第7話 基礎練習

 新入生の入部から一夜明けて、本格的に一年生も交えての練習が始まり出した。当面は、五月の下旬にあるイベントに向けて、部活を運営していくことになる。ここから約一ヶ月半、オーディション、中間考査、本番とかなり詰まったスケジューリングだ。下校時間前にミーティングが予定されているため、そこで『花と音楽のフェスティバル』の詳細が伝えられるのかもしれない。


 大切そうにギターを抱え、つぐみが楽器室から戻ってきた。宝塚南の楽器室には、赤と青色のストラトのエレキギターがあり、つぐみは青色のものを選んだ。二本は、同じメーカーの物で、なおかつ購入時期も近く、音にさほどの差はないため、見た目で判断したらしい。「青色好きなんっす!」と、ストラップを肩から下げて、鼻息を荒くした。


「似合ってる!」


「ほんとっすか! 嬉しいです!」


 部室に姿見鏡がないため、みなこは写真を取って、つぐみに見せてやる。


「ロックスターみたいです!」


「やるのはジャズやけどね」


 ぐるんぐるんと野球のランナーコーチャーみたいに大袈裟に手を回し、つぐみはその場で跳ねた。見た目だけは、元気ハツラツな可愛らしいガールズバンドのギターだ。


「それじゃ時間もないから、ギターの指導を始めていきたいと思います」 


「お願いします!」


 副部長職で忙しくしている大樹に代わり、つぐみの指導はみなこが任せられた。つぐみがみなこを慕って入って来てくれたことや、同性の方が良いだろうと判断したことも要因の一つかもしれないけど。みなこは、まだ秘密の朝練を継続して練習時間に余裕があったため、快く引き受けた。 


「まずは基本的なギターの説明から」


「はい!」


「ギターの弦は六本。構えた時に下から一弦、二弦、三絃と合計六本の弦があります。それぞれの音は一弦から、E、B、G、D、A、E。Cがド、Dがレに対応してるんやけど、それは分かる?」


「音楽の時間に習った気がします」


「それなら話は早いね。次に和音の説明。ギターは右手でリズムを刻んで、左手で和音を抑えます。和音も音楽の時間でやったかな?」


「ド、ミ、ソ、みたいなことですよね?」


「そうそう、よく知ってるね。それがコードではCと呼ばれるものです」


 みなこは自身のギターでCのコードを鳴らしてみる。アンプには繋いでいないので、乾いた鉄の音が小さくなった。


「このコードを押さえて、六本の弦を右手ですべて鳴らす奏法をストロークと言います。これはリズムを奏でることが主です。それから単音だけで引く奏法もあって、こっちはギターのソロの場面なんかで使います。つぐみちゃんは、まずコードを覚えること、いくつかあるストロークのリズムパターンを覚えること、単音弾きを習得することの三つを目標にしてもらいます」


「どれくらいで出来るようになりますか?」


「うーん。もちろん人それぞれやけど。まずはやっぱりコードを覚えるところからだね。二週間くらいで最低限のコードの種類を覚えてもらえれば、実際に簡単な曲を使用した練習に入っていける。そうなれば、あとはコードバリエーションと慣れやから。半年くらいで基本的な曲には対応できるようになるんちゃうかな」


 みなこは棚に並んでいたギターの教則本を抜き取る。少し舞った埃に顔をしかめて、その本をつぐみに差し出した。『基礎から始めるエレキギター』は随分と長い間、使われていなかったらしい。


「とはいえ、ジャズといえばアドリブ、アドリブといえばジャズというくらい、アドリブが大切なものやから、それを出来るようになろうと思うと、やっぱり時間は掛かる。そのために必要な音楽理論は、ゆっくり一年掛けて学んでいこうね」


「音楽理論って難しそうっす」


「でも、つぐみちゃんは和音だとか音楽の授業で習ったことをちゃんと覚えてたやん。もしかするとそういうのは得意んちゃう?」


「勉強は嫌いじゃないっす!」


 この台詞を七海に聴かせてやりたい。つぐみは、教則本を開くと熱心に読み始めた。書いてある挿絵に習い、弦の上でCコードの形に指を折り曲げる。


「もっと指は立てた方がええよ。指の腹の部分で他の弦を押さえてしまうと音が出なくなるから」


 ピックを見様見真似で握り込み、つぐみが力一杯腕を振り下ろした。ミュートされた鈍く小さな音がスタジオに響く。やはり上手く弦を押さえられていないらしい。


「指を立てるんっすか?」


「そう、こうやってぐっと関節を曲げて」


 つぐみに見えやすいようにギターを横向きにして、Cコードを押さえて見せた。みなこの関節は、弦に対して九十度の角度がついているため、他の弦には触れていない。つぐみは、まじまじとみなこの手元を覗き込むと、顔をしかめながら腕全体に力を込めた。


「うぅ……指が痛いです!」


「始めのうちは痛いだろうけど、そのうち慣れてくるから」


「ギターの道は厳しいっす!」


 指の力に限界が訪れたのか、ふわぁーと息を漏らしながら、つぐみはネックから手を離す。だらんと垂れたギターは左右に揺れて、まるでメトロノームのように見えた。


「ゆっくり練習を繰り返すしかないね」


「頑張ります!」


 こうしてつぐみの指導をしていると、初めてギターを触った時のことを思い出す。七海に誘われて初めたギターは、父の持っているアコギを借りるところから始まった。今のつぐみのようにギターの教則本を一ページずつクリアしていくところから始まり、休日には父の指導が入りながら、好きなアーティスト曲のコピーを通じて、気がつけば弾けるようになっていた。


 もう三年以上前のことだ。回顧は濁流のように押し寄せて、向き合わなくてはいけない目の前のものを攫っていく。つぐみに自分の昔話をしても意味なんてない、とみなこは心に纏わりつくそれらを振り払った。


 黙々と教則本と格闘する姿の懸命さを可愛く思えるのは、きっと自分が少しだけ大人になったからなのだろう。


「一年生のみんなとは仲良くなれた?」


「はい! すみれと佳乃とは仲良くなりました」


 教則本とにらめっこしていた顔をつぐみは持ち上げる。爽やかな笑みを浮かべて、三編みが弧を描く側頭部を恥ずかしそうに指で掻いた。「とは」ということは、他の面々とはあまりうまくいっていないのだろうか。


「愛華ちゃんとも仲良くしたいんですけど、あまり群れたがらない性格みたいで」


「そうなんや」


「無理やり引き込むのも気が引けるじゃないっすか」


 存外、冷静な側面があるのだな、とみなこは感心する。


 七海なら全員で仲良くした方が楽しいから、とすぐに取り込もうとしそうなものだ。というか、去年がまさしくそうだった。理由は様々だろうけど、距離を取ろうとしていた佳奈の懐に土足でズケズケと入っていき、問題となった。そういうところが七海の良いところでもあるのだけど。表裏一体となり得るからこそ、個性だと言えば、七海も少しは浮かばれるだろうか。


「そうかもしれない」


「せっかく同じ部活になったんですから、みんなでワイワイしたいんですけど」


 残念さを多く含んだ溜め息が、つぐみの手の中にあるピカピカの弦を錆びさせようと纏わりつく。つぐみが仮入部をしに来たあと、ギターを持っていないというつぐみのために、みなこが張り替えたものだ。


「去年も似たような子がいたなー」


「そうなんっすか?」


「うん。あんまり群れないタイプの怖い子でとっつきにくいなぁー、って思ってた」


「その人は辞めちゃったんですか?」


 みなこはそっと頭を振る。みなこが言う子が誰であるかを知りたそうに、つぐみが身を乗り出した。けど、名前を出すまでもなかった。その背後から、すんとした面差しをした佳奈がひょっこりと顔を覗かせたから。


「今日のミーティングって練習終わり?」


 問いかけられた質問に答えず、みなこは佳奈を指差す。つぐみはその指を追うように、パッと振り返った。


「何?」


 二人して同時に佳奈のことを見たものだから、佳奈は訝しいと言いたげに声を出して眉間に皺を寄せた。けど、つぐみと話していたことは秘密だ。だって、この一年間の付き合いで佳奈が不貞腐れるのは分かっているから。


「なんでもない」


 そう言って悪戯な表情を浮かべるみなこを見て、つぐみは可笑しそうに笑いをこぼした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る