第6話 陽葵

 ライブ本番の日の街は、腹立たしいほどクリスマスの雰囲気に染められていた。もちろんクリスマスなのだから仕方ないけど。頬を叩く冷たい朝の風が、神聖に感じるのも、きっとクリスマスの魔法のせいだ。数週間前に掛けられた魔法は、徐々に効力を増して、世界中を飲み込んでいる。あと数十時間でパッと消えてしまう魔法に、多くの人がうっとりと酔いしれてしまっている。


 だが、どうも煽られている気分になるのはどうしてだろう。嫌でも入ってくるクリスマスというものを遮断したくて、悪あがきのように、みなこはイヤフォンから流れる音楽に集中した。


 煽られている理由をみなこは既に知っている。冬休みが始まっていて、さらに本番後ということで明日は部活が休みになっているため、鞄の中には航平への誕生日プレゼントが入っているからだ。「どういうつもりで選んだんだい?」と例の魔法を掛けた悪い悪い魔女が、せせら笑ってくる。「だから幼馴染に渡す用だ!」と何度も言っているのに。


 選んだのは金管楽器用のクロスで、有名な犬のキャラクターがデザインされたものだった。コラボ商品らしく、犬小屋の上に座って呑気にラッパを吹いている。それを聴く黄色い小鳥の上には愉快な音符が踊っていた。


 学校へと続く雲雀丘の長い坂を見上げる。すっかり葉が落ちた木、薄い雲の掛かった真っ白な空、白い吐息が視界に広がる。灰色のマフラーで口元を覆って、首元を温めるようにみなこは息を吐いた。大きな門を構えた家には、幼い子どもがいるのだろう。大きな袋を抱えたサンタがベランダをよじ登るイルミネーションが施されていた。朝だから色は着いていないけど。


「集合時間までまだまだ余裕あるなぁ」


 今週から朝練を始めていたみなこは、毎日予約のアラームに起こされて、集合時間よりもずっと早く目を覚ました。寒かったけれど、習慣づける為だと自分を厳しく律してベッドからなんとか這い出た。それでも流石に早すぎるので、母が作ってくれたフレンチトーストとカフェオレを優雅に頂き、クリスマスに盛り上がる週末の情報番組をぼんやりと眺めてから家を出た。


 集合時間は十時。いまは八時時過ぎ。事前に準備をしていたので、当日にやらなくちゃいけないことは、音の最終チェックとお客さんに出す食べ物の準備くらい。まだ誰も来ていないだろうから視聴覚室を独占だ、とみなこは職員室で鍵をもらった。



 *


 小一時間ほど練習を続けていたみなこは、休憩がてらに飲み物を買いに出た。視聴覚室は体育館の一階にあり、昇降口の方まで行けば、上層階で練習に励むバスケットボール部の声が聴こえて来た。体育館の床にこすれる靴の音と軽いボールの音が、どこか張り詰めた冷たい空気に混じり合う。開きっぱなしの扉の向こうから吹き付けてくる風を受けて、コートを来てくれば良かったと後悔した。


 ミネラルウォーターを手に持っているせいで身体を摩ることも出来ず、小走りで視聴覚室に戻ろうとしていると、「おはよう」と声を掛けられた。


「おはよう。佳奈、早いな」


「みなこの方が早いやん」


「まぁそうやけど」


 頬が赤らんでいるのは、長い雲雀丘の坂を吹き下ろす風を浴びたせいだろう。背負っているシルバーのサックスケースは、最近買ったおニューのものらしい。


「みなこが一番?」


「そうそう。佳奈は二番」


 みなこがいたずらな表情をしたことが腹立たしかったのか、佳奈が吐き出す白い吐息の量が増えた。「朝は苦手やねん」とこぼす佳奈に、「知ってるよぉ、合宿の時も起きれないて駄々こねてもんなー」とみなこはさらにからかいの言葉を飛ばす。


「別に駄々はこねてへんでしょ」


「そうやったっけ?」


 ふんと鼻息を荒くして、佳奈はくるりと体育館の方へ身体を向けた。普段は持ち歩かない大きな紙袋には今日の衣装が入っているに違いない。黒のワンピースとバーテンダー風の黒のスラックスだ。


「佳奈はなんでこの時間に来たん? 集合時間まではまだ一時間くらいあるけど?」


 佳奈の足は止まる。校門をアーチのように覆う、今はすっかり裸の桜の木を見つめながら、彼女はポツリと溢した。


「なんとなくみなこが来てそうな気がしたから」 


「へぇー。嬉しいこと言ってくれるやん」


「それと朝が苦手と言えど、さすがにいつもは起きてる時間やから暇やったの!」


「はいはい」


 睨むような視線は桜の木からこちらに切り替わる。佳奈からみなこまでの間に漂っていた透明な冬の粒子たちが、慄くようにさっと道を譲ったのか、やけにその眼差しは熱く感じられた。健気さを孕んだ佳奈の瞳は、どこかにまだ少女を宿している。瞳の奥底で煌めいているのは、純粋さと恥ずかしさの残滓だろう。可愛らしいと言えば、また彼女を怒らせてしまうから、そんなことは言わないけど。


 その可愛らしさも、すぐに呆れたようなため息に飲み込まれて身を潜めてしまった。「その格好じゃ寒いやろ? はよ、視聴覚室行こ」と、大人っぽい面差しがみなこを見つめる。背中のサックスケースを背負い直し、佳奈のローファーがゴツゴツと不細工なコンクリートとぶつかり乾いた音を鳴らした。


 自分の中にも佳奈の瞳に潜んでいた少女がいるのだろうか。いるとすれば、幼馴染と大人な付き合いが出来ない自分に違いない。そいつもやはり純粋さと恥ずかしさの化身だ。可愛らしいなんて佳奈に向かって思った言葉を訂正しなくてはいけない。まるで自己肯定をしているみたいで気持ち悪いじゃないか。


「おーい!」


 グラウンドから聞こえるサッカー部の声に混じる女の子の声が、みなこの思考を止めた。顔を上げると、佳奈がこちらを振り返りながらやけに驚いた顔を浮かべている。


「おっ! 気づいてくれた! おーい!」


 繰り返される元気ハツラツな声のする方を振り返ると、校門の前で一人の女子生徒がこちらに向かい手を振っていた。クリーム色のチェスターコート、ブラウンのロングスカートは見たことのないものだ。けど遠巻きでも、彼女が誰かは分かった。


「松本陽葵ちゃん?」


 どうやら耳がすごく良いらしく、ついみなこが口走った名前を彼女は聞き逃さなかった。


 彼女は嬉しそうに声を上げる。


「おっ! 私のこと知ってくれてる!」


 反応してしまった以上、無視するわけにもいかず、みなこと佳奈は校門の方へと歩み寄った。横にいる佳奈から妙なオーラが出ていることには気がついたが、そちらは無視することにした。どちらかを選ばなくてはいけない。突然の来訪ではあるが、彼女がお客さんである以上、申し訳ないが選ぶなら彼女だ。


「良かったー、気づいてくれて」


「どうしたんですか?」


「あれ? 私が今日、あなた達のライブを観に来ること伝わってない?」


「それは知ってますけど、まだ開場時間じゃないですよね?」


 開場どころか、まだ部員の集合時間でもないのだけど。みなこの言葉に、彼女はニッコリと笑みを作った。長い髪を冷たい風に自由に靡かせ、ミトン型の可愛らしい手袋に覆われた陽葵の手が校門の柵を掴む。


「佳奈ちゃんに会えるかなぁと思って」


「私に?」


 意外、と言いたげな声が佳奈から漏れる。なるだけこちらに近づくように、陽葵は可愛らしい仕草で半歩、スニーカーを鳴らした。


「JSJFの宝塚南の演奏を聴いてん! 上手いサックスの子がおるなぁって思って。それでずっと会ってみたんやけど、先輩から宝塚南がクリスマスライブするって聞いてさ」


 どーっと捲し立てられた言葉にみなこと佳奈は少し気圧された。柵越しに見る陽葵の瞳には、純粋さこそ浮かんでいるけど、恥ずかしさは微塵も見えず、無邪気さは七海のそれと同じくらいあった。


 けれど、どこか大人っぽく見えるのはどうしてだろうか。その理由を知りたくて、みなこは底が良く見える透き通った瞳の奥をさらに覗き見る。


「松本さん待って、」


「何?」


「私たちが聞いてるのは、まだ時間ちゃうのになんで来たんってこと」


 だから言ってるじゃないか、と言いたげに、陽葵はふっと息を漏らした。艶のある眉根にわずかに皺が寄る。


「佳奈ちゃんと話したかったの!」


「私と?」


 不思議そうなニュアンスを孕んだ佳奈の言葉を、陽葵はさらに不思議そうに聞いていた。うーん、と喉を鳴らしながら門を握る手に力を込める。


「そういうわけで出来れば入れて欲しんやけど、ダメ?」


 みなこと佳奈は二人で顔を見合わせる。「先生に確認してみないと」とみなこが呟くと、「お願いー」と彼女は神社で神頼みをするように手袋をパンッと合わせた。

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