第6話 彼女さんですよね?

 夕陽が車窓に流れる山並みの向こうへ沈んでいく。銀縁の遮光の隙間から差し込むオレンジ色が、木目調で統一された高級感のある車内を包み込んだ。穏やかな揺れに揺られて、七海はすっかりみなこの隣で寝息を立てている。


 車内に流れるアナウンスが、みなこの家の最寄り駅である鶯の森駅を告げたのを聞き、みなこは七海の肩をゆすった。何の夢を見ていたのか、「ハリセンボン!」と、首を傾げたまま、七海は眩しさに抵抗するようにゆっくりと瞼を上げる。


「何が?」


 蒼白な顔から、どうも怖い夢を見ていたことは察せたが、発された言葉があまりにシュール過ぎて、その内容は想像し難い。


「ミラーボールがハリセンボンになってステージの上に! めぐも奏も食べられちゃって」


「ハリセンボンに?」


「ううん。獏の格好をした里帆先輩に」


 夢だから荒唐無稽であって当然なのだけど、さすがに訳が分からない。物語を順に追って説明し始めようとした七海を制し、「ほら電車が着いたから降りよう」と彼女の手を引いて座席から立ち上がらせる。


 四月の中旬だといえ、夕方になるとまだまだ吹き付ける風が冷たい。新緑に色づき始めた木々たちも、カサカサと音を鳴らし、凍えから身を寄せ合っているように見えた。


 線路へと伸びる長い影を踏みしめながら改札を抜ける。鶯色に染まった駅舎は、上から塗られたオレンジでその色を深くしていた。七海が懲りずに、「里帆先輩の頭から耳が生えていて」と話し始めたところで、「お疲れ様です」と背後から声を掛けられた。


 振り返ると、少し慌てた様子で、スクールバックから伸びる定期ケースを改札にかざす佳乃の姿があった。定期入れとスクールバックを結ぶ紐は、失くしてしまわないようにつけているのだろうけど、適切な長さじゃない。また、紐は伸縮するタイプのものではないため、佳乃は少しだけ窮屈そうに身体を捻りながら改札を抜けて来た。


「おつかれ」とみなこと七海は、駅舎の券売機の前で立ち止まる。


「やっぱり同じ電車だったですね」


 くせっ毛のある髪をふわふわと花粉混じりの風になびかせて、佳乃は嬉しそうに破顔した。髪型のせいか、おぼこい顔つきのせいか、どことなく昭和のアイドルを思わせる可愛らしい雰囲気があった。少しおっとりとした仕草が、その可愛さをさらに引き立たせている。


「佳乃ちゃんも鶯の森が最寄りやったんや」


「はい。お二人とも、西中ですよね?」


「うん。もしかして佳乃ちゃんも西中?」

 

「そうです」


「まじか!」


 同じ中学が出身だと知り、七海は嬉しそうに駅舎の二段だけの階段をジャンプしてアスファルトへと降りていく。スカートを大袈裟に翻しながら半回転して、真面目な顔つきで唇をすぼめた。


「うちらの一個したってことは、仮設校舎時代を知らんってことやろ!」


「仮設校舎ですか?」


「佳乃の入学した時は、校舎がピカピカやったやろ? 実は、建て替え工事があってん」


「そうやったんですねー」


 綺麗で気持ちよかったです、と佳乃は自然と溢れる朗らかさを表情に出す。無邪気な七海を微笑ましく見ているようでもあった。


 みなこの記憶が正しければ、建て替え工事は、みなこたちが入学する頃には、ほとんど終わっていて、仮設校舎は上級生の人たちが使っていたはずだ。最後の一棟が完成する秋頃まで、職員室がそちらに移っていたので、訪れる機会がなかったわけじゃないけど。


 ホームを出た電車が直ぐ側の踏切を超えていく。夕焼けに染まるマルーン色の車体は、ゆっくりとしたスピードで遠ざかり、遅れてサイレンの音がやんだ。


「佳乃ちゃん西中なら家もこの辺り?」


「いいえ。うちはもっと中学校側にあります」


「そっか、なら駅からは結構歩かないとダメやな」


「そうなんです。……自転車だと帰りが坂道で辛いので」


 佳乃のこぼした溜め息が、小さなちぎれ雲の浮かぶ春の空へと消えていった。みなこや七海が通っていた西中は、コンビニなどがある幹線道路を超えたさらに西側にある。駅近くのこの辺りからだと三十分ほどかかる距離であるため、みなこは中学生の頃、毎朝、大変な思いを強いられた。その上、山の中腹にあるため、かなりの坂を登らなくてはいけない。


「こっち側から通い続けたうちらの苦しみが分かったやろ!」


 心地よいくらいの先輩風を吹かせる七海に、「毎朝、大変でしたねー」と佳乃がしみじみ呟く。宝塚南に入学してまだ数週間だが、佳乃は坂の上り下りの辛さを痛いほど感じているらしい。 


 七海と佳乃は、距離は違えど、帰る方角は同じであるため、みなこは遠回りになるとわかりつつ、そちら側へと着いていった。ちょうど帰りにコンビニを使う時の道順だ。


「そういえば、佳乃ちゃんって、中学の時はサッカー部のマネージャーやったんやんな?」


「そうです」


「ほんなら航平のこと知ってるん?」


「はい。高橋先輩がジャズ研に入っていることを知って、私も久しぶりに楽器をやってみようって思ったんです」


 佳乃が入部挨拶の時にこちらを見ていたことが腑に落ちた。あれはみなこの隣にいた航平に対しての会釈だったらしい。それならそうと、仮入部で佳乃が訪れた時に教えてくれても良かったのに。別に知ったからと言って、どうなるわけではないのだけど。なんとなく、航平に黙っていられたことが腹立たしかった。


 心の波間が荒立っていたことを察せられたらしく、「高橋先輩、目当てとかじゃないですよ」と佳乃が慌てた様子で自身の顔の前に両手を突き出した。


「知ってる人がいた方が安心でしたから。高橋先輩が、サッカー部の中でも優しくて良い先輩だったのは事実ですけど。私が宝塚南に来たのもホント偶然で、」


 言い訳を並べられて、みなこは首を傾げる。知り合いがいた方が安心するというのは何もおかしなことじゃない。それが異性であろうと、中学時代の同部の先輩であれば尚更だ。


 住宅の間を縫うようにして続く石造りの階段の踊り場で、佳乃はこちらの反応を見るやいなや眉根を下げた。


「だって、清瀬先輩は、高橋先輩の彼女さんなんですよね?」


 思わぬ質問に吹き出したのは七海だ。水筒に入れられた麦茶を盛大に吹きこぼしている。制服の端が、夕焼けに焦がされたように焦げ茶色に染まっていることなど気に留めることなく、ケラケラと笑いながらこちらを見遣った。


「やってさ、みなこ」


 からかいの色に染まった七海の瞳がこちらを見下ろす。別に勘違いされているだけだ。ちゃんと訂正すれば問題ない。


 整然とした態度で、しかしながら穏やかな雰囲気を持って、みなこは事実を告げた。


「別に航平とは付き合ってへんよ」


「そうだったんですか……! すみません。他の先輩たちがそんな話をしていたので……てっきり……」


 もしかすると、航平は部員たちから、からかわれていたのかもしれない。異性の幼馴染を持つもののあるあるなのかも、とみなこは唇を尖らせる。悪い気はしないが、勘違いされていたことが、ちょっとだけ小っ恥ずかしかった。


 笑い続けてすっかり濡れっぱなしの七海の口元を、佳乃がハンカチで拭った。よく出来た後輩だ。うーん、と声に出しながら、まるでシャワーあとの子猫のように黄色い木綿に七海はじゃれつく。


「本当にすみません。私、本当の話だと勝手に思い込んでて」


「ううん。全然、大丈夫。ただの幼馴染やから。でも、中学の頃は、そんなに話してなかったのに、そういう噂って立っちゃうものなんやな」


 色んなごまかしが含まれた笑いを浮かべて、みなこは夕焼け色の大海原に浮かぶ小さな影の小島へと一歩踏み出す。電線の影が島と島を結ぶ橋のように何重にも掛かっていた。その橋を、七海が飛ぶように軽く駆け上がっていく。


「でも、」


 階段を登りきったところで、佳乃が言葉を漏らした。ブルベな白い片頬が陽に照らされて赤くチェリーのように色づいている。眉根に力が込められて薄い皺が寄った。意を決した佳乃の表情に、みなこは冷たい花粉混じりの息を飲む。


「清瀬先輩は、よく理科室のところからサッカー部の練習を覗いてましたよね?」


「そ、そうかな?」


「私、何度か見ました」


 まさか、誰かに見られていたとは。深淵を覗く時、深淵もまた、だ。言い訳を述べようとしても、真っ白になったみなこの脳内はすっかり機能不全に陥っていた。すぐ側で笑っているだろう七海の笑い声も耳に入って来ない。


「だから、先輩たちが話していたことは、てっきり本当のことだと。でも、勘違いだったんですね」


「そ、そう」


 相手から自分がどう映っているかなど気にせず、みなこが大袈裟に頷けば、佳乃は少しだけ残念そうに息を漏らした。思わず出たものだったのか、佳乃は誤魔化すように真新しいローファーを軽快に鳴らす。

 

「私は大通りの方に出ますけど、お二人は?」


「私はこっち」


 佳乃が大通りの方を指差したのを見て、みなこは自宅の方角を指差す。


「もしかして第二公園の方でしたか? 遠回りさせちゃいましたね」


「ううん。私が勝手にしたことやから。それに、七海に着いてこっちまで来ることもあるし」


「みなこは放課後、良くうちに遊びに来るからさ」


「遊びにじゃないでしょ。じゃあいいよ、もうこっちまで来ない」


「嘘です! いつも通り数学教えに来てください!」 


 七海とのやり取りに、佳乃が「ありがとうございます」と口角を上げた。照れを完璧に隠さない仕草に、元来、彼女自身に備わっている愛嬌が垣間見える。


「それじゃ、お疲れー」


「お疲れ様です」


 マネージャーでも運動部出身とあって挨拶もしっかりとしている。幹線道路の方へ続く坂を上っていく佳乃を最後まで見送り、同じ場所で七海とも分かれた。


 怖さなどまだ知らない小学生たちが、全力疾走で坂を下ってくる。騒がしさは風のように、みなこのそばを過ぎていった。グラウンドに響く懐かしい掛け声が、その風に乗ってどこからか聞こえて来そうに感じて、みなこはポケットに入っていたイヤホンを取り出し、そっと耳を塞いだ。


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