第3話 胸騒ぎ

 甲高いシューズの音と乾いたバスケットボールの音が体育館に響く。硬い床に座り続けるのに嫌気が差して、みなこは三角座りの体勢のままお尻を浮かせた。ついでとばかりに、隣に座る佳奈を覗き込む。


「何?」


 汗ばんだ首筋に、束ねられたポニーテールから逃げ出した産毛が張り付いていた。怪訝な佳奈の目がみなこを睨む。先程の試合で転んだことをからかわれると思ったのかもしれない。膝の辺りがほんの少し赤くなっている。


 随分と近い距離にいるために、みなこが少しばかり動けば、ムシっとした空気を割くように、ひんやりとした風が半袖から覗く腕を撫でた。


「この間さ、すみれちゃんに呼び出されて」


「呼び出し?」


「ほら、相談に乗って欲しいって」


 からかいではない安堵感のあとに、佳奈の表情がまた少し曇る。呼び出しという言い方は不味かったかもしれない。そんな言葉遣いをしていた悪い先輩のせいだから、とみなこは心の中で言い訳を並べた。


「みなこって後輩から相談されるんやな」


「ありがたいことに。親しみやすいってことなら嬉しいんやけど」


 佳奈とは別のクラスだが、合同授業になっている体育と音楽だけは、同じ時間割りになっている。昼休み前の四限目のこの時間、本来はグラウンドの授業だったのだが、雨が降り続いているため、体育館での授業となっていた。


「どんな相談やったん?」


「気になるの?」

 

「少しはね。言える範囲で教えて」


 佳奈の真面目な面差しに、みなこは悪戯な表情を引っ込める。一年生のことを気にかけているのは、佳奈も先輩になったからだろうか。サックスセクションの後輩である愛華との関係は、未だに良化していないらしく、何かきっかけがあればと思っているのかもしれない。


 ボールの音が近づいてきて、みなこは正面を向く。みなこたちが座っているすぐそばを、機敏な動きの奏がドリブルで駆け抜けていった。小さな手に吸い付くボールは、軽快なビートを刻みながら、白線のギリギリを弾んでいく。おっとりとしているイメージがあるが、奏は意外と運動神経がいいのだ。黄色いビブスが全開に開けられた窓から吹き抜ける風に揺れる。


「トランペットの一年生に井上くんっておるやん」


「うん。大人しい子やな」


「そうそう。すみれちゃんは、井上くんのやる気のないところが気になるらしくて」


「そうなんや。けど、井上くんって、大人しいイメージこそあるけど、やる気がないってほどではないけどな」


「私もそう思う」


 バスケットボールが綺麗な弧を描き、ゴールに吸い込まれていく。シュートを放った奏が、歓声を受けて恥ずかしそうにチームメイトとハイタッチをしていた。みなこと佳奈も拍手を送る。


「大きな問題が浮き彫りになるまで、あんまり踏み込みすぎないようにっていうのが、幹部ミーティングでの決定やったから、深くは聞いてないねんな」


「それは懸命な判断やと思う。みなこからいま聞いただけやけど、この件は、井上くんに対して、すみれちゃんが一方的に嫌悪感を抱いているだけやと思うから。……でも、もしかすると井上くんに何か問題があるかもしれない。それはすみれちゃんにも言えることやし。……つまり、落ち度の所在が分からない状況で、一方に肩入れしてしまうようなことは危険やと思う。どちらかが悪意を持って接しているというなら話は変わってくるけど。私は今のところそうだとは思えない」


 経験者は語る、だ。思ったことが顔に出てしまっていたのか、佳奈は不機嫌な声色で「別に去年の自分と重ねてるわけじゃない」と指先で首筋に流れる汗を拭った。


「分かってるって」


 否定をしたのは不毛な言い争いをしたくなかったからだ。わざわざ否定するということは、佳奈自身もそう思っている節があるからだろう。それをわざわざ指摘する必要はない。原因こそ違えど、去年の七海と佳奈のいざこざと似たような状況になっている。


「去年の先輩たちもこんな風に悩んでたんかな」


「自虐?」


「やから違うって」


 我慢できずに、つい悪戯心が勝ってしまう。唇を噛み締めたはぐらかすような笑みで悪意がないことを伝える。佳奈に自虐の趣味がないことは分かっているから。そうなると単純な本心なのだろう。その意見に関してはみなこも同感だった。


 赤くなった膝を擦りながら、佳奈は顔をしかめた。「痛む?」とみなこが訊ねれば、「青たんにはならんくらいかな」と佳奈は唇を噛んだ。打ちどころが良かったらしい。


「それとは別の話なんやけど、」


 この間の喫茶店での出来事を佳奈に話したのは、すみれのことを伝えたかったというよりも、こちらの話題を切り出したかったからだった。


「最近の笠原先輩どう思う?」


 漠然とした問いかけに、佳奈は「うーん」と考え込んだ。答えを思案しているというよりかは、言うべきかを悩んでいるようにも見えた。抱え込まれた膝が佳奈の胸元にぐっと引き寄せられる。


「上手くは言えんけど、」


 バックボードにボールが当たった衝撃が体育館に響く。リングに跳ねたボールが、天井の方へとゆっくり舞い上がった。


「調子は良くないと思う。音に違和感があるというか」


「覇気がない感じがする」


「そうとも言えるかもしれない。音のメリハリというか、感情の大胆な動きが笠原先輩の魅力やと思うんやけど、最近は細かい部分で迷いがあるように聴こえるというか。その原因は、精神的なものなのか、肉体的なものなのか分からんけど」


 一時期の不調だとするなら、良くあることだと片付けられるのかもしれない。もしかすると、佳奈やみなこ、ましてや一年生のすみれや佳乃まで気づいているとなると、これまでこの話が表向きにならなかったのは、周りも本人も、そういうものだと認識していたからなんじゃないだろうか。


 気持ちの浮き沈みも肉体的な疲労やバランスの変化も、時間と共に正常へと戻っていく。どれほどの上級者にも起こり得るこの問題は、桃菜だって例外ではなく、同時に桃菜ならばすぐに復調出来るとみんなが考えていた。


 けれど、みなこが桃菜の異変を明確に察知したのは、花と音楽のフェスティバルから。そこから、すでにひと月以上が経とうとしていた。桃菜の不調が始まったのは、それよりも前だとすれば、少なくとも二ヶ月近くも不調が続いていることになる。


「佳奈はいつから気づいていたん?」


「花と音楽のフェスティバルの前くらいから徐々に。セッションを重ねるたびに、アドリブへの反応が悪くなっていった感じかな」


 これは長いものなのだろうか。短いものなのだろうか。三年間という高校生活において、二ヶ月という時間はあまりに貴重だ。


「それに最近、笠原先輩って部に顔出さんやん。来るのは定例セッションの時くらい。去年はあまり休んでる印象なかったのに」


「無口ではあるけど、練習は熱心やったな。……けど、三年生になったら、受験とか色々あるんやろうし、忙しいのもあるかもしれんやん」 


「確かに、里帆先輩も美帆先輩もイベント前と比べると明らかに顔を出す数は減ってる気がする」


「夏休みには合宿もあるし、また練習の密度は増すやろけどさ」


「やと、いいんやけど」


 胸騒ぎがするのは、どうしてだろう。梅雨の気配を纏った世界が、近づいてきている夏を包み隠しているように、みなこたちに見えている問題の裏にも大きな何かが潜んでいる気がしてならなかった。


 それが何かは分からないけど。


「そういえば、みなこ今年は何貰うん?」


「何が?」


「高橋からの誕生日プレゼント。みなこの誕生日はもう来月やん?」


「そうやけど、まだひと月くらいあるやん。それに今年も貰えるか分からんし」


「みなこ、お返しはちゃんとしたんやろ?」


 みなこは「ん」と頷く。鼻から吐き出した息が、汗ばんだ手首に生ぬるい風を吹き付けた。ついでに言えば、クリスマスにマフラーを貰ったことも、バレンタインに義理チョコをあげて、ホワイトデーにお返しを貰ったことも、佳奈は知っている。


「なら、今年もあるやろ」


「そうかもしれんけど。貰う側は分からんよ」


「去年、みなこが悩んでいたみたいに、高橋も今頃悩んでるんちゃうかな」


「どうやろ」


 自分のために航平が悩んでいる姿を想像すると、嬉しさが半分、しめしめと喜ぶ幼心が半分で、絶妙なバランスを取っている。どちらに傾いても危険に感じるのは、子どもと大人の間に自分がいるからだろうか。


 手動式のホイッスルがなって、試合が終了した。「それじゃ、次のチーム出てきて」と先生に促され、みなこは半身になっていた身体を持ち上げる。


「みなこちゃん交代だね」


「奏ちゃん、ナイスシュートやったよー」


 みなこにビブスを渡しながら、奏は恥ずかしそうに「ありがと」と呟いた。 

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