第8話 クリスマスライブ ラブストーリー

 部員が集まり出して、陽葵は視聴覚室をあとにした。駅まで同級生が来ているから迎えに行くらしい。何度も雲雀丘の坂を上り下りする元気は尊敬に値する。


 本番前、最後のリハを兼ねた音の最終調整を終えて、部員たちは更衣室で着替えを行った。女子は、体育館一階のグラウンド側にある普段は体育の時間に使っている更衣室、男子は控室となっている第二視聴覚。一公演目は一年生がステージの番からなので、みなこは、黒を貴重としたワンピースを身に纏った。


「おぉ、一年生は黒のワンピースで統一かぁ。お洒落でカッコいい!」


「俺と大西はパンツスタイルですけどね」


「大西ちゃんはドラムだもんね」


 懐柔された猫のように、杏奈の手の中で七海がコロコロと顎を揺らす。黒シャツでビシッと決めた二人のネクタイは、航平が黒のスリムなもの、七海が白いストライプが入ったワインレッドのものだ。


「谷川ちゃんもワンピースよく似合ってるよ」


「あ、ありがとうございます」


「胸元の白いレースがちょっぴりセクシーで可愛い!」


 照れくさそうに奏は頬を掻く。けど、直様お返しと言わんばかりに、「杏奈先輩もバーテン姿、似合ってますよ!」と目を輝かせた。

 

「そうかな? ネクタイとか結ぶの初めてで戸惑ったわ」


 踵を浮かせながら、杏奈は自分の全身を見下ろした。細く背丈もそれなりにあり、鼻筋もしっかりしている杏奈は、奏の言う通りネクタイが良く似合っている。


「うちはネクタイ自分で結んだんですよー」


「おー、大西ちゃんやるね!」


「靴紐は幼稚園生の時から結べてましたからね! 結ぶのは得意なんです」


「なら、あやとりも得意そうやなぁ」


 二人はよく分からない会話を弾ませながらケタケタと笑っていた。


 *


 本番の三十分前。二年生は、バーの準備とお客さんの入場の為に出払い、他の一年生も駆けつけた友人や家族のところへ行った為、控室で航平と二人きりになった。ライブが終わってからは、打ち上げもあるだろうし、チャンスは今しかないと、みなこは鞄の一番上に仕舞ってあった紙袋を取り出す。


「はい、航平」


 ぶっきらぼうに名前を呼び、紙袋を突き出した。事前に誕生日プレゼントを渡すと宣言していたので、彼は特に驚くことなく、「ありがとう」と言って紙袋を受け取る。佳奈のアドバイスは正しかったというわけだ。


「てか、今日なんやな」


「だって、明日は休みやんか」


 文句があるなら上げない、とみなこが口を尖らせれば、「しかと受け取らせて頂きます」と航平はおどけた声を出した。


「中身、開けてええの?」


「別にええけど、中身は航平の注文通りクロスやで?」


 航平が紙袋から中身を取り出す。赤と緑の包みに金色のリボンでラッピングされていて、包装は完全にクリスマス仕様だ。「俺のプレゼントは、いつもこの色やなぁ」と嘆き微笑みながら、航平はリボンを解いた。


「おっ、可愛いやん」


 広げられた白地のクロスが、航平が着ている黒のスーツに良く映えた。犬のキャラクターを気に入ってくれるだろうか、と不安だったが、いらぬ心配だったらしい。


「早速、使うわ」


 机に置いていたトランペットを手に取り、彼は真剣な顔つきで磨き始める。艶が出たベルに大人びた服装の自分たちが歪んで映り込んだ。


「よし、綺麗なったで」


「ホンマや。気に入って貰えてよかった」


 横隔膜の下辺りが妙に温かい。作り笑いを浮かべながら、胸へとこみ上げてくる温もりを誤魔化すように、みなこは自身の二の腕を掴んだ。何かを探し求めて、みなこは少し上にある航平の顔を、おずおずと見上げる。


 みなこが上げたクロスを嬉しそうに見つめ、トランペットを握るスーツ姿の航平。大人っぽい服装にはアンバランスな子どものような無邪気な笑顔。熱いものがジリジリと胸を焦がす。贈り物に悩んでいた理由。それに気づかないフリをしていた自分。こみ上げて来ていた温もりの正体は、誤魔化すことの出来ない嬉しさだった。


 もうこの感情に嘘はつけない、とみなこは心臓が高鳴ることに許可を出し、心の中で短い二文字を呟いた。


「そうや、」


 みなこの心の声は航平の声にかき消される。手に持っていたトランペットを机に置き、クロスをその上に重ねて、彼は自身のエナメルバッグを漁りだした。

 

「どうしたん?」


「ほら、プレゼントくれるって言うから、お礼にと思ってさ」


 航平がバッグから薄桃色の紙に包装された小包を取り出す。


「いやいや、誕生日に定期入れ貰ったからお返ししたんやんか」


「そうやったっけ? ほんなら普通にクリスマスプレゼントってことで」


 ほい、と手渡され、みなこはおもむろに両手を出す。まるで体育館で表彰状を受け取るみたいだ。観客はいないけど。妙な照れくささを押し殺しながら、「ありがとう」と呟き、重さのないプレゼントを受け取った。


「開けていい?」


「もちろん」


 丁寧にシールを剥がし包装を解く。真っ白なケースを開ければ、ビニールに包まれた綺麗なクリーム色が顔を覗かせた。

 

「マフラー?」


「新しいの欲しいって言ってたやろ? もしかして、もう買ってもた?」


 みなこはすかさず首を振る。問題を先延ばしにするのは、ほつれたマフラーだって同じだ。買おうと思っているだけで、行動には中々移さない。箱からマフラーを取り出し、首に巻いてみせた。


「どう?」


「似合ってるで」


「そ、ありがとう」


 綻んだ口元をマフラーに潜ませる。吐いた息はやけに熱く、少し大きめに開いた胸元を温めた。薄い布越しに、ドキドキと弾む心臓の音が、聞こえてしまわないかだけが心配だった。



 *


 ざわめきが扉の向こうに聴こえる。鼓膜を揺する緊張の鼓動、慌ただしく往来する照明係の大樹と里帆が扉を開ける度に、ペンダントライトの明かりで雰囲気作られた客席が目に入り緊張感を高めていく。


「本番五分前! そろそろ袖に移動しておいてね」


 めぐの肩を里帆がぽんと叩いた。綻ばせた笑顔は、こちらの緊張を察して、和らげてあげようという意図を感じる。里帆は笑顔を崩さないまま、パーテーションで客席と区切られた袖へ続く扉を半開にして、控室から出て行った。


「うぅ、緊張する」


「七海はいっつもやな」


「七海ちゃん、お腹は大丈夫?」


「今日は、お腹は平気!」


 えっへんと威張った声で、七海は奏に向かい溝落の辺りをぽんと一つ叩いた。わずかに歪んだネクタイを、めぐが「もー曲がってもうたで」と直してやる。


 本番前に漂っている空気は刺々しい。空気中の粒子が、みんなの緊張で擦り減って尖ってしまっているのかもしれない。肺に取り入れれば、チクチクとした痛みを伴う。ぼわぼわと脈に合わせて揺れる視界と意識を平常に保つ為に、みなこは肺に溜まった引っ付き虫みたいな空気を全部吐き出した。


「学年リーダー、掛け声お願い」


 航平の言葉に、めぐが可愛らしい顔を引き締めて頷いた。本番のためか、衣装に合わせてか、今日はツインテールを下ろしている。円陣を促すようにめぐが手を突き出せば、真っ黒な長い髪が、大きく開いた肩から覗く彼女の綺麗な鎖骨を撫でた。


「今日のクリスマスライブが、今年最後のイベントです。その一公演目を私たちに任せてもらえました。……今日のステージには先輩はいません! お客さんは、私たちのことを観に来てくれています。クリスマスの楽しさを、華やかでちょっぴり切ない思いを、届けられる素敵なステージにしましょう!」


「おー!」


 *


 パーテーションの向こうの空気感がいつもと違うのは、お客さんが飲食をしているせいだろう。お酒こそ出していないが、ソフトドリンクとお菓子のおかげで、視聴覚室内はすっかりバーでのパーティーといった雰囲気が作られている。照明がじわじわと絞られて、にぎやかな話声が歓声に変わっていった。


 めぐを先頭にステージへと上がっていく。拍手が心臓の音をかき消した。


 いつもより少し明るめの客席。透明なプラスチックのコップに黄金色や紫、焦げ茶色の液体が光り、甘いチョコレートとバターの香りが鼻孔をくすぐった。カラフルなペンダントライト、百円均一で揃えたフェイクグリーンの飾り、テーブルとカウンターを覆う木目のシート。ここが宝塚南のスピークイージーだ。


 まだ座席についていないお客さんが視界の隅でちらつく。カウンターで飲み物をお代わりしているらしく、バーテン姿の杏奈がにこやかな表情で接客をしていた。その隣では、少し戸惑いながら、桃菜が紙皿にお菓子を盛り付けている。どうやら、接客ではなく厨房担当になったらしい。


 めぐがステージの中央で深く頭を下げると、まばらになりつつあった拍手がまたどっと湧いた。その拍手が静まらない内に、めぐは堂々とした足取りで、ピアノの方へ移動していく。ミモレ丈のスカートを丁寧に折り、椅子に座ると、バンド全体を見渡した。


 バラバラだった全員の呼吸が自然と一つになっていく。いつでも入れる、その自信がみなこの指先を温める。


 七海のカウントに合わせ、奏のウッドベースがリズムを刻んだ。ミドルテンポの軽やかなベースライン。そこに、めぐのピアノが『ジングルベル』のイントロを奏でると、バーの中に柔らかな粉雪のような音の粒が会場に降り注いだ。その真っ白な上をトランペットのソリが走り出す。


 スポットライトの中に、里帆が操作する温もりのある赤い光が混ざり合う。揺れる赤は、暖炉の前で蓄音機に耳を傾けているような安心感があった。煙突の向こうに広がる空には、子どもたちの為にプレゼントを配るサンタがいるはずだ。鳴り響く楽しげな鈴の音色は七海のシンバル。機嫌よく駆けていこうとするトナカイでもある七海に、みなこと奏がリズムの手綱を引き締める。


 この日のテーマでもあり、何度も登場することになる『ジングルベル』のサビのフレーズを、佳奈のサックスが印象付けていく。だけど、まだ盛り上げ過ぎてしまわないように、少し落ち着いた雰囲気で。楽しげで陽気なはずのメロディは、佳奈によって、優しく繊細なメロディに生まれ変わっていった。


 曲は途切れ目を作らないまま、メドレー形式で『I’ve Got My Love To Keep Me Warm』へと入っていく。


 トランペットとサックスの柔らかな雄叫びからギターがムーディーなメロディを刻む。ジングルベルのメロディを世襲しためぐのピアノが、曲の背後で時折顔を覗かせて、曲をクリスマスカラーに染めていく。


 みなこの胸を温めているのは、気づかないフリをしていたものだ。身体がどれだけ熱くなって、コートや手袋を脱ぎ捨てたとしても、マフラーだけは、とみなこはメロディの中で呟いた。


『SLEIGH RIDE』とめぐの挨拶を挟み、佳奈がすっと舞台の中央へと歩み出る。


 輝く瞳がみなこの隣を横切っていく。一瞬だけ彼女と視線がぶつかった。不安と自信、恐怖の期待が渦巻く鮮やかな瞳。その奥を垣間見るにはあまりに一瞬で……。客席の方を向いた瞳は何を移しているのだろう。自分を観に来た陽葵の姿か。遠い未来、ブルーノートから見る客席の光景か。


『イパネマの娘』


 ギターとピアノの静かなアルペジオ。そこにサックスのメロディが重なる。絞られた照明は、少しだけアダルティな雰囲気を演出し、降り注ぐ一本のスポットライトが黒のワンピース姿の佳奈を大人っぽく輝かせた。悶えるようなビブラート。佳奈のアドリブを感じながら、みなこもソロを奏でる。


 もう一度、MCを挟み、今回の目玉である奏のノラ・ジョーンズへと移っていく。


 奏の歌声が会場に響くと、どっと客席が湧いた。優しく少しだけハスキーな歌声。一瞬だけ、「目立ちたいだけのカラオケのつもりか?」、なんて疑問を抱いたお客さんを瞬く間に魅了するだけの歌唱力が奏にはあった。


 始めは恥ずかしそうにしていたのに、ステージに立てば、気持ちが自然と切り替わるらしい。堂々とした歌いっぷりで、奏はノラ・ジョーンズを二曲歌い上げた。接客をしている二年生たちも、その歌声に酔いしれているようだった。


 奏がポジションに戻り、準備をする一瞬、照明が絞られた。流れる静寂。暖房の効いた暖かな部屋は、緊張感を張り巡らせたまま。全員が息を飲んでいるのが、全身の細胞に伝わってくる。これが本番の緊張感だ。この感覚を味わうのはまだ数える程だけど。でも、この感覚がたまらない。


 真空パックで閉じられた静かなライブ会場。そこに音楽が広がっていく瞬間、宇宙の始まりのような衝撃が鼓膜を揺する。それこそがライブで、みなこはその瞬間がとても好きだった。


 奏の準備が終わったらしく、わずかに照明が灯り、曲は『Here’s Why Tears Dry』へと移っていった。


 奏のエレキベースが暗闇の中をしっとりと漂う。メロディアスなサックスとトランペット、そこに溶け込むようにエレキギターのソロを感情的に奏でる。追ってくるドラムに煽られて、みなこは高ぶる感情のままアドリブに身を委ねた。


 テーブルの上で半分ほどになった飲み物が煌めく。照明の角度が変わるたび、カラフルなプリズムを放つ景色は、夜空を彷徨う流星群の光に似て儚く、クリスマスの彩りに似て切ない。


 ふと、航平はどう思っているのだろう、とみなこの脳内にクリーム色のマフラーが浮かんだ。


 ――あれは幼馴染に贈る為のプレゼントなのだろうか。


 みなこはそっとステージの端の航平を視界に入れる。真っ黒なシャツ、捲られた袖、結局羽織られなかったジャケット。緩やかなリズムに合わせて、メトロノームのようにネクタイが揺れている。唸るトランペットに、みなこはメロディを譲った。


 流れる音楽も漂う埃の匂いも肌を温める温度も、クリスマスの魔法に掛けられて、身勝手なトキメキに胸を弾ませている。結局、自分はその魔法には抗えなかった。だから,この胸の高鳴りも、クリスマスの吊橋効果でしかなく、あと少しで消えてしまうものなのだろう。そう思うと無性に悲しくて、寂しい。


 耳朶を打つトランペットの優しい音が、あの日、湖岸で聴いたあの音と重なっていく。


 けど、「もしかしたら……」、そんな思考が止まらない。悲しみや切なさが、期待に似た感情に飲み込まれていく。わざわざマフラーなんてくれた意味を深読みしない方がどうかしているじゃないか。これはアプローチというやつなのか。だとすれば、航平もまたクリスマスの魔法に掛かっているだけなのかもしれない。


 ……違う。だって、航平は夏頃にみなこに定期入れをくれた。だから、クリスマスは関係ないのだ。航平だけは、クリスマスの魔法に掛かっていない。なんとなくそんな気がする。足元に視線を落とせば、引かれていたはずの幼馴染の線は、すっかり消えて見えなくなってしまっていた。


 思いがちぐはぐになって、脳内に浮かんでいたマフラーをみなこは乱雑に振り解く。首元の温もりが、パッと風にさらわれて、思考は一旦打ち切られた。気づけば、めぐが最後のブロックで演奏する曲の紹介をしていた。


「……時折、帰ってくるジングルベルのメロディでクリスマスの素敵な雰囲気を感じて頂けていれば幸いです。……というわけで、楽しい時間はあっと言う間でした。まもなく終演が近づいてまいりました。最後に、『Time Check』とクリスマスの定番ソングである『あわてんぼうのサンタクロース』の二曲をお聞きください」


 先程までの穏やかさを一気に打ち消すように、『Time Check』が始まる。猛烈なスピードで音階を、駆け下りてはまた駆け上がっていく。佳奈は間違いなく大会での陽葵の演奏を意識しているはずだ。今の私の演奏を見て、と言わんばかりの吹きっぷりに、客席は拍手を送った。


 航平が積極的にプレゼントをくれる訳を、幼馴染だからだと切り捨ててしまうのは失礼なことかもしれない。それに、もしそれが、みなこの勘違いだったとしても、気づいてしまった自分の気持ちには嘘はつけない。


 曲の盛り上がりと共に、みなこはまた繰り返している思考をやめた。このテンポはよそ事を考えながらでは弾けない。それに考えていても仕方のないことだ。魔法が解けるかどうかは、待っていれば分かる。……でも、もし解けなかったとすれば。その時は、バレンタインにチョコレートでも渡してみよう。気持ちは伝えないから、あくまで幼馴染の友人に贈る義理としてだけど。


 そう思えたのはきっと、幼馴染の境界線を越えて、好きの谷底へ落ちてしまうことは少しも怖くなかったからだ。



 ☆


 宝塚南 第一回 クリスマスライブ セットリスト

 

 ・『ジングルベル』~『I’ve Got My Love To Keep Me Warm』

 ・『SLEIGH RIDE』

 MC

 ・『イパネマの娘』

 MC

 ・『Don’t Know Why』

 ・『What Am I To You?』

 ・『Here’s Why Tears Dry』

 MC

 ・『Time Check』

 ・『あわてんぼうのサンタクロース』 

 アンコール

 ・『モーニン』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る