第5話 敵のいない世界

 美帆に手を引かれた里帆を追いかける。自分がどこに向かっているのか、何が起こったというのか。階段を下りながら、起こりうるあらゆる出来事を想像する。美帆が血相を変えて、ミーティングを制止するほどのことだ。


「何があったん?」


 里帆の問いかけに、緊迫した表情のまま、美帆が息を吐く。


「喧嘩」


「喧嘩ぁ?」


「私じゃ止めれそうにないから」


 美帆に連れてこられたのは、一年生の教室が入っている校舎だった。去年までみなこたちも使っていた教室たちは、ほんの少しだけ懐かしい。けれど、自分たちの名残はすっかりなくなっていた。


「こっち」


 美帆に連れられ、今度は階段を駆け上がっていく。雨粒が激しく窓ガラスを叩きつけるくらい、雨脚は強くなってきていた。雷鳴と共に、三階から聞こえてきたのは怒鳴り声だった。


「馴れ合って何の意味があるん!」


 階段を登り切ったところに、渡り廊下へと続くコンコースがあり、そこですみれと愛華が激しい口論をしていた。二人の顔に出来た皺は、怖いくらいに感情をむき出しにしている。傍らには佳乃とつぐみがいたけれど、二人の言い合いに口を挟めないらしい。


 直前の怒号は愛華のもので、すみれがそれに応戦した。


「馴れ合いってどういう意味?」


「そのままの意味や」


「灰野さんは、自分が空気を乱してるってことに気づいてないん?」


「なんやの空気って」


「先輩たちが作り上げてきた空気や」


「しょーもな」


 吐き捨てられたような言い回しに、すみれの手が愛華の胸元に伸びる。細い手が華奢な愛華のリボンの辺りを握り込んだ。手繰り寄せられたシャツが皺を作り、愛華の首を僅かに締めた。顔をしかめながらも愛華はすみれを睨みつける。


「あんたら何やってんの!」


 見かねた里帆がすみれの手を掴んだ。とっさのことで里帆が紡ぐ言葉もどこか感情的だ。目の前に表れた部長の姿を見て、一瞬、すみれの手から力が抜けて、愛華のシャツの皺が穏やかになる。


「り、里帆先輩」


「どうしたん? なんでこんな言い合いをしてるん?」


 二人を交互に見つめた里帆の視線から、すみれの目だけが逸らされる。怒りや憎しみとは違う色の瞳を宿した愛華だけが、まっすぐに里帆を見つめていた。


「灰野さんが……」


「私のせいにするつもり?」


「あなたが部をめちゃくちゃにしようとしてる」


「私がいつそんなことを?」


「やから、部の空気を乱してる自覚がないん? 格好つけたいんか知らんけど、ずっと一人を気取って、そのせいで空気が悪くなってんの。あなたに気を使っている部員がどれだけおると思ってるん?」


「気なんて使っていらん。それに、それで空気が乱れるならそれまでの実力やってことやろ」


「好き勝手言わないで」


「好き勝手言ってるのはそっちやろ」


 二人の視線がまた激しさを持ってぶつかる。きっと、カラフルなビームの演出が出るくらいには、お互いの眼が血走っているはずだ。再び、すみれの腕に力が入りそうになった瞬間、里帆が声を荒げた。


「あんたら、もう高校生やろ! ええかげんにしい!」


 部長の叱咤に、二人はビクリと肩を震わせる。愛華の胸元を掴むすみれの腕を無理やりほ解き、里帆は二人の間に割って入った。


「お互いに言いたいことがあるのは分かる。仲が悪いことも、腹の立つこともあるのも分かる。時に感情的になってしまうことだってあるやろ。けど、手を出したり、声を荒げたりするのは、子どものすることや。相手の気持ちが分からんやつに、周りを見る余裕がないやつに、音楽をやる資格はない」


 落ち着きを持った厳しい言葉に、二人は唇を噛みしめる。その言葉が一方的に相手を殴りつけ、傷つけるために吐かれた言葉ではないことを、二人はちゃんと感じ取れたらしい。

 

「互いに思ってることがあるなら、まず私たちに話して。個別で話を聞くから。話をして、冷静に自分の気持ちを整理して、それから相手と向かい合おう。分かるな?」


 二人がコクリと頷いた。それから、里帆はすみれの手を引いて、愛華から距離を持たせる。渡り廊下に設置されている円卓の椅子にすみれを座らせ、何か一言かけてから、みなこの方へと近づき、耳打ちをした。


「清瀬ちゃんは、灰野ちゃんの話聞いたって」


「私がですか?」


「私じゃ話しづらいことあるかもしれんからさ」


 みなことしては、トランペットセクションの直属の先輩である里帆の方が、愛華の話し相手として適任だと思うのだけど。「な、お願い」と言われ、深い意図を訊ねる暇もなく、里帆の提案を承諾する。めぐでもいいと思ったけれど、めぐはピアノセクションであるすみれについてあげていた方がいい。


 みなこは愛華に近づくと、そっと手を握った。


「話を聞くの、私でもいい?」


「はい」


 噛み締められた唇が白く染まっている。愛華の心を蝕んでいる緊張は、先輩と話をしなければいけないせいだろうか。それとも自分の気持を他人に告げなければいけないせいだろうか。


「みなこ先輩。うちの教室、いま誰もいないみたいなんで使ってください」


 つぐみが隣の教室を指差す。そこは去年、みなこが使っていた教室だった。


 *


 先程まで稼働していたエアコンの冷気が、ほんの僅かに残っている。湿っけたっぷりの風が、みなこの開いた扉から勢いよく教室へと流れ込んだ。勝手にエアコンを付けて良いものだろうか、とみなこが悩んでいると、つぐみがエアコンの電源を入れた。


「さっき、私が消したのでたぶん大丈夫です」


「そっか。ありがとう」


 みなこのお礼に笑顔を浮かべて、つぐみは扉を閉めた。二人だけになった教室。去年、自分たちが使っていたはずなのに、すっかり知らないクラスみたい。黒板の汚れも、机の横に掛かった荷物も、空気も。知っているはずの絵に何かを描き足されたような違和感が、みなこの心に、ここは知らない場所だと告げていた。


「座りますか?」


 ぼんやりと教室を眺めていたみなこに、愛華がおずおずと話しかけてきた。ウルフカットされた軽さのある髪が、少しだけ湿気でくにゃくにゃになっている。


「そうやな。座ろうか」


 愛華が手近な椅子に腰をかけて、みなこはその隣の席に座った。椅子を九十度回転させて、愛華の方を向けば、愛華はまっすぐに座ったまま、身体だけをこちらに向けた。


 何から訊ねれば良いだろうか。


 緊張と不安と怒りと何かに対する疑念で、ごちゃまぜになった感情が、目の前の後輩の顔色を弱々しいものに変えている。


 どこからどう紐解けば、正しく愛華を理解してあげられるんだろうか。思い上がりのような優しさは、自分は先輩なのだぞ、という責任感から生まれたものだ。後輩のためと丁寧に包装した言い訳を武器に、どこまで彼女の心につけ入るべきなのか、みなこには分からない。けど、今のみなこの心の中に存在している気持ちは、どこまでも純粋に、後輩には笑顔でいて欲しいという願いだけだった。


「愛華ちゃんは、どうしてジャズ研に入ったの?」


 喧嘩の原因を追求されると思っていたらしい愛華は、「え?」と間の抜けた声を漏らした。小さな黒目が戸惑うようにこちらを見つめる。薄い茶色をした虹彩に宝石のような稲光が反射する。


「ジャズ研に入った動機。自己紹介の時は、理由は話してくれへんかったやろ?」


「そうでしたね」


 愛華は少しだけ身体を正面に向けた。机の端で手を組み、もぞもぞと指先を重ね合わせる。もどかしさが指の間で擦り合わされていた。


「全国を目指しているっていうのが魅力的だったんです」


「JSJF?」


「そうです。あ、私、中学の時は吹部に入っていて、」


「それは紹介の時に聞いたよ」


「そうでしたっけ。……それで、音楽は辞めたくなかったので、初めは高校でも吹部に入部しようかと思っていたんです。中学の先輩がここの吹部にいるので、体験入部に誘われて、行ってみたんですけど。あまり上を目指している雰囲気ではなくて、」


 愛華が初めてジャズ研を訪れてくれた時、友人に誘われて別の部活へ体験入部に行っていた、と話してくれたことをみなこは思い出した。愛華は、同じ学年に友人がいそうな雰囲気には思えなかったから少し不思議だったのだけど、あれは先輩のことだったらしい。おそらく、当たり障りがないように話してくれていたのだろう。


「それに比べて、ジャズ研は去年も全国大会でしっかりと結果を出して、今年はさらに上を目指していると新入生歓迎会で話されていました。明確に目標を定めて、実行しているところに魅力を感じて。だから、私はジャズ研に入ろうと思ったんです」


 ものすごく真っ直ぐな思いをぶつけられ、みなこは思わず「ありがとう」とお礼の言葉を返す。頬が緩み、にやけが顔に出そうになったのを堪えながら、表情筋に力を入れて平静を装った。自分の所属している組織が、正当な評価を受けるのは、どうも嬉しいものらしい。


 急にお礼を言われて驚いたのか、愛華が首を傾げながら、こちらを見遣る。みなこは言い訳がましく手を振りながら言葉を付け加えた。


「ジャズ研を選んでくれて。でも、不安はなかったの? 吹部に先輩がいるんやったら、そっちの方が安心するし、私なら吹部を選んでしまいそう」


「私は友人の有無はそれほど気にしないので。それに、その先輩と特別仲が良かったわけじゃないんです。向こうは人数稼ぎのために私を誘ったんだと思います。もちろん、ジャズは初心者だったという点で、不安はありました。アドリブだったり、これまでとは別の技術が求められることは分かっていましたし。けど、ジャズ研の皆さんが、大会に向けて懸命に練習に励んでいる姿を見て、自分も頑張れるだろうなって……」


 愛華の放つ僅かな言葉のニュアンスから、小さな彼女の綻びを感じた。頑張れるという言葉は、彼女自身が生産する自信の現れではなく、ジャズ研に対する期待値の現れのはず。だから、尻窄みの語尾は、ジャズ研に対する不満そのもの。その向こうに明確な傷跡がある気がして、みなこは息を止める。


 踏み込むべきだろうか。手を伸ばすべきだろうか。小さな綻びに指を掛け、こじ開けるように指先に力を込めるべきなのだろうか。開いた穴から何が流れ出てくるのだろう。それが溜まった膿ならまだいい。生々しい傷口が顕になって血が流れることを想像すると気が引ける。自分が手を伸ばそうとしているのは、人が触れられたくはないと願う、心の傷なのだ。


「愛華ちゃんは、ジャズ研を辞めたいと思ってるの」


「……そこまでではありません」


 虫食いのようなTシャツの穴に指を突っ込んだ感覚が明確にあった。細やかな繊維の一本一本が伸びて、はち切れそうになっている。指に絡む圧力を跳ね除けるように力を入れれば、簡単に裂けてしまう。それを確かめた上で、みなこは覚悟を決めて力を込めた。


「愛華ちゃんの不満は、想像していたジャズ研との温度差?」


「それは……」


 雷鳴の轟きがやけに近い。地鳴りの音に聞き覚えがあるのは、二人の口論を聞いたせいだ。階段の上から聴こえてきた声は、雷のような若々しい激しさを持っていた。


 言葉を詰まらせた愛華を、みなこは血を浴びる覚悟を持って追求する。


「すみれちゃんとの口論もそれが原因?」


 愛華の眉根に力が込められた。言い当てたのだろうと、とみなこは確信する。綺麗にセットされていたウルフカットからはねた長い前髪が、愛華の目元にかかった。指先で払いのけると、彼女はみなこの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「遊びで音楽をされるのは迷惑なんです」


「それは誰のこと?」


 決して責め立てるつもりはなかったのに、言葉が咄嗟にきつくなってしまった。誤魔化すわけにもいかず、できるだけ表情を柔らかくすることに努めながら、愛華の瞳を見つめ返す。不安と凶暴さの混ざった愛華の眼は、獣のような強さとあどけなさを持っていた。


「すみれに言われたんです。もっとみんなと仲良くするべきやって」


「それが口論の始まり?」


「はい。私はそのつもりはないって返しました」


 すみれの意見は、至極真っ当なものに思えた。同じ部活のメンバーと友好的に接しろというのは、ジャズ研が部活の集団である限り、抗うことの出来ない教育的な理念だと思ったから。 


 だけど、愛華はそれを拒絶した。


「なんで愛華ちゃんは、仲良くしたくないん?」


「私は上を目指したいんです。大会で結果が欲しい。そこに馴れ合いは不必要ですよね」


 愛華の言葉から悪意は感じない。彼女はただ純粋に自身の腕を上達させたいだけなのだ。


「すみれちゃんの言うこと、すべてが間違ってると思う?」


「……清瀬先輩は、そちら側の人間ですもんね」


「そういうわけとちゃう」


 思わぬ否定に愛華の瞳が不信感でわずかに濁る。まるで街中で胡散臭い占い師に声を掛けられたような反応は、下心を持って自身に迫る他人に対する警戒心だ。


「もちろん、すみれちゃんの言うことは正しいと思う。けど、もしすみれちゃんと向き合って話をしていたとしても、すみれちゃんに同じことを訊ねてた。『愛華ちゃんの言うこと、すべてが間違っていると思う?』って」


「それはずるいですね」


 弱々しい言葉が、冷たくなり初めた空気の中に溶けていく。雨音とエアコンのファンが混じり合った音が、鼓膜を小さな波長で揺らしている。


「愛華ちゃんが、すみれちゃんの考えを否定するのは、なにか理由があるんやろ? 仲良くしてはいけない理由が」


 すみれが、竜二に不満があるというのは恐らく嘘だ。愛華への不満を竜二に差し替えていただけに過ぎない。けど、彼女はどうしてそんな嘘をついたのだろうか。もしかすると、愛華の本音に気づいていたのかもしれない。愛華の不満が、ジャズ研全体に対して向いていたことを。


「話さないといけませんか?」


「ううん。その義務はないと思う。でも、愛華ちゃんの内情を知らないまま、ジャズ研は間違ってるとレッテルを貼られて、自分の思いだけを貫かれたら、すみれちゃんが怒るのも当然やと思う。それはきっとすみれちゃんだけじゃなくて。私だって、そう」


 すみれは、気を使ってくれていたんだと思う。自分たちの不和が先輩たちの迷惑にならないように。愛華が抱いている不満を、先輩たちに気づかれないように。それでも抱えていたストレスを発散したくて、怒りが向いている相手をすり替えていた。それが今日、どうにもならなくて爆発したというわけだ。


「初めは、イベントに向けて頑張っている部活なんだと思いました」


 淡々と愛華は話し始めた。みなこは静かに彼女の言葉に耳を傾ける。


「けど、馴れ合いみたいなものが徐々に出てきて。小幡さんがずっと話しかけてきたんです。私が嫌がってる素振りに気づいて、徐々に頻度は減っていきましたけど。それに井垣先輩も、ずっと私のことを構って……」


「愛華ちゃんは、つぐみちゃんや佳奈のこと嫌いなん?」


「いいえ。初心者ながら練習に懸命に取り組んでいる姿は偉いと思います。ただ、わざわざ友人になりたいかと言われると……。井垣先輩もとても上手な方で、演奏者として尊敬しています。けど、部活に馴れ合いは必要ないと思うんです」


「どうして、愛華ちゃんはそこまで人と関わりたくないん?」


 力を込めていた綻びの穴が大きく開いた気がした。中から熱く真っ赤な体液が流れ出て来る。確かに感じる脈の音は、自分の心臓の音だった。


「それは……」


 上向きの愛華の眦が僅かに下る。少しずつ遠ざかり始めた稲光が、彼女の赤らんだ頬を照らした。強い光に隠れながら、愛華は傷口が痛むように顔をしかめた。


「馴れ合いは向上心を生み出さないからです」


「そう思うということは、何か明確な理由があるんやんな?」


 確信を持って、みなこは綻びをこじ開けにいく。大きく開いた傷口から流れ出る血の色は、過去のトラウマの色だ。自分は愛華のそれを受け止めてやれるだけの器があるのだろうか。そんな不安げな素振りは見せちゃいけない。先輩は後輩のことを、いつだって受け止めてあげなくちゃいけないから。


「これは責めているわけじゃない。ただ知りたいの。それを知らないと、愛華ちゃんの考えを否定も肯定も出来ない。ここに二人で来た意味がなくなる」


 纏わりついた冷気を振り払うように、愛華が自身の腕を撫で上げた。シャツから覗く肌を掴み、愛華は俯く。前髪の影が彼女の表情を隠した。明るい教室の中にポツンと落ちた影を、稲光が顕にする。目に浮かんだ涙を拭いもせず、愛華はうつむいたまま、とつとつと言葉をこぼした。 


「中学の吹部の時代、私は一生懸命練習をしていました」


「紹介の時に言ってたよね」


「はい。けど、周りは違いました。金賞を取ろうだとか、全国に行こうだとか。そういった目標もなく、なんとなく毎日集まっているだけでだったんです」


「空気が悪かったん?」


「たぶん、そうじゃありません」


 愛華は首を振った。肩にかかるくらいに伸びた後ろ髪が、カッターシャツの襟を撫でる。


「私にとっては嫌な空気でしたけれど。他の多くの部員にとっては心地のよい場所だったんだと思います。男女、学年、別け隔てなく仲が良くて、イジメやグループなんてものにも無縁で。けど、そこには競争もありませんでした」


 みなこは愛華から視線をそらし、六限目の板書が消えきらず濁った黒板の方に目を向けた。愛華の話す吹奏楽部のことを、想像で黒板に描いてみる。白とピンクと黄色のチョークで絵。自分はその場所をどう思うだろう。もしかすると、その和気あいあいとした空気感を心地よいと思うのかもしれない。


「愛華ちゃんは、最後まで吹部を続けて続けたんやんな?」


「……はい。吹部には友人もいましたし、何よりそういう雰囲気を私が変えていけると思っていたので」


 愛華の口から紡がれた過去形の言葉は、挫折を表している。もし、愛華が当時の吹奏楽部を変えられていたとすれば、いまここにこうしていないはずだ。


「仲良く敵のいない世界で、異分子は排除されるんです。誰もひどいことは口にはしませんでしたが、和気あいあいを良しとしない空気感を出せば、白い目が向けられました。もちろん、黙々と練習をしている分には、誰も文句を言いません。けど、誰かを巻き込んで全体を動かそうとすれば、猛烈な反感を買いました。『もっと楽しくやろうや。だって音楽やろ?』って」


 優しさの中に潜まされた刃が、愛華の喉元に突きつけられている場面が浮かぶ。その先輩の顔をみなこは知らないから、愛華のそばにいるのは、薄い偽りの愛情を仮面に塗りたくった人の顔だった。


「あの頃、みんなが浸かっているぬるま湯を煮えらせることは出来ず、私はぬるま湯に浸かり続けることしか出来なかったんです。そこで徐々に体温が奪われて、自分らしさが失われていった気がしました」


「それで、ジャズ研に入ってきたんやな」


「はい。JSJFという明確な目標を掲げる素敵な部活だと思いました」


 愛華がすみれたちと仲良くしない理由は分かった。愛華にとって、友好関係とは馴れ合いなのだ。馴れ合いからは競争は生まれない。競争のない部活では、実力は伸びない。だったら――。


「これは純粋な疑問なんやけど。愛華ちゃんはどうして部活に入ったん? 楽器を続けるなら他の道もあったはず。サックスなら音楽教室だってあるし」


「だって――」


 愛華の瞳に稲光が反射した。虹彩の奥が激しく煌めく。薄い茶色の中を黄色い花火が弾け飛ぶ。地響きが教室の窓を揺らす。ガタガタと震えた振動は、地震のようにみなこの座る椅子をも揺さぶった。


「みんなで音が合わさるのが好きなんです」


「だったら、」


「分かってます。小幡さんや井垣先輩の私への態度が優しさだってことは。それに今の清瀬先輩だって――――、」


 愛華の瞳から涙がこぼれ落ちた。一粒、二粒、とチェック柄のスカートの上にシミを作る。冷たい空気の中で、そのシミはしばらく乾きそうになかった。


「でも、仲良くしたら、また中学の時みたいに、なぁなぁになってしまうじゃないですか」


 きっと、愛華は分かっているはずだ。宝塚南は、イベントや大会のために多くの時間を割き、ひたむきに練習に励んでいることを。宝塚南は、愛華がいた吹奏楽部とは違うことを。築き上げられている友好関係は、馴れ合いなどではなく、信頼と意思疎通のためであることを。


 頭で理解していても、心が追いつかない。愛華の心に空いた生々しい大きな傷口は、まだかさぶたにすらならず、真っ赤な血を流し続けている。


 それを塞ぐ術はなく、ただ血が止まるまで、流れ出る血液を受け止め続けるしかない。


「佳奈は、人と話すのが苦手なタイプやねん」


「井垣先輩がですか?」


「そう、去年の花と音楽のフェスティバルの終わりに、七海と言い争いをしてね。佳奈は、それまで人と群れたりするタイプじゃなかったから、しつこく仲良くしようする七海がうざかったらしい」


「井垣先輩に、そんなことが」


 今の佳奈しか知らない愛華には驚きがあったらしい。人見知りで他人と距離を置いていたあの頃の佳奈はもういない。ずっとそばにいたら日々の変化には気づかないのに、こうして過去と今を対比すれば、感じる変化は明確だ。


「今、佳奈が愛華ちゃんと仲良くしようとしているのは、昔の自分を見てるみたいでひやひやするからちゃうかな。本人に聞いても否定するやろうけど」


 愛華は目に涙を浮かべたまま動かない。軽い襟足がエアコンの風に揺れる。

 

「仲良くしてると、色んなことが、なぁなぁになるっていうのは分かる。けど、うちのジャズ研は、愛華ちゃんのいた吹奏楽部じゃない。人も違っていれば、ルールも違う。目標も学校も伝統も、何もかもが違う」


 背筋を伸ばしたまま、みなこは言葉を続ける。息を吸った刹那、外の雨音が静かになっていることに気がついた。愛華の小さな呼吸の音とエアコンのファンの音が混ざっている。心臓の音は自分の鼓動だ。


「もし、愛華ちゃんが佳奈と仲良くなったとしても、佳奈がオーディションで手を抜くことは絶対にない。練習が馴れ合いになることも絶対にない」


「絶対ですか」


「うん。佳奈には明確な夢があるから」


「……夢」


「そう。私の口からいうべきじゃないやろうけど。佳奈は誰にも負けたくないって思ってる。むしろ、仲良くなった方が、残酷なくらい本気で愛華ちゃんを倒しにいくはず」


 ――――だから。


「宝塚南を信じてみてくれへんかな?」


 もう少し格好の良い説得をするつもりだったのに、なんとも腑抜けた着地地点に、みなこは自嘲する。弱々しい表情の自分を見るのが恥ずかしくて、瞼を閉じて愛華から目をそらした。


「やっぱり仲良くした方がいいんですかね……」


「それは愛華ちゃん自身が決めるべきことやと思う。でも、どうして、どんな理由で、どれくらいの距離感でいたいのか、説明をするべきちゃうかな。近づき過ぎたくないなら、その旨を伝えるべき。それでも私はいいと思う。必ずしも仲良くなることだけが、すべてやとは思わへんから」


 瞼を持ち上げて、愛華を見れば、彼女はこちらをじっと見つめていた。つぶらな瞳が宝石のように輝いている。その唇が一瞬だけ、開いてまた閉じた。


「話せばみんな分かってくれると思う。だけど、コミュニケーションを完全に遮断するのはだめ。そんな状態で作れる音楽は限られると思うから」


 みなこの言葉に愛華は、「……はい」と弱々しく声を漏らした。声が震えているのは、涙を流しているかららしい。唇の動きが先程と同じだったことから、さっきも返事をしてくれようとしていたことが分かった。


「一人でも大丈夫?」


「はい。雨宮さんたちにちゃんと話して来ます」


 愛華は上向きの眦に残っていた涙を拭い立ち上がる。洟をすすり、みなこに深いお辞儀をして、教室をあとにした。


 みなこの思いは、二、三年生の総意だ。そう思うのは、桃菜という存在がいるからだろう。彼女もあまり人と関わろうとはしない。それを容認しているのは、桃菜が言葉以上に明確なメッセージを伝えられる圧倒的な実力を持っているからだ。


 その実力がゆらぎ始めている。愛華の説得を通じて、宝塚南に迫っている大きな障壁の影にみなこは気づいてしまった。

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