第7話 渡り鳥


「おぉー、素敵な看板!」


 視聴覚室の前に出していた看板を見て、陽葵が目を輝かせた。休憩中なのか、体育館の方はすっかり静かになっていて、人がいる熱気だけが冷たい階段から流れ落ちてきていた。


「今日のライブは、ジャズバーがコンセプトで、二年生の美帆先輩と笠原先輩が作ってくれました」


「あっ、笠原先輩ってトロンボーンで個人賞取ってた人やんな?」


「そうです」


「あの人、めっちゃ上手やんなぁ。噂では、楽器を始めたんは高校からって聞いたけどホント?」


「みたいですよ。それまで音楽はやってなかったそうです」


「うひゃー、天才ってやっぱりおるんや。去年の段階でかなりの腕前やったって、朝日高校の先輩も言ってたわ」 


 並ぶと分かるけど、陽葵の身体は、みなこや佳奈より一回りほど小さい。動画で見ていた時は、堂々とした演奏っぷりで小柄には見えなかったけど。


「てかさ、」


 視聴覚室に入り、椅子を用意しようとしたところで、陽葵がみなこの顔を覗き込んできた。サラサラの髪からは、あまいシャンプーが仄かに香る。


「同い年なんやから敬語じゃなくて良くない?」


「あー、そう言えばそうやったね……」


 同じ学年であることは認識していたけど、動画越しの人という感じがして、自然と敬語になってしまっていた。不服そうな陽葵の表情が、みなこのフランクな言葉を聞いて、すっと柔らかくなっていく。


「呼び方も陽葵でええから」


「じゃあ、陽葵ちゃんで」


 暖房がよく効いている視聴覚室は温かく、陽葵はすぐにコートを脱いだ。丁寧に折りたたみ机の上に置き、首だけで視聴覚室内をぐるりと見渡す。


「これって本番は照明を落とすんでしょ?」


「そのつもり」


「飾り付けも丁寧やし、暗くなればホンマにジャズバーみたいな雰囲気になってるよ」


「ホント? ありがとう」


 彼女の言葉がスタッカートのように弾んでいるのは、ライブへのワクワクを隠せていないからだろう。みなこの予想は的中していた。陽葵の表情は明るいまま、「ライブ楽しみやなぁ」と素直な言葉を漏らした。


「それで私に話って?」


 ポニーテールの先に指を滑らせ、椅子に腰掛けながら、佳奈がとつとつと言葉を吐く。隠しているようだが、にじみ出る不機嫌さにみなこは気づいていた。溢れ出るその感情の根源は、陽葵への敵対心に他ならない。


「友達になりたくて」


「友達……?」


「そ。せっかく同じ県内で、同じ楽器やってるんやから仲良くしたいやん? 失礼な物言いかも知れんけど、実力だって同じくらいのものを持ってる、と私は思ってるし。まぁ、私の住んでるところと宝塚市じゃ、ちょっと距離はあるんやけどさ」


 陽葵が通う朝日高校は、兵庫県の瀬戸内海側に位置していて、明石海峡大橋で有名な明石市と白鷺城で有名な姫路市のちょうど中間に位置している。ここからだと電車で一時間半ほどは掛かるはずだから、同じ県内とはいえ、決して近いわけではない。


 陽葵がゴソゴソと鞄の中を漁る。ブランド物ではない、ハンドメイドのお洒落な鞄だ。


「ほら、忘れないうちに連絡先、交換しとこう!」


 ぐいぐいと来る陽葵に、佳奈は完全に押され気味になっていた。思い出したのは、この春先、七海が佳奈との距離をぐっと縮めようとした時のことだ。人と関わることが苦手だった佳奈が爆発してしまったあの件を、まさに再現と言わんばかりに、陽葵は佳奈の懐へと気楽に入って行く。


 七海と陽葵の姿が重なるのは、その明るさと素直さのせいだ。陽葵の方がお洒落で清楚な雰囲気が漂っているけど、と加えると七海は拗ねてしまうだろうか。


「でも、急には」


「えー、断られちゃうの! ショックぅー」


 今度の陽葵の声色は、スケルツァンド、おどけてだ。言葉とは裏腹に、陽葵の内面は全然ショックを受けていない。可愛げを残したまま、悲しそうな皺を作っているだけ。それは他人から自分がどう見えているか、分かっている者の仕草に思えた。あざとさを半音落とし、愛くるしさを半音上げた音を、彼女は高度に使っている。


 諦め切れないと言いたげに、陽葵は鞄からスマートフォンを取り出して続けた。


「でも、なんとなく佳奈ちゃんってそういうタイプかと思ってたで」


「どうして?」


「音からそういう感じがひしひしと伝わって来てたから。独り美しく奏でる姿が似合う音というか。近寄らないで! って、まるで棘のあるバラみたいなタイプよ。……まぁ、笠原先輩のトロンボーンほどではないけど」


 ほどではない、という言葉を履き違えたらしく、佳奈の眉根にムキになった皺が寄った。机に肘を付き、陽葵の方へ身体を傾ける。


「確かに笠原先輩は上手やけど、私は負けたくないって思ってる」


「そんなこと分かってるって。これは上手い下手の話じゃなくて、音の資質というかさ……、その人が奏でる音に人間性が出てるというか」


 陽葵の言おうとしていることを、みなこはなんとなく理解できた。というのも、みなこも陽葵の性格を音から察していた口だ。桃菜や佳奈は、他者を寄せ付けないような力強い演奏をしているということだろう。


「独りよがりってこと?」と、無愛想な物言いで訊ねた佳奈に、陽葵がはっきりと首を振る。


「そういうのとちゃうから。佳奈ちゃんは、自分の奏でる音は、誰かによって支えられてる、ってちゃんと分かってるんとちゃう? ソロを飾るっていうのは、お神輿の上に立つみたいなものやろ? 下で沢山の人が支えてくれて初めて、その上で私たちは輝ける。リサイタルでも無い限り、ステージの上で孤独だなんてあり得ないことやから。私は、それをちゃんと分かってる人の演奏の方が好き」


 素直に向けられた好意に、佳奈は少しだけ照れているようだった。頬についた髪を耳殻へと運びながら、「みんなのおかげだとは思ってる」と佳奈は口をすぼめた。


「でしょー」


 ニタっと笑みを浮かべたと思えば、陽葵の視線はこちらへとパッと切り替わる。「えーっと、ギターのみなこちゃんだっけ?」と訊ねられて、「そ、そう」とみなこは慌てて首を縦に振った。


「あなたも連絡先交換しておこうよ。色々、情報交換できるやろうし」


「うん、いいよ。朝日高校の演奏も聴きに行ってみたいから、イベントがあったら連絡欲しい」


「オッケー、QRコード出してー」


 言われるがまま、みなこはスマートフォンを取り出して、陽葵に自身のIDが読み込めるQRコードを差し出す。申請通知の画面に表示された彼女のアイコンはサックスだった。背景からして自宅のようだから、恐らく自身で所有しているものなのだろう。


「さて、みなこちゃんは交換してくれたけど、佳奈ちゃんはどうなん?」


 どうやらみなこは出しにされたらしい。顔のそばでスマートフォンを振りながら、陽葵は佳奈の方へと顔を向ける。真っ黒な画面が照明の光を反射してキラキラと瞬いた。


「ほら、心配せんでも毎日電話したりせんからさ」


 まるで口説き落とそうとしているみたいだ。半年前の嫌な記憶が蘇る。けど、佳奈にはあの時と似た兆候は出ていない。それは、この半年間で佳奈の性格が寛容になったからだろうか。


 思えば、あの時の佳奈は褒められることを異様に嫌っていた。自身の夢と両親の夢に線引きが出来ずに苦しんでいたから。けど、プロになると目標を立てたことで、その問題は解消された。いまの佳奈が連絡先の交換を渋っているのは、シンプルに陽葵への警戒心と敵対心だろう。


 個人賞を争う相手と、どうしてフレンドリーにならなくてはいけないのだ、と思っているんじゃないだろうか。


「というか、松本さんは、なんで私と交換したいん?」


「やからー、私は佳奈ちゃんの演奏が好きやって言ったやんか」


 十分に褒めたというのにまだ不服なのか。鼻から短く吐き出された息には、そういうニュアンスが籠もっていた。寄った皺を隠すように左手で顎を擦りながら、平然とした声で陽葵は答える。


「それに佳奈ちゃんは私のライバルになる存在やから」


 その言葉は冗談でも空世辞などでもなく、とても真剣なものだった。真面目な顔付きのまま、佳奈を真っ直ぐに見つめて、陽葵は淡々と口を動かす。


「佳奈ちゃんくらいの実力なら、目指す所はプロなんじゃないの?」


 それは明らかに、同族に対する意思確認だった。あなたもこの海を渡るつもりなんでしょ? と、渡り鳥の陽葵が訊ねている。海の彼方にある大きな大陸へ向かって、彼女は大きく羽根を広げていた。


 その大きな羽根を佳奈はどう見たのだろう。迷いなく海の向こうを見つめる陽葵は、誰かと共に飛ぶことを恐れてはおらず、むしろ楽しみにしている。それは渡り鳥が編隊飛行をするのに近いのかも知れない。切磋琢磨をする方がより遠くまで行けると知っているのだ。


「松本さんも目指してるん?」


「もちろん」


 佳奈の問いに、陽葵はそう言い切った。佳奈の瞳が風で揺れる湖のように波をつくる。陽葵ならその風を上手く囚えられそうだ。


「なんで、プロに?」


「プロになって、私の音を世界中に知らしめたいの。私はこんなに素敵な音を出せるんやぞ、って。CDでもYou Tubeでもなんだって良いけど……。やっぱりお客さんの前で演奏する瞬間が最高やから。サックスを吹き続けて、死んでいければ、それが一番の幸せ」


 ようやくみなこは、陽葵の瞳が、どこか大人っぽい理由が分かった。それは、はっきりとした目標を持っているから。無謀な夢などではなく、己の実力を客観視して導き引き出された到達可能な目標。遠くにあるだろう「ブルーノート」という場所を目指すために、みなこに言われてプロを志す佳奈よりも、陽葵のプロを目指す理由は、自発的で、より明確で、迷いのないものに思えた。


 陽葵の瞳には揺るぎない自信がある。


 角膜の表面に張り付いたコンタクトレンズのような見せかけのようなものではなく、瞳の奥底の網膜までたっぷり自信に満ちた自信だ。


「私は佳奈ちゃんをライバルやと思ってる。今年の大会では、私が個人賞を貰えたけど、それは朝日高校全体が私を引き立ててくれたから。もちろん負けてるなんて思ってへんけど。佳奈ちゃんのサックスは、間違いなく高校トップの中の一人」


 陽葵が佳奈に向ける純粋なリスペクトとライバル意識。間違いなく佳奈を成長させるものだとみなこが確信したのは、立ち上がった佳奈の表情を見たからだ。


「私もプロになりたいって思ってる。いつかブルーノートで演奏をしたいから。それが私の夢で憧れ」


 見上げる陽葵とみなこを真っ黒な瞳が映し出す。陽葵に対して放った佳奈の宣誓が、彼女自身の音楽との向き合い方を一つ昇華させたように見えた。まるで雛の巣立ちだ、なんて思うと可笑しくて笑いがこみ上げそうになる。


 陽葵も同じことを感じたのか、ニタっと口端を釣り上げた。


「それじゃ、連絡先よろしく」


「う、うん」


 交換に戸惑っているのは、人見知りな性格のせいだろう。変わらないそれが佳奈らしく、みなこは少しだけホッとした。

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