桃菜の不調というのは、身近にいる自分たちだからこそ感じられるもので、普段の桃菜の演奏を知らなくては感じられないくらい些細なものである」ということだろう。


 その意見には、みなこも賛同出来る。桃菜の不調は二ヶ月間下降の一方を辿ってはいるが、演奏に支障をきたすほど重症化しているわけじゃなかったから。楽器が握れなくなる。音が出せなくなる。そういう症状にまでいたるケースだって、時としてあるはずだ。


「それに、里帆も言ってたけど、俺らがどうにか出来る問題じゃないと思う。笠原に寄り添えるのは美帆だけやから。大会までは時間はあるわけやし。経過観察くらいに留めておいてもええんちゃうかな」


「手遅れにならないですか?」


「大丈夫。美帆を信じよう」


 めぐを納得させたのは、いつも通りに近い言葉の強さだった里帆の一言だった。この答えに落ち着くのは、そもそも、不調の原因すら分からない状態で、机上の空論を広げていても仕方ない、とそれぞれが思っていたからなのかもしれない。


 教室の窓の向こうで稲光が轟いた。湿気と熱気を含んだ梅雨前線が、雷雲を発達させたらしい。数秒遅れて雷鳴が遠くから聴こえる。


 ――もし、ひと月先まで桃菜の不調が続いていたら。


 その可能性は大いにあるのに、その時の話を誰もしようとはしなかった。今はまだ、みなこたちにもごまかせる小さく些細な綻びは、やがて裂け目となり、いつか傷口に変わっていく。そのシーンを想像するのが恐ろしかったから。


 ――そして、その傷口から血が流れた時、塞いでやれる手段を自分たちは持っているのだろうか?


 ない、と結論付けることが恐ろしかったのだ。


 不穏な空気に包まれたまま、ミーティングは終わるかと思われたその瞬間、また轟いた雷鳴と共に、教室の扉が激しく開かれた。


 四人がそちらに視線を向ければ、廊下を駆けてきたらしい美帆が息荒く、ドアの縁に手を付きながら、視線を上げて声を発した。


「里帆、大変や」

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